5月30日 青葉雨の向こう側
青葉雨の向こう側
五月三十日。
朝から細かな雨が降っていた。
梅雨に入ったらしいと、朝のラジオが言っていた。
窓ガラスに無数の雨粒が流れ、庭の葉桜は濃い緑をさらに深くしている。青葉雨という言葉がぴったりだった。葉を打つ雨音は柔らかく、それでいて途切れることなく続いている。
千代は台所の窓を開けた。
湿った風が頬を撫でる。
どこからか土の匂いがした。
庭の隅では大きな蟇がじっと雨を受けている。
「まあ、今日はあなたも雨宿りしないのね」
思わず声をかける。
蟇は答えない。
ただ金色の目でこちらを見ているだけだった。
居間から娘の苑子が出てきた。
白いTシャツの上に薄い青色のカーディガンを羽織り、髪を後ろでひとつに結んでいる。
「お母さん、朝から蛙と話してるの?」
「蟇よ」
「同じじゃない」
「全然違うわ」
二人は顔を見合わせて笑った。
朝食は昨日の残りの豆ごはんだった。
味噌汁。
焼いた鱚。
胡瓜の浅漬け。
焼きたての鱚からは香ばしい匂いが立ち上り、白い身をほぐすと湯気がふわりと広がる。
「おいしい」
苑子が頬を緩める。
「魚ってこんなにおいしかったっけ」
「若い人はお肉ばかり好きだからね」
「最近は魚も好き」
「年を取った証拠ね」
「ひどい」
また笑い声が響いた。
雨の日は家の中の音がよく聞こえる。
湯呑みを置く音。
時計の秒針。
冷蔵庫の低い唸り。
食器を洗う水音。
その静けさが千代は好きだった。
昼前になると雨脚が少し強くなった。
青葉時雨だった。
庭の葉を打つ音が一気に大きくなる。
ザーッという音に混じって、遠くの子どもたちの声が聞こえた。
窓から覗くと、近所の小学生たちが雨上がりの路地で遊んでいた。
水鉄砲を持っている。
「きゃー!」
「やったな!」
元気な声が雨空に響く。
びしょ濡れになりながら笑い転げている。
苑子も窓から眺めた。
「私もやったなあ」
「水鉄砲?」
「うん。びしょ濡れになって帰ったら怒られた」
「誰に?」
「お母さんに」
千代は首を傾げた。
「そうだった?」
「忘れてる」
「そんな昔のこと」
「ひどいなあ」
二人で笑う。
昼食のあと、千代は玄関に置いてある古い水盤の水を替えた。
丸い陶器の水盤。
父が残したものだった。
雨の日には不思議と水がよく似合う。
水面にぽたりと雫が落ちる。
波紋が静かに広がる。
「お母さん、それ好きだね」
苑子が言った。
「見てると落ち着くの」
「何が?」
「わからないけど」
千代自身にも説明できなかった。
ただ水面を見ていると心が静かになる。
若い頃はわからなかった。
今になってようやく、水や風や雲を眺める時間の大切さがわかるようになった。
午後になると、近所の美智子が野菜を持ってきた。
「胡麻蒔いた帰りなの」
泥のついた長靴姿だった。
「今年も畑?」
「そうよ」
「元気ねえ」
「動いてないと五月病になるから」
美智子は豪快に笑った。
六十八歳とは思えない声量だった。
三人でお茶を飲む。
新茶の香りが部屋に広がる。
話題は最近のことから昔話へ移っていった。
子育て。
学校。
亡くなった親。
初恋。
若い頃の失敗。
笑いながら話しているのに、ときどき胸の奥が少し痛む。
懐かしいという感情は不思議だった。
夕方、美智子が帰ったあと、雨が止んだ。
西の空が明るくなる。
苑子が窓を開けた。
「あ、見て」
庭の泰山木が咲いていた。
大きな白い花。
厚みのある花弁。
甘い香りが湿った空気に溶けている。
「咲いたわね」
千代は嬉しくなった。
「昨日まで蕾だったのに」
「すごい匂い」
「夏の匂いよ」
泰山木の香りを吸い込む。
胸の奥まで満たされるようだった。
その向こうには黄金色の麦畑が見えた。
麦秋。
風が吹くたび波のように揺れている。
夕陽を受けて金色に光る様子は、まるで大地そのものが輝いているようだった。
「きれい」
苑子が呟く。
「本当ね」
「お母さん」
「なに?」
「五月って終わるの早いね」
千代は少し考えた。
若い頃は一年が長かった。
夏休みも遠かった。
でも今は違う。
気づけば桜が咲き、散り、葉桜になり、梅雨が来る。
季節がどんどん通り過ぎていく。
「早いわね」
静かに答える。
夕飯は麦焼きにした鶏肉と野菜の炒め物だった。
香ばしい匂いが食卓を満たす。
食後には苑子が苺ミルクを作った。
赤い苺を潰し、牛乳を注ぐ。
淡い桃色になった飲み物はどこか懐かしい。
「お母さんも飲む?」
「もちろん」
一口飲む。
甘酸っぱい。
子どもの頃の味だった。
夜になると雲が切れた。
縁側へ出る。
空には夏の月が浮かんでいた。
雨上がりの月は驚くほど白く、澄んでいた。
庭の灯りには灯取虫が集まっている。
小さな羽音が静かな夜に溶けていく。
千代と苑子は並んで月を見上げた。
誰も話さない。
それでも不思議と満たされていた。
五月は終わろうとしている。
雨の季節が始まる。
暑い夏もやって来る。
けれど今日という日は、もう二度と戻らない。
だからこそ愛おしい。
葉桜の向こうに浮かぶ夏の月は、そんなことを静かに教えているようだった。
5月30日
梅雨に入る
夏の月
蟇
豆ごはん
青葉雨
五 月
泰山木
五月病
水鉄砲
青葉時雨
水 盤
鱚
糸取り
灯取虫
麦 焼
苺ミルク
胡麻蒔く
麦 秋




