卯の花腐しの降る街で
卯の花腐しの降る街で
どんよりと低い雲が垂れ込め、数日前から降り続く雨が街を灰色に染めていた。この時期特有の、すべてのものをじっとりと湿らせる「卯の花腐し」の雨だ。
千代は、少し着古した麻の生成りのブラウスの袖を小さく捲り上げ、台所に立っていた。窓の外からは、雨粒が庭の木々を叩く単調な音が聞こえてくる。
「ねえ、お母さん。今日のご飯、何?」
居間から声をかけてきたのは、高校生の娘の苑子だった。苑子は、お気に入りの薄手の紺色のサマーセーターを着て、居間の籐椅子に深く腰掛け、手元の本に目を落としている。その籐椅子は、座るたびに「ギィ…」ときしむ優しい音を立て、どこか涼しげな夏の気配を運んできた。
「今日はね、豆の飯にしようと思っているのよ。ちょうどいいサヤエンドウが手に入ったから」
千代は、すり鉢で軽く塩を振った瑞々しい緑の豆を、炊きたてのご飯に混ぜ込んだ。湯気とともに、青々とした豆の甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
お茶碗に盛り付けられた豆の飯は、お米の白と豆の鮮やかな緑が美しいコントラストを描いていた。千代はそれを食卓へと運び、苑子の向かい側に腰を下ろした。
「わあ、美味しそう。お豆のいい匂いがする」
苑子は本を閉じ、嬉しそうに箸を取った。一口食べると、口いっぱいに初夏の素朴な風味が広がり、雨の憂鬱さが少しだけ和らぐような気がした。
「美味しい? 五月ももう終わり近くなると、なんだか体が重くなるけれど、こういう瑞々しいものを食べるとしゃきっとするわね」
「うん、お米もふっくらしていて美味しいよ。そういえばお母さん、外の葉桜、ずいぶん緑が濃くなったね。雨に濡れて、なんだか光って見える」
苑子が視線を向けた窓の外には、すっかり花を落とした葉桜の並木が、雨を吸って重たげに、しかし力強く枝を伸ばしていた。かつての淡いピンク色はどこにもなく、今はただ生命力に満ちた深い緑の葉が、雨粒を弾いてきらきらと輝いている。
「本当ね。桜の花が散るのは寂しいけれど、あの青々とした葉桜を見ると、いよいよ夏が来るんだなって元気がもらえるわ。まるで海が荒れるときに見せる、あの力強い青葉潮みたいに、生命のエネルギーが満ち溢れている気がするのよ」
「アオバジオ? 海の言葉?」
「そう、初夏の強い南風に押されて、沿岸に押し寄せる豊かな黒潮のことよ。あの葉桜の緑を見ていると、私はいつもその海の青さを思い出すの」
千代は目を細め、窓の外の緑を愛おしそうに見つめた。
昼食を終え、温かい新茶を淹れる。湯呑みから立ち上る新茶の香りは、若葉の爽やかさと、ほのかな渋みを含んでいて、胸の奥までスーッと通り抜けるようだった。
「良い香り。やっぱりこの時期の新茶は格別ね」
「うん、なんだかホッとする。あ、そうだ。お母さん、庭の泰山木の花、もうすぐ咲きそうだよ。さっき見たら、大きな白い蕾が膨らんでた」
「まあ、泰山木が。あの花が咲くと、いよいよ本格的な夏ね。大きくて真っ白で、まるで香水の瓶をひっくり返したような強い甘い香りがするの。早く咲かないかしら」
二人がお茶を啜っていると、雨が少し小降りになってきた。雲の切れ間から、ほんの少しだけ明るい光が差し込み、庭の隅に植えられた富貴草――牡丹の大きな葉を濡らしている。
「そういえば、お隣の牡丹の、立派だったお花、一昨日の嵐ですっかり崩れちゃったみたい」
「あら、あの美しい牡丹が崩れてしまったの? あんなに大輪で、富貴草と呼ばれるにふさわしい華やかさだったのに、散るときは一瞬で崩れるように落ちるから、なんだか切ないわね。でも、それもまた風情なのかもしれないわ」
「うん。でも、花が散った後は、なんだか急に静かになるね。祭のあとの静けさみたい」
「ふふ、祭といえば、来月は近所の神社のお祭ね。今年も出店がたくさん出るかしら。苑子は新しい浴衣でも着ていく?」
「えっ、本当? 着たい! じゃあ、それまでに少し痩せなきゃ」
苑子は照れくさそうに笑い、新茶を飲み干した。
夕方になり、雨は完全に上がった。
千代が庭に出てみると、湿った土の匂いの中に、かすかに麦打の香ばしい匂いが混じっているような気がした。遠くの農家で、刈り取った麦を脱穀しているのだろうか。初夏の夕暮れは、どこか懐かしく、そして少しだけ寂しげな空気を纏っている。
ふと足元を見ると、一本の草矢が落ちていた。近所の子どもたちが、ススキやチガヤの葉を丸めて作ったものだろう。
千代はそれを拾い上げ、指先でその感触を確かめた。幼い頃、自分もこうして草矢を作って、誰が一番遠くまで飛ばせるか競い合ったことを思い出し、胸の奥がキュンと締め付けられるような、優しい郷愁に駆られた。
「お母さん、何見てるの?」
玄関から、薄手のカーディガンを羽織った苑子が出てきた。
「ううん、草矢が落ちていたの。懐かしいなと思って。見て、空に夏の月が出ているわよ」
苑子が千代の指差す方を見上げると、まだ完全に暗くなりきっていない薄青い夕空に、白く、くっきりとした夏の月が浮かんでいた。春の朧月とは違い、どこか涼しげで、凛とした輝きを放っている。
「本当だ、綺麗な月。なんだか、すっきりと涼しいね」
「ええ。でも、夜になるとまた虫が集まってくるわよ。ほら、もうあそこに火取虫が飛んでる」
街灯の灯りに引き寄せられるように、小さな火取虫がひらひらと舞い、光に身を投じていた。その儚い姿を見つめながら、千代は苑子の肩にそっと手を置いた。
「五月も、もう終わりね」
「うん。明日からはきっと、もっと暑くなるね」
二人は、葉桜の隙間から差し込む月光を浴びながら、静かに、しかし確かに訪れつつある本格的な夏の足音を、肌で感じていた。




