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八月四日の季語帳

八月四日の季語帳


八月四日の夕方、十七歳のさやかは、白い麻のブラウスと紺色のスカートを着て、夏座敷のちゃぶ台に向かっていた。小説家を目指す彼女は、語彙を増やすため、毎日一つ以上の季語を国語のノートへ書いている。今日は欲張って、くらげ、走馬燈、桐一葉、峰雲、浴衣、葭簀、定斎屋と並べたが、意味を写しただけでは物語に使える気がしなかった。


「おばあちゃん、定斎屋って、どんなお店なの?」


七十歳の富子は、百日草を生けた花瓶の水を替えながら、使い古した手ぬぐいで額の汗を拭いた。窓辺の葭簀が風を受けて乾いた音を立て、庭の鉢では睡蓮の葉が夕方の光を照り返している。富子は定斎屋が、暑い季節に薬を売り歩いた昔の商人だと説明した。


「箱を担いで町を歩くと、金具が音を立てたそうだよ。季語は辞書に書いてある意味だけじゃなくて、音や匂いまで想像するものさ」


「音や匂いかあ。覚えることが増えちゃった」


「小説家になりたいなら、面倒なことも面白がらなくちゃね」


台所では、父の和俊が青い割烹着を着て、夕食の水貝を用意していた。包丁がまな板へ当たる音に混じり、切ったトマトの青い匂いが夏座敷まで届いてくる。さやかがノートに「トマト――蕃茄、赤茄子ともいう」と書くと、和俊が冷蔵庫から顔を出した。


「呼び方が三つあっても、食べたら同じトマトだぞ」


「そういうことを言うから、お父さんは小説家になれないの」


「なる予定もないよ。それより、味見をしてくれ」


さやかは塩を振ったトマトを一切れ食べ、冷たい果肉を噛んだ。少し酸っぱかったが、夏ばてした体には、その酸味が気持ちよかった。遠くの校庭から野球部の打球音が聞こえ、窓の外には大きな峰雲が立ち上がっていた。


「ねえ、お父さん。今年の夏祭り、行かないの?」


「この暑さでは、人混みへ入る前に三人ともへばってしまうよ」


「せっかく、お母さんが残してくれた浴衣があるのに」


さやかが畳んである紺色の浴衣へ目を向けると、和俊の手が止まった。富子は二人の顔を交互に見たあと、押し入れから古い走馬燈を取り出した。ところどころ紙が剝がれていたが、内側には馬や朝顔が描かれ、竹の骨組みはまだ使えそうだった。


「祭りへ行けないなら、うちで夏祭りをすればいい。さやかは浴衣を着ておいで」


「おばあちゃん、直せるの?」


「口より先に手を動かしな。小説も走馬燈も、眺めているだけでは完成しないよ」


三人は夕食後、走馬燈の破れた紙を直し、縁側へ小さな台を運んだ。富子が作った氷小豆をガラスの器へ盛ると、匙が触れるたびに涼しい音がした。庭の百日草と睡蓮は夕焼に染まり、峰雲の端には、くらげのような白い雲が一つ浮かんでいた。


走馬燈に灯りを入れると、馬の影が葭簀の上をゆっくり回り始めた。紺色の浴衣を着たさやかは、母が結んでくれた帯の感触を思い出しながら、ノートへ今日の出来事を書き留めた。庭先で桐の葉が一枚落ちるのを見つけると、それまで辞書の中にしかなかった「桐一葉」という言葉が、初めて自分の暮らしとつながった。


「おばあちゃん、分かったよ。季語は覚えるだけじゃなくて、自分で見たり、食べたり、聞いたりするものなんだね」


「そうさ。今日の氷小豆の甘さも、野球の音も、いつか物語の役に立つよ」


「それなら、お父さんの割烹着も書いておこうかな」


「そこは書かなくていい」


和俊が慌てて割烹着を外すと、さやかと富子は声を上げて笑った。さやかはノートの新しいページを開き、題名を「八月四日の季語帳」と決めた。覚えたばかりの言葉を飾るのではなく、三人で過ごした夕方を読者に分かるように書こうと思い、ボールペンを握り直した。


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