5月31日 五月尽の薔薇の香り
五月尽の薔薇の香り
五月の終わりだった。
朝から空は薄い雲に覆われ、どこか湿り気を帯びた風が吹いている。
縁側に座っていた美代子は、庭の薔薇を眺めながら呟いた。
「もうすぐ梅雨ねえ」
庭いっぱいに咲いた赤や白の薔薇が風に揺れる。
その向こうでは青々とした蔦が古い木塀を覆い始めていた。
若葉だった木々も、いつの間にか深い青葉になっている。
五月尽。
春が終わり、夏が近づく頃だった。
台所から味噌汁の匂いが漂ってくる。
娘の栞が顔を出した。
「お母さん、ご飯できたよ」
「今行くわ」
美代子は立ち上がった。
藍色の木綿のブラウスに、生成りのスカート。
お気に入りの普段着だった。
食卓には蚕豆ご飯が並んでいる。
湯気の立つ味噌汁。
焼き鮭。
ほうれん草のおひたし。
蚕豆の鮮やかな緑が初夏の食卓を彩っていた。
「いただきます」
「いただきます」
栞が嬉しそうに笑う。
「今年の蚕豆、甘いね」
「ほんとねえ」
ほくほくした食感が口の中に広がる。
噛むたびに青い香りがした。
窓の外からは蟇の声が聞こえる。
どこかの田んぼで鳴いているらしい。
雨を待つ声だった。
食後、美代子は円座を持って縁側へ出た。
少し蒸し暑い。
だが風はまだ優しい。
その時だった。
玄関から声が聞こえた。
「こんにちはー!」
「あら」
やって来たのは近所の奈津子だった。
麦わら帽子を被り、籠を抱えている。
「おすそ分け」
中には大きな牡丹の花が入っていた。
濃い桃色の花弁が幾重にも重なり、まるで絹のようだ。
「まあ綺麗」
「今年最後の牡丹よ」
「ありがとう」
花を抱くと甘い香りがした。
どこか懐かしい匂いだった。
奈津子が縁側へ腰を下ろす。
「もう入梅かしらね」
「そうかも」
二人は空を見上げた。
雲がゆっくり流れている。
「五月も終わりねえ」
「早いわ」
「この前お正月だった気がするのに」
「本当に」
二人は笑った。
年を重ねるほど季節が早くなる。
それでも季節はちゃんとやって来る。
薔薇が咲き。
蚕豆が実り。
青葉が茂る。
それが嬉しかった。
午後になると栞が声をかけた。
「お母さん、祭り行こう」
「祭り?」
「神社のお祭り」
「ああ、今日だったわね」
村の小さな祭りである。
二人は着替えた。
美代子は淡い藤色の単衣。
栞は白地に朝顔模様の浴衣。
匂い袋を帯に下げる。
ほのかに白檀の香りが漂った。
「どう?」
栞がくるりと回る。
「綺麗よ」
「えへへ」
娘の笑顔に美代子も微笑んだ。
神社へ向かう道は青蔦に覆われていた。
鳥の声が響く。
土の匂い。
湿った風。
夏が近い。
境内には屋台が並んでいた。
焼きそば。
団子。
たこ焼き。
かき氷。
子供たちの歓声が響く。
「お母さん、焼きとうもろこし!」
「はいはい」
香ばしい醤油の匂いが鼻をくすぐる。
二人は焼きとうもろこしを頬張った。
熱い。
甘い。
炭火の香りが広がる。
「美味しい!」
「ほんとねえ」
夕暮れが近づく頃。
神社の裏手から河鹿の声が聞こえた。
澄んだ鈴のような鳴き声。
美代子は立ち止まった。
「綺麗な声」
栞も耳を澄ませる。
「川の音みたい」
「河鹿だからね」
遠くで水が流れる。
夕日が山を染める。
夏の海へ続く川も、きっと今頃は夕焼け色だろう。
ふと、美代子は若い頃を思い出した。
夫と吉野を旅した日。
山桜の季節だった。
川辺でお弁当を食べた。
笑い合った。
今はもう会えない。
けれど思い出は消えない。
風の匂い。
川の音。
空の色。
そのすべてに残っている。
「お母さん?」
栞が心配そうに見上げた。
「どうしたの?」
「ううん」
美代子は微笑んだ。
「ちょっと昔を思い出していただけ」
「お父さん?」
「そう」
栞も空を見た。
夕焼けの雲が赤く染まっている。
「きっと見てるよね」
「そうね」
河鹿の声が再び響く。
薔薇の香りが風に乗る。
祭り囃子が遠く聞こえる。
五月が終わる。
明日から六月。
入梅。
雨の季節がやって来る。
けれど美代子は不思議と寂しくなかった。
季節は巡る。
花は咲く。
人は別れる。
そしてまた誰かと出会う。
そうやって世界は続いていくのだ。
栞が腕を組んだ。
「帰ろう、お母さん」
「ええ」
二人は並んで歩き出す。
空には一番星が輝いていた。
五月最後の夜風が、優しく二人の頬を撫でていった。
5月31日
入 梅
梅雨に入る
蟇
蚕 豆
青 葉
五 月
五月尽
バ ラ
祭 10
夏の海
掛香・匂ひ袋
河 鹿
円 座
夏
糸引き
青 蔦
吉 野
夏
蚕 豆
ぼうたん




