六月一日の風
六月一日の風
六月一日の朝だった。
昨夜から降り続いた小糠雨が、まだ静かに町を濡らしている。
窓を開けると湿った風が頬を撫でた。
雨の匂い。
土の匂い。
青葉の匂い。
春から夏へ季節が移ろう独特の香りだった。
七十二歳の佐伯富子は、縁側に腰掛けながら湯飲みを両手で包んだ。
緑茶の湯気が立ち上る。
庭のガーベラが雨粒を乗せて揺れていた。
「もう六月かあ」
富子は独り言を漏らした。
更衣の季節だった。
昨日まで着ていた厚手のカーディガンをしまい、今日は薄い水色のブラウスを着ている。
胸元には小さな白い花の刺繍。
長年着ているお気に入りだった。
居間の柱時計が七時を告げる。
台所からは炊き立てのご飯の匂いが漂っていた。
朝食は昨夜の残りの味噌汁に、焼いた鮎の干物。
大根おろし。
漬物。
質素だが富子の好きな献立だった。
テレビをつける。
天気予報のお姉さんが微笑んでいた。
「関東地方は本日、梅雨入りが発表される見込みです」
「やっぱりねえ」
富子は頷いた。
空を見れば分かる。
何十年も生きていると空気で季節が分かるようになる。
食事を終えた頃、玄関のチャイムが鳴った。
訪ねてきたのは近所に住む吉岡千代だった。
同じ七十代の友人である。
「富ちゃん、田んぼ見に行かない?」
「田んぼ?」
「田植え終わったばかりなのよ」
富子は笑った。
「いいわね」
二人は傘を差して歩き出した。
道端の蔦は青々と茂り、濡れた葉が光っている。
田んぼへ近づくと、蛙の鳴き声が聞こえ始めた。
大きな蟾蜍が畦道をゆっくり横切る。
「大きいわねえ」
「立派だこと」
二人は顔を見合わせて笑った。
田んぼには若い苗が整然と並んでいる。
水面に灰色の空が映り込み、風が吹くたび小さな波紋が広がった。
「綺麗ね」
富子は呟いた。
「昔は当たり前だった景色なのに」
「年取ると何でも綺麗に見えるのよ」
千代が笑う。
その言葉に富子も頷いた。
若い頃は忙しかった。
子育て。
仕事。
家事。
毎日が戦争だった。
田んぼを見て立ち止まる余裕なんてなかった。
昼近くになると雨が上がった。
雲の切れ間から陽射しが差し込む。
遠くで河鹿が鳴いている。
澄んだ声だった。
まるで小さな鈴を転がしたような音色である。
「聞こえる?」
「河鹿ね」
富子は目を細めた。
「いい声」
その帰り道だった。
麦畑の前を通る。
黄金色に色づいた麦が風に揺れていた。
麦秋。
収穫を待つばかりの景色である。
子供の頃、この麦の茎を切って笛を作ったことを思い出した。
「麦笛吹いたことある?」
富子が聞く。
「あるわよ」
「懐かしいわね」
二人はしばらく思い出話に花を咲かせた。
午後になると孫の優花が遊びに来た。
小学四年生である。
ランドセルを放り出して居間へ飛び込んできた。
「おばあちゃん!」
「いらっしゃい」
「金魚元気?」
優花は庭の水槽へ駆けていく。
赤い金魚が尾ひれを揺らして泳いでいた。
「元気だね!」
「毎日ご飯あげてるからね」
優花は嬉しそうに覗き込んでいる。
その姿を見ているだけで幸せだった。
夕方。
富子は台所に立っていた。
今夜は夏大根を使った煮物。
鮎の塩焼き。
豆腐の味噌汁。
胡瓜の浅漬け。
食卓には季節の匂いが並んでいた。
魚が焼ける香ばしい匂い。
味噌の香り。
大根の甘い匂い。
窓の外では黄雀風が木々を揺らしている。
初夏の風だった。
優花が鮎を見て歓声を上げる。
「美味しそう!」
「ちゃんと骨気を付けるのよ」
「はーい!」
食卓に笑い声が響いた。
何気ない夕食だった。
豪華でもない。
特別でもない。
けれど富子は思った。
こういう時間が幸せなのだと。
六月一日。
梅雨入りの日。
雨に濡れた青葉。
田植えを終えた田んぼ。
黄金色の麦秋。
河鹿の声。
鮎の香り。
金魚の泳ぐ水槽。
そして家族の笑顔。
窓の外では再び小糠雨が降り始めていた。
富子は湯飲みを手に微笑む。
「今年の夏も楽しみだねえ」
優花が元気よく頷いた。
「うん!」
その返事が、六月の始まりに何より似合う音だった。
6月1日
更 衣
田 植
梅雨入
蟾 蜍
麦 秋
青 葉
麦 笛
夏大根
小糠雨
鮎
ガーベラ
河 鹿
五月忌
鮎
蔦青し
梅雨に入る
麦 秋
黄雀風
金 魚




