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5月29日 夏の月と籐椅子

夏の月と籐椅子


五月二十九日の朝だった。


昨夜の雨は明け方まで降り続いたらしい。富子が障子を開けると、葉桜の若葉に無数の水滴が残り、朝日を受けてきらきら光っていた。


空気は湿っている。


卯の花腐し。


そんな言葉を昔の人はよく考えたものだと富子は思う。


白い卯の花が雨に打たれて傷み始める頃の長雨。


言葉だけで景色が浮かぶ。


「今日も蒸しそうだねえ」


誰もいない部屋で呟く。


台所へ向かう。


木綿の薄緑色のブラウスに灰色のズボン。洗濯したての布の匂いが微かに残っている。


朝食は豆ご飯だった。


昨夜から水に浸しておいたえんどう豆を炊き込んだのだ。


炊飯器の蓋を開けると、湯気と一緒に豆の甘い香りが立ちのぼる。


「うわあ」


思わず声が出る。


豆の鮮やかな緑。


白いご飯。


味噌汁。


焼き鯵。


たくあん。


一人の食卓だったが、季節があるだけで少し豊かに見えた。


窓の外から鳥の声が聞こえる。


葉桜が風に揺れている。


富子は箸を動かしながら、昔のことを思い出していた。


父も豆ご飯が好きだった。


戦争の話はあまりしなかったが、豆ご飯を食べるたびに、


「ご飯に色がついているだけでご馳走だった」


と言った。


今になってその意味が少しわかる気がした。


食後、新茶を淹れる。


湯飲みから立ち上る若葉の香り。


それだけで気持ちが落ち着く。


十時頃になると、近所の民子がやって来た。


「富子さんいる?」


「いるよ」


玄関を開けると、民子は大きな紙袋を抱えていた。


「なにそれ」


「貰い物」


中から立派な泰山木の花が現れた。


乳白色の大きな花弁。


近づくだけで甘い香りがする。


「わあ」


富子は目を丸くした。


「すごいね」


「隣町のお寺で落ちたのを貰ったの」


二人で花を眺める。


大きな花はどこか気品があった。


まるで昔の女優のようだ。


「私たちも昔はこうだったかね」


民子が言う。


「こんなに大きくなかった」


富子が答える。


二人は笑った。


昼前になると空が明るくなった。


長雨が終わりかけている。


風が吹くたび葉桜がさらさら鳴る。


富子は縁側へ籐椅子を運び出した。


父が使っていた古い椅子だった。


背もたれは少し擦り切れている。


だが座ると妙に落ち着く。


民子も隣に腰掛けた。


「いい椅子だね」


「父のお下がり」


「捨てないの?」


「捨てられない」


民子は頷いた。


「私も主人のマグカップ捨てられない」


二人とも少し黙る。


風だけが吹いている。


生きている人より、いなくなった人のほうが身近に感じる日がある。


そんな年齢になっていた。


昼食は簡単だった。


冷や奴。


卵焼き。


豆ご飯のおにぎり。


胡瓜の浅漬け。


そして新茶。


「十分だよ」


民子は嬉しそうに食べる。


「若い頃は肉ばっかりだったのにね」


「焼肉食べ放題とか行ってた」


「信じられない」


「今なら救急車」


二人はまた笑った。


午後になると町の祭囃子が聞こえてきた。


近くの神社の小さな祭だった。


笛の音。


太鼓の音。


遠くから風に乗って流れてくる。


「祭かあ」


富子は目を細めた。


子どもの頃は祭が待ち遠しかった。


浴衣。


綿菓子。


金魚すくい。


夜店の灯り。


今でも音を聞くだけで胸が少し高鳴る。


夕方、民子が帰ったあと、富子は一人で散歩に出た。


空はすっかり晴れていた。


道端には富貴草が咲いている。


葉桜はさらに青さを増している。


畑では農家の人が麦打ちの準備をしていた。


乾いた麦の香りが風に混じる。


遠くから潮の匂いも運ばれてくる。


青葉潮。


海は遠いはずなのに、不思議とわかる。


富子はゆっくり歩いた。


途中の空き地で牡丹の花を見つけた。


大輪だった花はもう崩れ始めている。


花びらが何枚も地面に落ちていた。


「終わりかあ」


思わず呟く。


だが不思議だった。


寂しいだけではない。


花が散るから次が来る。


若葉が育つ。


豆が実る。


人も年を取る。


全部同じなのだ。


帰宅すると空には夏の月が浮かんでいた。


満月ではない。


少し欠けている。


それでも柔らかな光を町へ降らせていた。


夕飯は鯖の味噌煮だった。


豆ご飯の残り。


小松菜のお浸し。


味噌汁。


湯気の向こうに月明かりが見える。


静かな夜だった。


食後、富子は縁側の籐椅子に腰を下ろした。


火取虫がふわふわ飛んでいる。


昔なら蚊取り線香を焚いたものだ。


その匂いまで思い出した。


遠くで祭囃子がまだ続いている。


風が吹く。


葉桜が揺れる。


月が見守っている。


誰とも話していないのに、不思議と孤独ではなかった。


父のこと。


母のこと。


夫のこと。


昔の友人たち。


みんな記憶の中で隣に座っている。


富子は空を見上げた。


「今日も無事だったね」


誰に向けた言葉でもない。


けれど確かに届いた気がした。


月は何も答えない。


ただ静かに光っている。


その優しい光の下で、五月の終わりの夜はゆっくりと更けていった。




5月29日 


草 矢


卯の花腐し


夏の月


葉 桜


豆の飯


青葉潮


葉 桜


泰山木



籐椅子


五 月


葉 桜


火取虫


富貴草


麦 打


新 茶


五 月


牡丹崩る



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