朝顔の苗の秘密
朝顔の苗の秘密
事件の翌日、五月二十六日。昨日までの騒がしさが嘘のように、金魚田の周りは静まり返っていた。しかし、神代一郎の胸のざわつきは収まっていなかった。
「神代さん、伍平さんからお裾分けです。昨日の今日ですが、畑で採れたての夏柳の葉のように鮮やかな、瑞々しい瓜をたくさんいただきましたよ」
静江が、麻の涼しげな白いワンピースの袖をたくし上げながら、ガラスの器を運んできた。中には、薄切りにして塩で揉んだばかりの、青々とした香りが弾ける瓜揉みが入っている。
「ああ、ありがたくいただこう」
神代は、袖口を少し捲り上げた薄手のサマージャケット姿で、箸を伸ばした。シャキシャキとした小気味よい歯ごたえと共に、お酢の爽やかな酸味と瓜の甘みが口いっぱいに広がり、鼻から抜ける涼しい香りが蒸し暑さを和らげてくれる。
「でも、不思議ですね。正二さんが捕まったというのに、伍平さんはなんだかまだ怯えている様子でした。まるで、この家に何か恐ろしいものでも憑いているかのように……」
静江の言葉に、神代は湯呑みの新茶を一口すすり、目を細めた。温かい新茶の、まろやかで奥深い渋みが、胃の腑に染み渡っていく。
「正二の自供には、一つだけ妙な点があった。彼は兄の桐原さんを刺したことは認めたが、あの滲んだメモ書きについては『自分の書いたものではないし、兄の筆跡でもない』と頑なに否認したんだ」
「文字が滲んで読めなかった、あのメモですか?」
「そうだ。それと、もう一つ。昨日、庭にぽとりと落ちた牡丹の赤い花弁の中に、私は見てしまったんだ。本物の蛇の衣、つまり蛇の抜け殻が、綺麗に丸められて隠されていたのをね。正二の凶器の模様を暗示するかのような不気味な一致だ」
その時、開け放たれた縁側の向こう、ニセアカシアの白い花が風に揺れる庭から、伍平の大きな声が響いた。
「神代先生! ちょっと、これを見てくれ!」
神代と静江が慌てて庭へ出ると、伍平が朝顔の苗を植えようと、土を掘り返した状態で固まっていた。彼の足元には、黒いビニールポットに入った瑞々しい緑の朝顔の苗が並んでいる。その掘り起こされた土の底から、古びた桐の箱が顔を出していた。
「桐原の旦那の屋敷の崖下、ちょうどこの桐の花が散り積もる場所に、こんなものが埋まってただなんて……」
伍平は泥のついた作業着の袖で額の汗を拭った。
神代はしゃがみ込み、箱の蓋を開けた。中から出てきたのは、数十年前の震災の記憶を呼び覚ますような、埃とカビの臭いが立ち上る一冊の古い日記帳だった。
「これは……大震災の年の、桐原家の日記だ」
ページをめくると、文字が細かく並んでいる。
「『震災の混乱に乗じ、我が家は時価数億円の美術品を隠匿した。だが、その秘密を知る者がもう一人いる。近所の植木職人の家系だ』……」
神代が日記を読み上げると、静江が小さく息を呑んだ。
「植木職人って、まさか、昨日伍平さんが名前を挙げていた、瓜の花を育てている佐吉さんですか?」
「おそらくね。そして、あの滲んだメモは、佐吉が桐原さんに宛てた『強請りの手紙』だったんだ。正二が兄を殺害する直前、実は佐吉もまた、この場所で桐原さんと激しく言い争っていた可能性がある」
「その通りだよ、神代先生」
突如、ニセアカシアの木陰から、低い声がした。現れたのは、地下足袋に汚れた半纏を羽織った男、佐吉だった。彼の身体からは、長年土に触れてきた独特の泥臭さと、どこか蚤が湧くような、うらぶれた生活の匂いが漂っていた。
「佐吉さん……どうしてここに?」
静江が身構える。
「俺は、桐原の旦那に、あの震災で奪われた俺のじいさんの美術品を返せと言い続けてきた。昨日も、豆飯を食いながらのんきに歩く旦那を捕まえて、この滝の裏でな」
佐吉は、金魚田へ水を注ぐ小さな滝を指差した。滝の水音は、今も轟々と周囲に響いている。
「だが、俺は殺しちゃいねえ! 俺が旦那と別れた時、旦那はまだ生きていた。正二の奴が旦那を刺すのを見て、俺は怖くなって逃げ出したんだ。だが、あのメモが見つかったら俺が疑われると思って、死体からメモを抜き取ろうとしたが、すでに水に濡れて読めなくなっていた。だからそのままにしたんだ!」
佐吉の目は血走り、恐怖と怒りで夏柳のように細い身体を震わせていた。
「なるほど。あなたの言葉に嘘はなさそうだ。もしあなたが犯人なら、わざわざ自分の存在を示すようなメモを現場に残すはずがない」
神代は静かに頷き、空を見上げた。夕暮れ時、蚊喰鳥が鋭い声で鳴きながら、頭上を掠めていく。
「しかし、佐吉さん。あなたが桐原さんと激しく言い争っていたその時、もう一人、その様子をじっと影から見つめていた者がいる」
神代の視線が、佐吉から、ゆっくりと別の人物へと向けられた。
「ねえ、伍平さん。あなただ」
「えっ? 俺ですか? 何をおっしゃるんですか、神代先生!」
伍平の顔がみるみるうちに強張っていく。
「あなたは昨日、正二が犯行に及ぶよりも前に、佐吉さんと桐原さんの諍いを目撃した。そして、正二が兄を殺害する瞬間をも、物陰から見ていたはずだ。あなたはそれを利用した」
「利用したって、何を……!」
「あなたは、正二が去った後、まだ息のあった桐原さんに近づき、彼が持っていた『本当の美術品の隠し場所』の鍵を奪い取った。そして、虫の息だった桐原さんを完全に水の中へ沈め、息の根を止めたんだ。正二の刺し傷は致命傷ではなかった。本当の死因は、泥水を吸い込んだことによる窒息死……つまり、あなたが手を下した溺死だ」
伍平は口を震わせ、着ている泥まみれのTシャツを激しく引っ張った。
「証拠は、あなたが『豆飯を食べていた』というその証言です。昨日、あなたが私を呼びに来た時、あなたの口元にはまだ豆飯の青大豆がついていた。しかし、あなたが朝顔の苗を植えようとしていたこの場所の土からは、桐原さんが身に付けていた最高級の香水の匂いと、揉み合ったような激しい足跡、そしてあなたが奪った鍵が、そこの土の中に今も埋まっているはずだ」
神代が伍平の足元の、まだ掘り起こされていない朝顔の苗のすぐ下を指差すと、伍平はその場にへたり込んだ。
「……旦那が悪いんだ。あんな大震災の遺産、どっちみち不当に手に入れたものじゃないか。俺が少しばかり懐に入れたって、バチは当たらないはずだ……!」
伍平は頭を抱え、地面に涙を落とした。朝顔の若い苗が、その涙を吸い込むように、夕暮れの風にしな垂れていた。
二つの欲が絡み合った奇怪な金魚田の事件は、こうして完全に幕を閉じた。
夜、すっかり静まり返った縁側で、神代と静江は門涼みをしていた。
「人間の欲というのは、ニセアカシアの花言葉のように『プラトニックな愛』とは程遠い、泥泥としたものですね」
静江が寂しげに呟く。
「だが、そんな泥の中からでも、金魚は美しく育ち、朝顔は綺麗な花を咲かせる」
神代は、新しく淹れ直した温かい新茶を口にし、ふっと微笑んだ。夜風が、二人の着る木綿の衣服を優しく揺らし、遠くの滝の音だけが、いつまでも心地よく響いていた。




