表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/54

「青蔦の這う部屋で」

「青蔦の這う部屋で」


 降り続く雨が、吉野の古い町並みをしっとりと濡らしていた。五月三十一日は「五月尽」。明日からはもう六月だというのに、肌寒さは冬の名残りのようで、空は鈍色に沈んでいる。この地域もついに、待ちに待たぬ「入梅」を迎えていた。

 二十八歳になる実希は、祖母の古い木造家屋の二階で、一人ぼんやりと外を眺めていた。窓の外には、雨に打たれて生き生きと輝く「青蔦」が、壁一面を覆うように這い上がっている。「青葉」が放つ、青臭くも瑞々しい匂いが、湿った風に乗って部屋の中にまで流れ込んできた。


「実希、お昼のご飯、できたわよ」


 階下から、祖母の澄子の穏やかな声が響いた。

 実希は「はい」と短く返事をして、身にまとっていた生成りのリネンブラウスの袖を少し捲り上げながら、階段をトントンと下りた。履いている藍染めのコットンスカートが、歩くたびにカサカサと柔らかな音を立てる。

 一階の居間には、もう長年使い込まれて端が少し擦り切れた「円座」が二つ、畳の上に並べられていた。

 座卓の上には、湯気を立てる大皿が乗っている。今日の昼食は、今が旬の「蚕豆」をたっぷり使った塩茹でと、それをすり潰して和えた素麺だった。


「わあ、美味しそう。やっぱりこの季節は蚕豆だね」

「そうよ。この薄皮を剥くときの、あの独特の香りが大好きなの。ほら、熱いうちに食べなさい」


 澄子はそう言って、実希の皿に蚕豆を小高く盛った。

 実希は親指の腹で、茹で上がったばかりの熱い蚕豆の殻をぷちりと破った。中から、鮮やかな黄緑色の実が顔を出す。口に運ぶと、ほくほくとした食感とともに、濃厚な甘みと、少しの渋みが舌の上に広がった。出汁の効いた冷たい素麺をすすると、喉越しがひんやりとして、初夏の訪れを実感させる。


「そういえば、お庭の『ぼうたん』は、もうすっかり散ってしまったね」

「ええ、五月の初めにはあんなに大輪の花を咲かせていたのにね。でも、今はほら、裏庭の『バラ』が見頃よ。雨に濡れて、色が変わって見えるわ」


 澄子が指差す先、ガラス戸越しに見える小さな庭には、大粒の雨に打たれながらも、健気に深紅の花を咲かせる薔薇が一本、静かに佇んでいた。その姿は、どこか物憂げで、けれど凛とした強さを持っている。


「明日はもう六月か。なんだか、五月が終わるのって、少し寂しい気持ちになる」

「五月尽、だものね。春の名残りが完全に消えて、本格的な夏に向かう節目だから、人の心も少し揺れるのよ。そんな時は、これでも嗅いで落ち着きなさい」


 澄子は袂から、小さな「掛香・匂ひ袋」を取り出した。上品な西陣織の裂地で作られたその袋からは、白檀や丁子の甘く、どこか懐かしいお香の香りが漂ってくる。実希がそれを鼻先に近づけて深く息を吸い込むと、胸の奥につかえていた梅雨時の鬱屈とした湿り気が、すうっと消えていくようだった。


「いい匂い。心が洗われるみたい」

「そうでしょう。昔の人は、こうしてジメジメした季節の不快さを、香りで紛らわせたのよ」


 食事が終わる頃、雨の音が少しずつ大きくなってきた。屋根を叩く雨音に混じって、どこからか「河鹿」の鳴き声が、コロコロと鈴を転がすような美しさで響いてくる。近くを流れる吉野川の清流から聞こえてくるのだろう。


「河鹿が鳴いてる。雨なのに、なんだか楽しそう」

「あの子たちは、水が綺麗で雨が降ると元気になるのよ。庭の隅には、大きな『蟇』も住み着いているみたいだけどね」

「えっ、蟇蛙? それはちょっと、お目にかかりたくないかも」


 実希が肩をすくめて笑うと、澄子も楽しそうに目を細めた。

 食後の片付けを終えた実希は、祖母が「糸引き」の内職をしている作業部屋を覗いた。薄暗い部屋の中で、澄子は古い木製の座繰り機を使い、繭から一本の細い糸を手際よく引き出していた。シュー、シューという規則正しい音が、雨音と同化して心地よいリズムを刻んでいる。


「おばあちゃん、その糸、本当に綺麗だね」

「これはね、ただの糸じゃないのよ。このお蚕さんが命をかけて作った、特別な絹糸。手がかかるけれど、こうして紡いだ糸で織った着物は、夏でも驚くほど涼しいの」


 実希は澄子の手元をじっと見つめた。指先で触れさせてもらった絹糸は、驚くほど細く、そしてほんのりと温かかった。生き物の温もりが、まだそこに残っているかのようだった。


「ねえ、おばあちゃん。私、今年の『祭』には、おばあちゃんが紡いだ糸の浴衣を着てみたいな」

「あら、嬉しいことを言ってくれるわね。それなら、急いで仕上げなくちゃ。六月の半ばには、大きなお祭りがあるからね。十日もあれば、なんとかなるかしら」


 澄子は嬉しそうに微笑み、再び手元を動かし始めた。

 実希は窓辺に寄り添い、再び外の景色に目をやった。「夏の海」のような開放感は、この山深い吉野にはない。けれど、ここに広がる深い緑と、しっとりとした雨の情景は、実希の傷ついた心を静かに癒してくれていた。都会での慌ただしい生活に疲れ、文字を読むことすら億劫になって逃げるように帰ってきたこの実家で、五感のすべてが呼び覚まされていくのを感じていた。

 蚕豆の味、お香の香り、河鹿の声、青蔦の緑、そして祖母の温かい手の温もり。


「五月が終わるのが寂しいなんて言ったけれど、次の季節が楽しみになってきたわ」

「それでいいのよ、実希。季節は巡るためにあるんだから。雨が降るからこそ、次の『夏』が眩しく輝くのよ」


 澄子の言葉は、雨を含んだ五月の終わりの風に乗って、実希の心に優しく染み渡っていった。窓の外では、青蔦の葉が激しくなる雨に打たれながらも、しっかりと壁にしがみつき、上へ上へと伸びようとしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ