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5月25日『夏柳の下で』

『夏柳の下で』


 五月二十五日。朝から湿った風が吹いていた。


 古い木造アパートの台所で、湯気を立てる豆飯を前に、私はため息をついた。炊きたての米の匂いに混じって、青豆の甘い青臭さが鼻をくすぐる。


「また溜め息ついてる」


 背後から声がして振り向くと、隣の部屋に住む槙野遼が、勝手口から顔を出していた。白いTシャツに薄墨色のカーディガン、首には古びた手ぬぐい。寝癖のついた黒髪を掻きながら笑っている。


「勝手に入ってこないでください」


「鍵開いてたぞ」


「閉め忘れただけです」


「不用心だなあ」


 遼は当然みたいな顔でちゃぶ台に座り、炊飯器を覗き込んだ。


「お、今日は豆飯か。季節感あるねえ」


「母が送ってきたんです。新茶も」


「じゃ、飯くれ」


「図々しい」


 文句を言いながら茶碗を出す自分が悔しい。


 急須から注いだ新茶は淡い翡翠色で、湯気に若葉みたいな香りが混じる。遼は一口飲んで「うま」と目を細めた。


「こういうの飲むと生き返るな」


「大げさ」


「いや、ほんと。俺、昨日徹夜だったし」


「また金魚田の原稿?」


「そう」


 金魚田というのは、遼が書いている小説の題名だ。町外れの古い池を舞台にした話で、彼は売れない小説家だった。


「主人公が全然動いてくれなくてさ」


「作者のせいでは?」


「辛辣」


 笑いながら豆飯を頬張る遼の横顔を見ていると、胸の奥が変に騒ぐ。私は慌てて湯呑みに口をつけた。


 昼過ぎ、買い物へ出ると商店街の花屋の前に牡丹が散っていた。濃い紅色の花弁が濡れた舗道に張りつき、まるで誰かの着物の残骸みたいだ。


「もう終わりかあ」


 遼が隣で呟く。


「桐の花は咲き始めたのにね」


 見上げると、薄紫の房が風に揺れていた。


 私は紺のワンピースに白いカーディガン、遼はカーキ色のシャツに黒い細身のパンツ。古本屋帰りらしく、紙袋を抱えている。


「それ全部買ったんですか」


「資料。あと漫画」


「絶対漫画が本命」


「ばれたか」


 笑った拍子に彼の肩が私に触れた。柔軟剤の匂いと、少し汗の混じった体温が近い。心臓が変に忙しくなる。


 八百屋の店先には朝顔の苗が並び、隣には瓜の花が黄色く揺れていた。


「夏になるなあ」


「早いですね」


「夏、嫌い?」


「嫌いじゃないですけど、蚊が多いから」


「蚊喰鳥に頼むしかないな」


「燕にそんな期待しないでください」


 その時、遠くで低い音が鳴った。


 ぐら、と地面が揺れる。


「……!」


 棚の鉢植えが震え、通行人が声を上げた。震災以来、小さな揺れでも胸が凍る。


 私は反射的に身を縮めた。


「大丈夫」


 遼の手が肩を掴む。大きくて温かい掌だった。


「ほら、深呼吸」


 揺れはすぐ収まったが、指先が震えて止まらない。


「ご、ごめんなさい」


「謝ることかよ」


 遼は困ったように笑って、それでも手を離さなかった。


「俺も実は苦手。でかい地震以来、滝みたいな音聞くとちょっと身構えるし」


「滝?」


「避難所の近くに人工滝あったんだよ。ずっと水の音しててさ」


 彼の声が少しだけ低くなる。


 私は初めて、遼にも怖いものがあるのだと思った。


 夕方、二人で浅漬けの瓜揉を作った。塩でもんだ青瓜に生姜を混ぜると、瑞々しい匂いが立つ。


「これ絶対酒に合う」


「昼から飲んでた人の台詞じゃないですね」


「失礼な。昼は飲んでない」


「昨日は?」


「……飲んだ」


 窓の外では夏柳が風に揺れていた。細い枝葉が夕暮れの空を撫でるたび、さらさら音がする。


 門の外から近所の子供の笑い声が聞こえた。もう門涼みの季節だ。


 遼は突然、「そういえば」と言った。


「お前、昨日アカシアの道歩いてただろ」


「見てたんですか?」


「たまたま。白いワンピース着てた」


「……」


「似合ってた」


 不意打ちみたいに言われて、顔が熱くなる。


「急に何なんですか」


「いや、言っとこうと思って」


「今さらです」


「照れてる?」


「照れてません」


 遼は笑いながら、ちゃぶ台に肘をついた。


「なあ」


「はい?」


「俺さ、最近お前いると原稿進むんだよ」


「意味わかりません」


「会話すると頭動くし、飯うまいし、安心する」


 さらっと言うから困る。


 窓から入る夕風が、私の髪を揺らした。


 どこかで金魚売りの呼び声がする。


「……それ、誰にでも言ってません?」


「言わない」


 遼は珍しく真面目な顔をした。


「お前だけ」


 胸がどくりと鳴った。


 沈黙が落ちる。


 遠くで蚊喰鳥が低く飛び、夕空を裂いていく。


 私は逃げるように立ち上がった。


「お茶、淹れ直します」


「逃げた」


「逃げてません」


「耳赤いぞ」


「うるさいです!」


 遼が声を立てて笑う。その笑い声を聞いていると、悔しいのに安心してしまう。


 急須に新しい茶葉を入れながら、私は小さく息を吐いた。


 好きになってはいけないと思っていた。


 売れない小説家で、だらしなくて、勝手に部屋へ入ってきて、でも震える手を何も言わず握ってくれる人。


 湯気の向こうで、遼がこちらを見ていた。


「なあ」


「何ですか」


「今度、滝見に行かない?」


「急ですね」


「怖い音、上書きしようと思って」


 私は少しだけ笑った。


「……なら、お弁当作ります」


「やった」


「でも朝早いですよ」


「頑張る」


「絶対寝坊します」


「起こして」


「嫌です」


「冷たいなあ」


 そんなくだらない会話が、妙に幸せだった。


 窓の外で夏柳が揺れる。


 夜の気配を含んだ風は少し湿っていて、新茶の香りと混じりながら、静かに部屋を満たしていた。



5月25日 


豆 飯


金魚田


金 魚


牡丹散る


桐の花


新 茶


震 災


蚊喰鳥




アカシア(ニセアカシア)


朝顔の苗


瓜の花


瓜 揉


蛇の衣


門涼み


震 災


夏 柳



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