5月28日 皐月の滴に濡れる街
皐月の滴に濡れる街
降り続く夏の雨が、喫茶店の大きな窓を白く煙らせていた。五月の終わりというのに肌寒く、ガラス越しに見える街路樹の葉桜は、すっかり重たげな深緑に変わって雨の重みに耐えている。
千代子はテーブルの上で、温かい新茶の湯呑みを両手で包み込んだ。緑茶の清々しい香りが湯気とともに立ち上り、こわばっていた指先をじんわりと解きほぐしていく。彼女が身にまとっているのは、薄手の鶯色のカーディガンと、足首まである生成りの麻のロングスカートだ。少し湿気を吸って重くなった裾が、足首にまとわりつくのが気になって、千代子は小さく身じろぎした。
向かいに座る夫の修一は、麻の白いシャツの袖をたくし上げ、運ばれてきたばかりの昼食に箸を伸ばしている。
「ここの蓴菜の吸物、やっぱり絶品だな。喉越しがひんやりして、目にも涼しい」
「ええ、本当に。器の中でつるんときらめいて、まるで雨の雫を閉じ込めたみたいね」
千代子も自分の膳に目を落とした。透明な出汁の中で、ぷるぷる shareholder とした粘膜に包まれた蓴菜が揺れている。口に含むと、つるりとした独特の食感のあとに、かすかな磯の香りと出汁の旨味が広がった。付け合わせの筍の煮物を噛み締めると、小気味よい歯ごたえとともに、えぐみのない大地の滋味が鼻に抜ける。
「そういえば、今朝のニュースで言っていたよ。この時期の南風に乗って降る激しい雨のことを、筍流しって呼ぶんだそうだ。まさに今日の雨がそれだね」
修一はそう言って、窓の外の激しい雨脚を見やった。
「筍流し……。綺麗な言葉ね。でも、なんだか少し切ない響き。せっかく伸びようとしている筍を、押し流してしまうみたいで」
「いや、むしろ逆さ。この雨が、竹林を一気に成長させるんだよ。自然の営みっていうのは、人間が思うよりずっと逞しいものさ」
修一の言葉はいつも穏やかで、千代子の心を落ち着かせる。
千代子は文字を読むことが苦手だった。文字の形が頭の中でうまく結びつかず、歪んだり踊ったりしてしまうのだ。スマートフォンも持っていない彼女にとって、世界は耳から聞こえる音、肌で感じる空気、そして目に見える色彩のグラデーションで構成されていた。だからこそ、修一が語る言葉の響きや、季節の移ろいを示す生き物たちの気配には、人一倍敏感だった。
「ねえ、修一さん。今朝、お庭の隅で、小さな赤い実を見つけたの。草苺かしら」
「ああ、あの生垣の根元のだね。可愛い実がなっていたろう。でも気をつけないと、根切虫に根元を荒らされている株もあるみたいだ。園芸もなかなか一筋縄ではいかないよ」
「あら、可哀想に。せっかく実をつけたのにね」
「まあ、それも自然の一部だからね。午後からは雨が上がる予報だし、帰ったら少し庭の手入れでもしようか」
修一はそう言って、デザートの小皿に盛られた藜の白和えを美味しそうに口に運んだ。
店を出る頃には、修一の予報通り、雨は嘘のように小振りの霧雨へと変わっていた。雲の切れ間から、五月の柔らかな光が差し込み始めている。
二人は一本の大きな傘を分け合って、濡れたアスファルトの道を歩き出した。どこからか、チー、チーと甲高い鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「あ、目白だわ。あそこの桐の木の枝にいる」
千代子が指差す先、薄紫色の釣鐘形の桐の花が、雨に濡れてしっとりと咲き誇っていた。その花の隙間を、鮮やかな黄緑色の小さな体が、せわしなく動き回っている。
「よく見つけたね、千代子。僕には葉の緑と同化して、なかなか見分けがつかないよ」
「あの子たちは、花の蜜が大好きなのよ。ほら、一生懸命に嘴を差し込んでいるわ」
目白の愛らしい姿を見つめる千代子の胸に、温かな灯火がともるような喜びが広がった。文字は読めなくても、こうして自然の美しい一瞬を捉えることができる。そのことが、彼女の誇りであり、生きる支えでもあった。
さらに歩を進めると、住宅街の一角にある小さな公園の脇に出た。生垣に沿って、鮮やかな黄色い花が、雨の雫をいっぱいにため込んで咲いている。
「綺麗な花ね。細くて長いおしべが、まるで金の糸みたい。なんていう名前かしら」
「これは未央柳だよ。中国の古い詩に出てくる太液池の柳に、葉が似ているからその名がついたんだ。花言葉は、たしか『気高さ』だったかな」
「未央柳……。音も、姿も、とてもお上品ね」
千代子はそっと手を伸ばし、花びらに触れてみた。しっとりとした柔らかな感触が、指先から心へと伝わってくる。
その時、公園の木々から、パサパサと音を立てて何かが落ちてきた。
「おっと、危ない。松落葉だね。この時期の松は、古い葉を落として新しい青葉に生まれ変わるんだ」
修一が千代子の肩を抱き寄せるようにして、落ちてきた茶色い松葉をよけた。足元を見ると、濡れた地面に無数の茶色い松葉が散らばり、まるで繊細な絨毯のようになっている。
「散松葉ね。雨に濡れて、お線香のような、少しツンとした良い香りがするわ」
「本当だ。雨上がりの土の匂いと混ざり合って、なんだか落ち着く匂いだね」
二人は顔を見合わせて微笑んだ。
我が家の近くまで戻ってくると、近所の果樹園の脇を通りかかった。
初夏の風に揺れる梨の木々には、小さな実の一つひとつに、白い不織布の袋が丁寧に被せられている。
「袋掛の季節ね。まるでお人形さんがたくさん並んでいるみたいで、可愛いわ」
「そうだね。こうして一つずつ袋を掛けることで、病気や虫から実を守るんだ。農家の方の愛情と手間に頭が下がるよ」
白い袋が五月の青空に映えて、規則正しく揺れている。その光景は、千代子の目に、静かな祈りの列のように映った。
自宅の門をくぐると、どこか遠くから、ゴーーッという低い水音が響いてきた。近所にある小さな人工滝の音だ。雨を集めて、いつもより勢いよく水が流れ落ちているのだろう。その豪快な音は、湿った空気を震わせ、夏がすぐそこまで来ていることを告げていた。
「ずいぶん滝の音が大きく聞こえるわね。雨の後だからかしら」
「そうだね。それに、ほら、あそこを見てごらん」
修一が指差す先、表の通りを一台の大きな車がゆっくりと通り過ぎていくところだった。車体の後ろから、勢いよく水が道路に撒かれている。
「散水車だわ。雨が上がったばかりなのに、お水を撒くのね」
「雨上がりの泥や埃を、乾く前に一気に洗い流してしまうためさ。街を綺麗に保つための、大切な仕事なんだよ」
散水車が通り過ぎた後の道路は、鏡のように黒く光り、雲間から覗いた青空を美しく映し出していた。
玄関に入り、濡れた上着を脱ぐと、千代子はふうと深い息を吐いた。
文字に囲まれた世界は、彼女にとって時に冷たく、疎外感を覚えさせるものだ。しかし、一歩外へ出れば、五月の雨が育てた緑があり、鳥が歌い、花が香り、夫が優しい言葉で世界を翻訳してくれる。
「千代子、少し冷えたろう。もう一度、新しい新茶を淹れようか」
「ええ、おねがいします。今度は私が、お茶請けを準備するわね」
千代子は台所に立ち、お気に入りの和菓子をお皿に並べた。窓の外では、さっきまでの激しい筍流しの雨が嘘のように止み、洗いたての葉桜が、初夏の光を浴びてキラキラと輝き始めている。彼女の心の中にも、爽やかな皐月の風が、静かに吹き抜けていくようだった。
5月28日
葉 桜
草 苺
筍流し
夏 雨
根切虫
五 月
松落葉
五 月
袋 掛
藜
新 茶
桐の花
蓴 菜
目 白
滝
散水車
散松葉
未央柳
夏の雨




