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金魚田の波紋

金魚田の波紋


眩しい五月の陽光が、古い日本家屋の縁側を白く炙り出している。五月二十五日。風はすでに初夏の匂いを孕み、庭の片隅では大きな牡丹の花が、重さに耐えかねたように音もなく崩れ落ちた。ぽとり、と濡れたような赤い花弁が土を汚す。

元刑事の探偵、神代一郎は、麻の混じった薄手のサマージャケットの襟をくつろげ、湯呑みから立ち上る新茶の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。わずかに渋みのある、しかし驚くほど爽やかな緑の香りが、乾いた喉を潤していく。

「神代さん、お待たせしました。冷たい瓜揉み、作ってきましたよ」

台所から現れたのは、助手の静江だ。彼女は涼しげな藍染めの浴衣風のブラウスに、白い木綿のスカートを揺らしている。ガラスの小鉢に盛られた瓜揉みは、塩で揉まれた青臭い香りと、お酢のツンとした刺激を放ち、見るからに涼を誘った。

「ありがたい。この暑さだ、門涼みには少し早いが、身体が酢を欲していたところだ」

神代が箸を伸ばしたその時、庭の向こうから、激しい足音が近づいてきた。

「神代先生! 大変だ、ちょっと来てくれ!」

飛び込んできたのは、近所の養魚場を営む男、伍平だった。汗だくのTシャツに泥のついた作業ズボン姿の伍平は、血相を変えている。

「どうした伍平さん。そんなに慌てて。まずは新茶でも飲んで落ち着きなさい」

「茶なんか飲んでる場合じゃないんだ! 裏の金魚田で、人が死んでるんだよ!」


伍平の案内で向かったのは、集落の端にある「金魚田」と呼ばれる浅い養殖池だった。一面に張られた水の中に、鮮やかな赤い金魚たちが群れをなして泳いでいる。だが、その美しい赤と緑の水草の間に、不自然な塊が浮いていた。

水色のポロシャツを着た男が、うつ伏せになって泥水に顔を浸けている。背中には、まるで蛇の衣――脱皮した蛇の抜け殻のような、奇妙な斑点模様のついたナイフの柄が突き刺さっていた。

「これは……」

神代は池の縁にしゃがみ込み、眉をひそめた。泥の臭いと、微かな血の生臭さが鼻をつく。

「被害者は、この先の桐の木がある屋敷の主、桐原さんじゃないですか?」

静江が悲鳴を噛み殺しながら、紫色の桐の花が咲き誇る崖上の屋敷を見上げた。

「ああ、桐原の旦那だ。さっき俺が豆飯の入った弁当を食いながら、朝顔の苗を植える準備をしてたんだ。そしたら池に変なものが浮いてるのが見えて……」

伍平はガタガタと震えている。

神代は周囲を見回した。金魚田の周りは柔らかな泥土だ。しかし、奇妙なことに、被害者の足跡以外、周囲に明確な足跡が残っていない。まるで犯人は空を飛んで逃げたかのようだった。

「伍平さん、第一発見者はあなただけか?」

「いや、俺が叫んだら、すぐに隣の瓜の花を育ててる畑から、植木職人の佐吉が飛んできた。それから、あそこにいる被害者の弟の正二さんもだ」

神代の視線の先、いつの間にか集まっていた野次馬の中に、仕立ての良いグレーの夏用スーツを着た男が立っていた。被害者の弟、桐原正二だ。彼は信じられないという風に目を見開いている。

「兄さんが……まさか、あの震災の呪いか?」

正二が小さく呟いた言葉を、神代の耳は逃さなかった。

「震災の呪い、とはどういう意味ですか、正二さん」

神代が近づくと、正二は顔をしかめ、自身の服についた蚤を払うような仕草をしながら言った。

「昔、この地域を襲った大震災の時の話ですよ。うちの家系はあの震災で、ある貴重な美術品を守り抜いた。だが、それを巡って、兄は誰かと揉めていたようなんだ。最近も、ニセアカシアの並木道で、兄が誰かと激しく言い争っているのを見た」


神代は死体の検分に戻った。背中のナイフの傷口は深く、周囲の血はすでに黒く固まり始めている。死後数時間は経過しているようだ。

「静江、被害者のポケットの中身を確認してくれ」

「はい……ええと、これは、古い鍵と、何かのメモ書きですね。文字が滲んで読めません」

その時、上空を夕暮れの使者、蚊喰鳥が鋭い羽音を立てて横切った。神代はふと、金魚田へ水を供給している小さな「滝」の遮断弁に目を留めた。

「伍平さん、この滝の水を止めたのはいつだ?」

「え? 水は止めてないよ。いつも通り流れて……あ、あれ? 水が止まってるな。おかしいな、さっきまでは確かに、水音がうるさいくらいに響いていたはずだが」

神代の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、一気に噛み合い始めた。新茶の香り、牡丹の落花、蛇の衣のような模様、そして止まった滝の水。

「なるほど。犯人の足跡が残っていなかった理由、そして凶器の『蛇の衣』の正体が分かったぞ」

神代は立ち上がり、集まった一同を見据えた。

「正二さん。あなたが、お兄さんを殺害したのですね」

「な、何を馬鹿なことを! 私はさっき来たばかりだ。第一、足跡を残さずに兄を殺して池の真ん中に残すなんて、どうやるんだ!」

正二は激昂し、夏柳の細い枝のように身体を震わせた。

「トリックは、この金魚田そのものにあります」

神代は池の端を指差した。

「伍平さんが『豆飯を食べていた』と言った時、まだ滝の水は流れていた。しかし、あなたがここへ来た時、水は止まっていた。それは、あなたが上流の遮断弁を操作し、池の水位を一時的に数センチメートルだけ『下げた』からです」


「水位を下げただと?」

伍平が素っ頓狂な声を上げた。

「そうです。この金魚田には、魚の逃亡を防ぐための、細い網の張られた棚が水面下に沈んでいた。正二さんは、昨夜のうちに、その水面下の棚の上を歩いて、お兄さんを池の中央まで誘導し、刺殺した。水の中を歩けば、泥土に足跡は残りません。そして今朝、正二さんは滝の水を止め、水位をわずかに下げることで、死体を水面に浮かび上がらせ、発見を早めさせた。なぜなら、あまりに発見が遅れると、自分のアリバイ工作が崩れてしまうからだ」

正二の顔から血の気が引いていく。

「証拠はあるのか!」

「凶器のナイフの柄の模様ですよ。あれは『蛇の衣』……つまり、本物の蛇の皮を巻き付けた、正二さん、あなたの特注の登山用ナイフだ。あなたが大切にしていたコレクションの一部ですね。そしてもう一つ、あなたのズボンの裾を見てください」

神代が指摘すると、一同の視線が正二のグレーのズボンに集まった。

「そこには、池の底に生える特殊な藻と、金魚の鱗が、乾いて白くこびりついている。水の中を歩いた証拠です。あなたが朝顔の苗や瓜の花の美しさに目をくれることもなく、ただ震災の遺産を独り占めにするために兄を手にかけた……それが真相だ」


正二はガタガタと崩れ落ち、泥の中に膝を突いた。

「兄さんは……兄さんはあの震災の時の美術品を、すべて地域の復興のために寄付すると言い出したんだ! 俺たちの取り分がなくなるというのに! あんなニセアカシアの木みたいに、見かけ倒しの偽善に、耐えられなかったんだ……!」

正二の慟哭が、静かな五月の空に響き渡った。


事件が解決し、夕暮れが近づく頃、神代と静江は再び縁側に戻っていた。

「すっかり冷めてしまいましたね、新茶」

静江が申し訳なさそうに言った。

「いや、冷めても美味いよ。伍平さんが持ってきてくれた豆飯も、まだ温かい」

神代は、お櫃に入れられたほんのり塩味の効いた豆飯を口に運んだ。初夏の柔らかな風が、門涼みの肌に心地よい。遠くで、再び滝の水が流れ出す音が聞こえ始めていた。



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