5月26日 『葉桜の渡り廊下』
『葉桜の渡り廊下』
五月二十六日。昨夜から降り続いた夏の雨は、朝になると細かな霧になって校舎を包んでいた。
私は濡れた通学路を歩きながら、傘の先で小さな水たまりを避けた。葉桜になった並木はすっかり濃い緑で、雨粒を受けて重たそうに揺れている。
県立鳴瀬高校二年三組。
昇降口へ入ると、湿った革靴の匂いと、新しい雑巾の匂いが混ざって鼻をくすぐった。
「おはよう、結月」
背後から声を掛けられて振り向く。
同じクラスの朝倉蒼だった。白いワイシャツの袖を肘までまくり、濃紺のネクタイを少し緩めている。黒髪は雨で少し濡れていて、長い睫毛に雫が残っていた。
「お、おはよう」
「傘、びしょ濡れじゃん」
「風強かったから……」
蒼は私の傘を受け取ると、勝手に傘立てへ差し込んだ。
「はい終了。風邪ひくぞ」
「子供扱いしないで」
「してない。心配してるだけ」
そう言って笑う顔がずるい。
胸の奥が少し熱くなって、私は慌てて視線を逸らした。
教室へ入ると、窓際の席から麦秋の田んぼが見えた。学校の裏手には広い畑があり、黄金色になった麦が雨風に波打っている。
「綺麗だな」
蒼が私の隣で呟く。
「うん」
「菜種刈も終わったし、もう初夏だなあ」
「おじいちゃんみたい」
「失礼だな」
朝のホームルーム前、クラスは騒がしかった。文化祭の実行委員が黒板に予定を書き、男子たちは窓際で騒ぎ、女子は新しい夏服の話をしている。
私は机に夏書の課題を広げた。毛筆で俳句を書く宿題だ。
「終わった?」
蒼が覗き込む。
「まだ。字下手だから嫌」
「見せて」
「やだ」
「なんで」
「笑うから」
「笑わないって」
半ば強引に半紙を取られた。
『清和』
墨が少し滲んでいる。
「いいじゃん」
「全然よくない」
「真面目で好きだけどな、こういう字」
「……」
さらっと変なことを言う。
「今、好きって言った?」
「字が、な」
「強調しなくていい」
蒼は肩を震わせて笑った。
四時間目の古文では、蝉丸忌の話題が出た。古典教師の佐伯先生はやたら熱弁する人で、黒板に大きく和歌を書きながら言う。
「歌は感情です!」
「先生、声でかい」
後ろの席で男子がぼやき、教室が笑いに包まれた。
窓の外では雨がやみ、青空が少し見え始めていた。
昼休み、私は蒼と中庭へ出た。
ベンチの近くにはねずみもちの花が咲き、甘ったるい香りが漂っている。雨上がりの空気は清和そのもので、肺の奥まで透き通るみたいだった。
「今日の弁当なに?」
蒼が当然みたいに訊く。
「豆飯」
「やった」
「なんで嬉しそうなの」
「結月の豆飯うまいから」
蓋を開けると、青豆の匂いがふわっと立った。卵焼き、鶏の照り焼き、青柚を添えた浅漬け。
蒼は購買の焼きそばパンを持っていたくせに、じっとこちらを見る。
「……少しなら」
「神」
「大げさ」
蒼は私の弁当を一口食べて、目を丸くした。
「うまっ」
「そんな驚く?」
「いや、旅館の朝飯みたい」
「褒めてる?」
「褒めてる」
風が吹いて、桐の花がはらりと落ちた。
その時、中庭の池で金魚が跳ねた。赤い尾が水面を裂き、小さな波紋が広がる。
「金魚ってさ」
蒼が呟く。
「見てると時間止まる感じしない?」
「わかる」
「授業中もあんな気分でいたい」
「寝てるだけでしょ」
「ばれたか」
笑いながら、蒼は突然「あ」と声を上げた。
渡り廊下の屋根裏に、小さな影がぶら下がっていた。
「かわほり」
「え?」
「ほら、蝙蝠」
小さな黒い羽が揺れている。
「昼なのに珍しい」
「雨宿りしてたのかな」
私は少しだけ蒼に近づいた。怖いわけじゃないけれど、羽音が苦手だ。
「怖い?」
「ちょっと」
「じゃ、こっち」
蒼は自然に私の肩を引き寄せた。
近い。
制服越しに伝わる体温が熱い。
「朝倉くん」
「ん?」
「距離近い」
「嫌だった?」
その聞き方は反則だ。
「……別に」
「ならよかった」
蒼は平然としているのに、私だけ心臓がうるさい。
午後の授業が終わる頃には、空はすっかり晴れていた。
帰り道、校門の近くで蛇の衣が落ちているのを見つけた。白く乾いた抜け殻が草に引っかかっている。
「うわ」
私が立ち止まると、蒼が覗き込んだ。
「でかいな」
「触れないでよ」
「触らないって」
「絶対触る顔してる」
「失礼な」
でも次の瞬間、蒼は枝でつついた。
「ほらやっぱり!」
「だって気になるじゃん」
「子供!」
二人で笑っていると、夕方の風が吹き抜けた。
榊の花の青い匂いがどこからか漂ってくる。
校舎の窓は夕日に染まり、葉桜が長い影を落としていた。
「なあ」
蒼が急に真面目な声を出した。
「来月の文化祭、一緒に回らない?」
「……みんなでじゃなくて?」
「二人で」
私は一瞬、言葉を失った。
遠くで運動部の掛け声が響く。吹奏楽部の音も混じる。夏の始まりみたいな空気だった。
「嫌ならいいけど」
蒼が珍しく弱気な声を出す。
私は鞄を抱え直した。
「……嫌じゃない」
「ほんと?」
「うん」
蒼は目を細めて笑った。
「じゃ、決まり」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
雨上がりの道にはまだ水たまりが残り、夕空を映している。
麦秋の風が吹き抜ける。
私は隣を歩く蒼を見上げながら、今年の夏はきっと特別になるのだと思った。
5月26日
麦 秋
葉 桜
夏の雨
牡丹崩る
桐の花
新 茶
金 魚
かわほり
夏 書
真 菰
清 和
麦 秋
菜種刈
蝉丸忌
ねずみもちの花
蛇の衣
青 柚
榊の花
豆 飯




