麦秋の窓辺にともる光
麦秋の窓辺にともる光
窓の外には、見渡す限りの麦畑が黄金色に波打っていた。初夏の乾いた風が吹き抜けるたび、さらさらと穂が擦れ合う微かな音が、まるで遠い異国の波音のように千代子の耳に届く。五月の終わり、刈り入れを控えたこの季節を「麦秋」と呼ぶのだと、夫の修一から教わったのはいつのことだったか。空はどこまでも高く青く澄み渡り、じりじりと照りつける太陽が、これから訪れる本格的な夏の気配を運んでくる。
千代子は、お気に入りの薄手のリネンワンピースに袖を通していた。生成りの素朴な生地に、小さなスミレの刺繍が胸元にあしらわれた、涼やかで動きやすい一着だ。
台所からは、ガタガタと小気味よい音が響いている。修一が今日の昼食の仕込みをしてくれているのだ。
「千代子、お腹は空いていないかい。もうすぐ美味しい豆ごはんが炊き上がるよ」
「ええ、とても楽しみ。お豆の甘い香りが、もうここまで漂ってきているわ」
千代子はリビングの椅子から立ち上がり、ゆっくりと台所へ向かった。千代子にとって、文字を読むことは頭の痛くなるほど難しい作業だったけれど、鼻をくすぐる炊きたてのお米の匂いや、夫の弾むような声のトーンから、その日の幸せを正確に読み取ることができた。
修一は、お揃いの白い綿のシャツにチノパンというラフな格好で、嬉しそうに炊飯器の蓋を開けた。立ち上る真っ白な湯気とともに、青々としたエンドウ豆のふくよかな香りが部屋いっぱいに広がる。
「ほら、見てごらん。ふっくらと綺麗に炊けた。今日はこれに、朝市場で仕入れた新鮮な鱚の天ぷらを合わせようと思ってね。衣を薄くして、サクッと揚げてあるんだ」
「まあ、鱚の天ぷら。なんて贅沢なのかしら。お塩を少しだけつけていただきたいわね」
「もちろん、そのつもりさ。さあ、温かいうちに食べよう」
食卓に並んだ昼食は、目にも鮮やかだった。器に盛られた豆ごはんは、お米の優しくて淡い白の中に、鮮やかな緑色の豆が宝石のように散らばっている。口に運ぶと、お米の自然な甘みと、豆のほくほくとした食感が絶妙に絡み合い、噛むほどに豊かな風味が広がった。揚げたての鱚は、箸を入れるとサクッと心地よい音を立て、口の中で淡白ながらも上品な旨味がふわっと解けていく。
「本当に美味しいわ、修一さん。季節を丸ごといただいているみたい」
「気に入ってくれて良かった。でも、この爽やかなお天気も今日までかもしれないよ。気象予報士が、いよいよ明日あたりからこの地方も梅雨に入るだろうと言っていたんだ。いよいよあのジメジメした季節がやってくるね」
「梅雨に入る……。あの長雨は少し気が重いけれど、お庭の紫陽花たちにとっては待ち遠しい恵みの雨なのかもしれませんね」
「そうだね。雨といえば、午前中に庭の片隅で、泰山木の大きな白い花が咲いているのを見つけたよ。まるで白い陶器のような立派な花だ。食後にでも見に行こうか」
「ええ、あの甘く濃厚な香りを嗅ぐと、初夏が来たって実感が湧くわ」
二人は賑やかに世間話を交わしながら、ゆっくりと食事を味わった。
午後になり、外へ出ると、太陽の光はいっそう強さを増していた。庭の片隅に佇む泰山木の木を見上げると、修一の言葉通り、大人の手のひらよりも大きな純白の花が、濃緑の分厚い葉の間に、気高く花開いていた。
「うっとりするほど綺麗な白ね。まるで、自分で光を放っているみたい」
千代子が鼻を近づけると、レモンに似た爽やかさの中に、どこかエキゾチックな甘さを含んだ濃厚な香りが鼻腔をくすぐった。その香りを胸いっぱいに吸い込むと、胸の奥に溜まっていた、この時期特有の気だるさが、すうっと消えていくような気がした。
「この時期は、なんとなく体が重くなったり、やる気が出なくなったりする人が多いらしい。世間では五月病なんて言うけれど、千代子は大丈夫かい」
修一が心配そうに千代子の顔を覗き込んできた。
「私は大丈夫よ。修一さんが毎日、こうして美味しいご飯を作って、季節のお花を見せてくれるもの。退屈している暇なんてないわ」
「それなら良かった。おや、あそこにいるのは、お隣の拓海くんかな」
生垣の向こうから、キャッキャという元気な子供の声が聞こえてきた。見ると、近所に住む小学生の男の子が、カラフルなプラスチック製の水鉄砲を両手に持って、庭の草木に向かって勢いよく水を噴射している。シュッシュッと小気味よい音を立てて飛び出した水滴が、午後の光を浴びてキラキラと虹色に輝いていた。
「拓海くん、元気いっぱいね。水鉄砲なんて、見ているだけで涼しくなるわ」
「本当にね。子供のエネルギーにはいつも圧倒されるよ。そうだ、僕たちも家の中で、涼しい工夫をしようか」
家に戻った修一は、物置から大きくて平たいガラスの水盤を取り出してきた。そこに冷たい水道水をなみなみと注ぎ、庭から摘んできたばかりの、瑞々しい青葉を何枚かそっと浮かべた。
「どうだい。こうして水盤に緑をあしらうだけで、部屋の空気が少しひんやりと感じられないかい」
千代子は水盤に近づき、水面に指先を少し浸してみた。ツンとした冷たさが心地よく、水に濡れた青葉が、室内の光を反射して瑞々しくきらめいている。
「素敵ね。まるで、お部屋の中に小さな清流が現れたみたい。目から涼しさをいただくって、こういうことを言うのね」
「喜んでもらえて何よりだ。じゃあ、僕はこれから少し、裏庭の畑に胡麻蒔く作業をしてくるよ。今のうちに種を蒔いておけば、夏が過ぎる頃には香ばしい胡麻がたくさん収穫できるからね」
「気をつけてね。帽子を忘れないで」
修一は麦わら帽子を深くかぶり、小さな農具を手に持って裏庭へと向かっていった。
一人残されたリビングで、千代子は静かに読書椅子の背もたれに体を預けた。スマートフォンを持たない彼女の耳には、日常の様々な音が、まるでオーケストラのように立体的に聞こえてくる。
外からは、修一が土を耕すザクッ、ザクッという規則正しい音が響いている。それからしばらくすると、にわかに空が暗くなり、遠くのほうでサーッと激しい音が聞こえ始めた。
「あら、雨かしら……」
窓辺に駆け寄ると、さっきまでの青空が嘘のように消え去り、激しい夕立が庭の木々を叩いていた。木々の青葉を激しく揺らしながら降るこの雨を、青葉雨、あるいは青葉時雨と呼ぶのだろう。雨粒が乾いた地面や木の葉に衝突し、むっとするような生命力に満ちた土の匂いが立ち上ってくる。千代子はその匂いを嗅ぎながら、自然の気まぐれな美しさに、ただただ圧倒されていた。
やがて雨は数十分ほどで収まり、再び雲の隙間から夕暮れの柔らかな光が差し込んできた。雨上がりの庭は、まるで宝石を散りばめたように、どの葉もきらきらと水滴を滴らせている。どこかで、ゲコゲコと低く太い蟇の鳴き声が響き始めた。雨を喜んでいるのだろう。
夕食の時間が近づき、裏庭での作業を終えた修一が、少し濡れた体を拭きながら戻ってきた。
「いやあ、すっかり青葉時雨に降られてしまったよ。でも、蒔いたばかりの胡麻の種にとっては、ちょうど良いお湿りになったに違いない」
「お疲れ様、修一さん。お洋服が着替えられてから、冷たいものでも飲みましょう。特製の苺ミルクを作っておいたのよ」
「それは嬉しいな。喉がカラカラだったんだ」
千代子は、春にたくさん作って瓶に詰めておいた自家製の苺ジャムをグラスに入れ、冷たい牛乳をたっぷりと注いで、長いスプーンでよくかき混ぜた。ピンク色の可愛らしい液体がグラスの中で渦を巻く。
着替えを終えた修一がそれを受け取り、一気に喉を鳴らして飲んだ。
「くぅー、生き返るよ! 苺のツブツブした食感と、濃厚なミルクの甘みが最高だ。千代子の作る苺ミルクは、世界一だよ」
「ふふ、大袈裟ね。でも、喜んでくれて嬉しいわ」
夜が更けると、昼間の暑さが嘘のように、心地よい夜風が窓から吹き込んできた。
カーテンを大きく開け放つと、夜空には優しく静かな夏の月がぽっかりと浮かび、黄金色の麦畑を淡い銀色に照らし出している。その光景は、まるでおとぎ話のワンシーンのように幻想的だった。
修一はリビングの明かりを少し落とし、小さな読書灯だけを点した。すると、その微かな光に誘われるようにして、網戸の向こう側に、小さな羽虫たちが集まってきた。
「おや、灯取虫が集まってきたね。昔の人は、こうして光に集まる虫を見て、夏の訪れを感じたんだ。かつては糸取りの作業をする工場でも、夜遅くまで明かりをつけて、こういう虫たちと戦いながら絹糸を紡いでいたらしいよ」
「糸取り……。一本の細い糸を紡ぎ出すために、夜通し明かりを灯して。なんだか、昔の人の営みが目に浮かぶようだわ」
千代子は網戸越しに、光の周りを小さく飛び回る虫たちの影を見つめた。文字という記号には馴染めなくても、こうして夫の語る物語を通じて、遥か昔の、見知らぬ誰かの暮らしに思いを馳せることができる。
窓の外からは、遠くの農家が古い麦わらを燃やしているのだろう、かすかな麦焼の煙の香りが、夜風に乗って漂ってきた。香ばしく、どこか哀愁を帯びたその匂いは、一日の終わりを告げるのにふさわしい、静かな余韻を運んでくる。
「千代子、明日から雨が続くけれど、家の中でまた楽しいことを見つけよう」
「ええ。修一さんが隣にいてくれれば、どんな季節だって、私にとっては特別な物語になるわ」
二人は並んで夏の月を見上げながら、新緑の匂いに満ちた、静かで愛おしい皐月の夜を、いつまでも静かに味わい続けた。




