麦秋のきらめきと、五億五千万の檻
麦秋のきらめきと、五億五千万の檻
窓の外に広がる西麻布の街並みは、五月の陽光を浴びて白く眩しく輝いていた。
日本で最も高額とされる超高級シニアレジデンス「パークウェルステイト西麻布」の最上階。百三十平方メートルを超えるその居室は、さながら天空に浮かぶ城のようだった。
織田静子は、上質なシルクを贅沢に使った淡いペールブルーのブラウスに、仕立ての良い白のサマーウールパンツを合わせ、特注の革製ソファに深く腰掛けていた。肌を滑る生地の滑らかさは心地よいはずなのに、胸の奥にある重苦しい塊は消えない。
二入居の一時金として五億五千万円を支払い、毎月五十万円以上の利用料を払い続ける生活。ここには老いの苦しみから逃れるためのすべてが揃っているはずだった。
だが、静子は目の前で文机に向かっている夫の背中を見つめながら、小さく息を吐いた。
夫の毅は、仕立ての良い麻のシャツの袖をまくり、熱心に筆を動かしている。夏書、と呼ばれるこの時期の書を嗜んでいるのだ。部屋には墨の香りが微かに漂い、それがかえって静子の孤独感を際立たせていた。
「あなた、少しは休んだらどうですか」
静子が声をかけると、毅は筆を止め、ゆっくりと振り返った。その顔には、かつて大企業のトップとして君臨していた頃の厳格さはなく、どこか虚ろな影が差している。
「いや、これを仕上げてしまいたい。五月二十六日、今日は蝉丸忌だからな。百人一首の、これやこの、と詠んだあの蝉丸の忌日だ。世の中の無常を思うには、ちょうどいい日だと思わないか」
「無常、ですか。これほど贅沢な場所にいながら、そんなことをおっしゃるなんて」
「贅沢だからこそ、失うものが明確に見えるのさ。窓の外を見てごらん。あの遠くに見える緑は、もう葉桜だろう。季節はあっという間に通り過ぎていく」
毅は自嘲気味に笑い、再び机に向かった。
静子は立ち上がり、大きなガラス窓に近づいた。ベランダの植栽には、初夏を告げる桐の花が薄紫色の可憐な房を揺らしている。風が吹くと、敷地内の庭園から榊の花の控えめな甘い香りが、かすかに鼻腔をくすぐった。
ふと、視線を落とすと、豪奢なガラスの器の中で、真っ赤な金魚がゆらゆらと尾を振って泳いでいるのが見えた。その姿が、まるでこの豪華な檻に囚われている自分たちのようで、静子は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「まるで、かわほりが夜を待つように、私たちはここでただ、時間を潰しているだけなのかしら」
「かわほり、か。蝙蝠のことだな。風流な表現をする。だが静子、私たちはまだ生きている。死を待つだけの場所だと思うな」
毅は筆を置き、静子の隣に並んだ。その手は少し震えていたが、温もりは確かに残っていた。
「わかっています。でも、時折怖くなるのです。ここで過ごす清和の五月が、あまりにも完璧すぎて。外の世界の泥臭さが、懐かしくなるのです」
静子の脳裏に、かつて二人で暮らした古い屋敷の庭が浮かんだ。この時期には、庭の隅にある小さな畑で菜種刈りをしたものだ。刈り取った菜種の、青臭くも力強い匂い。梅雨を前にした夏の雨が地面を叩き、土の匂いを立ち上がらせる、あの湿った空気。
現在のこの部屋は、完璧に温度と湿度が管理され、不快な匂いは一切排除されている。それが、かえって生きている実感を薄れさせているのかもしれない。
「完璧すぎる、か。確かにそうだな。だが、今日の昼食は、君の好きなものが届くはずだよ」
毅が優しく微笑んだ。ちょうどその時、部屋のチャイムが静かに鳴った。
一流ホテルのウェイターのような洗練された身のこなしのスタッフが、恭しくワゴンを押して入ってきた。室内に、一気に華やかな香りが広がる。
運ばれてきたのは、この季節ならではの特別な御膳だった。
主食は、ふっくらと炊き上がった豆飯。鮮やかな緑色のエンドウ豆が、真っ白な米の中で宝石のように輝いている。添えられたお椀からは、新茶の爽やかな香りと、出汁の深い香りが湯気となって立ち上っていた。
「どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」
スタッフが頭を下げて退出すると、部屋には再び二人の時間が戻った。
「美味しそうね。あなた、冷めないうちにいただきましょう」
静子は箸を取り、豆飯を口に運んだ。豆の自然な甘みと、少し硬めに炊かれた米の食感が口いっぱいに広がる。その素朴な味わいに、強張っていた心が少しだけ解きほぐされるのを感じた。
「ああ、美味いな。この新茶の苦味もいい。五臓六腑にしみわたるようだ」
毅も満足そうに目を細めた。
おかずの皿には、真菰の天ぷらと、初夏の訪れを告げる青柚が添えられていた。青柚の皮を少し削って吸い物に落とすと、柑橘の鋭くも清々しい香りが鼻を突き、目の前がパッと明るくなるような錯覚を覚えた。
「ねえ、あなた。思い出すわね。昔、実家の裏山にねずみもちの花が白く咲き乱れていた頃、よく二人で散歩をしたでしょう」
「ああ、覚えているよ。あの頃の君は、よく蛇の衣を見つけては、縁起が良いと言って大騒ぎしていたな」
「まあ、恥ずかしい。そんなこともありましたわね。あの頃は、お金なんてなくても、毎日がもっと鮮やかだったような気がします。今のこの暮らしは、まるで牡丹崩る、の言葉通り、華やかさの絶頂から静かに崩れ落ちていくのを待っているようです」
静子がぽつりと言った言葉に、毅は箸を置き、静子の目を真っ直ぐに見つめた。
「静子、それは違うよ。牡丹は崩れても、その後に豊かな土を育てる。私たちがここにいるのは、人生の終わりを待つためじゃない。これまでの激動の日々を労い、二人で静かに麦秋の輝きを惜しむためだ。ほら、見てごらん」
毅が指差す先、窓の向こうの遠い地平線には、東京のビル群の合間に、金色に輝く神奈川や埼玉の麦畑の幻影が見えるようだった。この時期、地方では麦が黄金色に実り、収穫の時期を迎える。それを「麦秋」と呼ぶのだ。
「麦秋……。秋ではないのに、実りの秋を迎えるのですね」
「そうだ。私たちの人生も同じだ。世間から見れば、ここは老人のための終の住処かもしれない。だが、私にとっては、君と過ごす最後にして最高の、実りの季節なんだよ」
毅の言葉は、静かだが力強かった。その瞳には、かつて静子が惚れ込んだ、困難に立ち向かう男の強い意志が宿っていた。
静子は、自分の胸の奥の塊が、温かいもので溶かされていくのを感じた。
五億五千万円という数字や、高級な調度品に惑わされていたのは、自分自身だったのかもしれない。大切なのは、どこにいるかではなく、誰と、どんな想いで今を生きているかだ。
窓外の空が、ゆっくりと茜色に染まり始めていた。夏の雨を予感させるような、少し湿った風がベランダのガラスを揺らす。
「あなた、食後に、もう一度新しいお茶を淹れますね。今度は私が、あなたのために」
「ああ、頼むよ。君の淹れる茶が、一番心を落ち着かせる」
静子は立ち上がり、キッチンへと向かった。
金魚の泳ぐ水の音、墨の残り香、そして新茶の香り。この贅沢な空間の中で、二人は確かに、自分たちの「実りの時」を紡いでいた。外の世界がどうあろうと、この部屋の中にある確かな温もりこそが、彼らの真実だった。




