夏の雨
夏の雨
五月二十八日。朝から空は重たく曇っていた。
富子は縁側のガラス戸を開け、湿り気を含んだ風を胸いっぱいに吸い込んだ。葉桜になった古い桜の木が、雨を待つように静かに立っている。春の華やぎはとうに過ぎたはずなのに、若葉はむしろ今のほうが勢いを増していた。
「人間もこうだったらいいのにねえ」
独り言をこぼす。
若い頃の美しさが終わっても、別の力が育つ。
そんなふうに。
庭の隅には草苺が赤い実をつけていた。
しゃがみ込んで摘む。
指先に甘酸っぱい香りが残る。
「おやつにしようか」
今朝の富子は薄い水色のブラウスに紺色のズボン姿だった。何度も洗われた木綿の服は柔らかく、肌になじんでいる。
台所では新茶を淹れた。
湯気とともに若葉のような香りが広がる。
小皿に草苺を盛り、ひとりで朝食をとる。
焼き鮭。
ほうれん草のおひたし。
味噌汁。
そして炊きたてのご飯。
質素だが十分だった。
窓の外で目白が鳴く。
「おはよう」
富子は本気で返事をした。
目白も負けずに鳴き返した。
まるで会話だった。
昼前になると空がさらに暗くなった。
遠くで雷が鳴る。
ぽつり。
ぽつり。
やがて夏の雨が降り始めた。
勢いのある雨だった。
屋根を叩く音が部屋中に響く。
葉桜の枝が大きく揺れる。
滝のような雨筋が庭を白く霞ませた。
富子は縁側に腰を下ろした。
雨を見るのは好きだった。
何もしなくていい気持ちになれる。
世界全体が雨宿りをしているようだから。
そのとき玄関が開いた。
「富子さんいるー?」
聞き慣れた声だった。
近所の民子である。
七十二歳。
昔は保育士だった。
富子は立ち上がった。
「どうしたのよ」
「筍もらったの」
民子は新聞紙に包まれた大きな筍を抱えていた。
「食べきれないから半分あげる」
「わあ」
富子の顔が明るくなる。
「ありがとう」
「その代わりお茶飲ませて」
「現金ねえ」
二人は笑った。
居間で新茶を淹れる。
雨音が屋根を叩いている。
湯飲みから立ち上る香り。
民子は一口飲んで目を細めた。
「やっぱり新茶は違うね」
「若葉の匂いがする」
「若葉になりたいわ」
「今さら?」
「今さらよ」
二人はまた笑った。
しばらくして話題は自然と老後になった。
病院。
年金。
介護。
亡くなった夫。
遠くで暮らす子ども。
誰もが抱える話だった。
「最近ね」
民子が言った。
「忘れるのよ」
「何を?」
「忘れたことを忘れる」
富子は吹き出した。
「それは重症」
「でしょ」
「私も昨日、冷蔵庫開けて何しに来たかわからなくなった」
「あるある」
笑い声が部屋に満ちる。
若い頃なら不安だったことも、今では笑い話になる。
それが年を取るということなのかもしれない。
昼食は筍ご飯にした。
急きょ二人分作る。
醤油と出汁の香りが部屋いっぱいに広がった。
筍の煮物。
豆腐の味噌汁。
きゅうりの浅漬け。
民子は箸を動かしながら言った。
「こういうご飯が一番おいしい」
「ご馳走じゃないけどね」
「ご馳走だよ」
外では雨脚がさらに強くなる。
散水車など必要ないほどの大雨だった。
道路を流れる水が銀色に光る。
庭の未央柳の黄色い花が雨粒をまとい、まるで宝石のようだった。
午後になると雨は少し弱まった。
二人は縁側へ移動した。
風がひんやりしている。
濡れた土の匂い。
若葉の匂い。
遠くの川の匂い。
富子は目を閉じた。
昔を思い出す。
子どもの頃。
川で筍流しを見たこと。
山で遊んだこと。
松の落葉を集めて焚き火をしたこと。
袋掛けを手伝った果樹園。
藜が生い茂る畑。
今はもうない風景。
「あっという間だったなあ」
思わず呟いた。
民子が聞き返す。
「何が?」
「人生」
民子は少し黙った。
そして言った。
「まだ終わってないよ」
富子は笑った。
「そうだった」
「終わった人は筍ご飯食べない」
「確かに」
二人は声を立てて笑った。
そのとき雲の切れ間から光が差した。
雨粒が一斉に輝く。
庭の葉桜。
未央柳。
草苺。
すべてが金色に見えた。
目白がまた鳴いた。
まるで雨上がりを祝福するようだった。
民子が帰る頃には空の半分が青くなっていた。
玄関先で手を振る。
「またね」
「またね」
短い言葉だった。
だが十分だった。
見送ったあと、富子はひとり庭へ出た。
濡れた土を踏む。
空気は冷たく澄んでいた。
葉桜の葉から最後の雫が落ちる。
ぽたり。
その音を聞いた。
ただそれだけだった。
ただそれだけなのに、胸の奥が少し温かかった。
若い頃は大きな幸せばかり探していた。
結婚。
子育て。
仕事。
夢。
けれど今は違う。
新茶が香ること。
友人と笑うこと。
雨上がりの空を見ること。
目白の声を聞くこと。
そういう小さなものが、実は人生を支えていたのだと知った。
西の空には薄い虹が出ていた。
富子は静かに微笑む。
「明日も生きてみるか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
雨に洗われた五月の夕暮れが、ゆっくりと町を包み込んでいった。




