五月の風と黄金の海
五月の風と黄金の海
五月二十四日の朝は、まるですべての濁りを洗い流したかのような青空で始まった。
古い木造家屋の縁側からは、庭の片隅にある牡丹園が見える。大輪の紅や白の花びらが、最後の艶やかさを競うように咲き誇り、甘く濃厚な香りを初夏の風にのせて漂わせていた。
居間の畳の上では、祖母の文江が慣れた手つきでガラスの金魚鉢を拭いている。その中では、真っ赤な金魚がゆったりと尾を振って泳いでいた。
「ほら、見てごらん。涼しげだねえ」
文江は目を細め、隣に座る孫の晴斗に声をかけた。
「うん、金魚玉が光を反射して、天井に水面みたいな模様が映ってる」
中学生の晴斗は、じっとその光の揺らめきを見つめていた。文字を読むことが苦手な彼にとって、世界は文字ではなく、こうした色彩や光の陰影、そして匂いで記憶されるものだった。
「晴斗、お茶が入ったよ。今年の新茶。一番良い葉を仕入れたんだから」
台所から母親の美智子が入ってきた。手には、湯気を立てる新緑色のお茶が注がれた湯呑みと、おやつのみたらし団子が乗った皿がある。美智子は、初夏らしい麻の白いブラウスに、薄いブルーのロングスカートを揺らしていた。
「わあ、いい匂い。香ばしい中に、ちょっと青い草みたいな甘い香りがする」
晴斗は湯呑みを両手で包み込み、温かさを肌で感じながら、深く息を吸い込んだ。
「お茶の匂いは心が落ち着くねえ。昔から薬の日なんて言って、この時期の薬草や初物を大切にしてきたんだよ。体に良いものを摂って、夏に備えるのさ」
文江はそう言って、藍染めの木綿の作務衣の袖をまくり、お茶を一口すすった。
「あ、また少し揺れた?」
晴斗がふと、湯呑みの水面を見た。わずかに波紋が広がっている。ここ数日、この地域では小さな余震が続いていた。地面の底から響くような地鳴りが、かすかに耳の奥を震わせる。
「大丈夫、大したことはないよ。でも、油断は禁物だね」
美智子は優しく晴斗の肩に手を置いた。その手のひらの温もりが、晴斗の小さな不安を綺麗に溶かしていく。
午後になり、晴斗は父親の和雄と一緒に、裏手に広がる畑へと向かった。
少し歩くと、視界が一気に黄金色に染まる。麦の秋。五月でありながら、この一帯だけは実った麦穂が黄金の海のように広がっていた。カサカサと乾いた音を立てて、麦穂が擦れ合う。
「見事な麦秋だな。これが終われば、本格的な夏が来る」
和雄は作業用のカーキ色のチノパンに、汗を吸いやすいグレーのTシャツ姿で、満足そうに目を細めた。晴斗は、お気に入りの黄色いTシャツの袖で額の汗を拭った。じりじりと肌を焼く太陽の熱と、どこか懐かしい香ばしい土の匂いが鼻をくすぐる。
「お父さん、あそこ、川の近くに綺麗な紫の花が咲いてる」
晴斗が指差した先、水路のふちに、鮮やかな紫色の燕子花が、凛とした姿で佇んでいた。その根元には、小さな黄色い都草も身を寄せ合うように群生している。
「よく見つけたな。燕子花は水辺がよく似合う。あの凛とした紫を見ると、五月の爽やかさを感じるよ」
和雄は晴斗の頭をぽんぽんと叩いた。
「うん。それにあっちの大きな木、薄い紫の花がたくさん咲いてるよ」
「ああ、あれは桐の花だ。高いところに咲くから、見上げるのが少し大変だけど、品のあるいい花だろう」
二人は、大きな夏木蔭の元へ移動した。青々と茂った木々の葉が、強い日差しを遮り、ひんやりとした心地よい影を作っている。風が吹くと、ざわざわと葉が擦れ合い、まるで波の音のように聞こえた。
「あ、見て! 鳥が水面に突っ込んだ!」
晴斗が声を弾ませる。
「あれは鯵刺だよ。魚を捕るのが本当に上手な鳥さ」
和雄が教えてくれた。シャープな翼を持つ鯵刺が、水面を鋭く蹴って、また青空へと舞い上がっていく。そのスピード感と躍動感に、晴斗の胸はすうっと晴れやかになった。
夕方近くなり、家に戻ると、庭では文江が大きなザルを広げていた。
「おばあちゃん、何してるの?」
「梅を干す準備さ。まだ少し早いけれど、状態の良いものを下漬けしておいて、天日の下に干すんだよ。ほら、すっぱい、いい匂いがするだろう」
ザルの上に並んだ青梅からは、瑞々しくもキュンと胸が締め付けられるような、特有の酸っぱい香りが立ち上っていた。晴斗は思わず口の中に唾が溜まるのを感じて、笑ってしまった。
「本当に酸っぱい匂いだね。でも、なんだか元気が出る」
「そうさ。夏の暑さを乗り切るには、この梅が一番なんだから」
文江は嬉しそうに、一粒ずつ丁寧に梅を並べていく。
空を見上げると、いつの間にか夕暮れ時を迎えていた。昼間の強い風が嘘のようにピタリと止まり、辺りは静寂に包まれる。
「朝凪もいいけれど、夕方のこの静けさも不思議な気持ちになるね」
晴斗が呟いた。
「これは、あいの風が止んだ証拠さ。この地域では、海から吹く心地よい風をそう呼ぶんだよ。それが止まると、一日の終わりを感じるね」
美智子が縁側に出てきて、夕食の支度ができたことを告げた。
ふと、薄暗くなり始めた空を、黒い小さな影がひらひらと不規則に舞った。
「あ、蝙蝠だ」
晴斗が指をさす。
「もうそんな時間か。蝙蝠が出てくると、夜が始まる合図だな」
和雄も家の中に入りながら、空を見上げた。庭の隅に植えられた夏柳の細い枝が、風のない空間で、名残惜しそうにほんの少しだけ揺れていた。
今夜の夕食は、初夏らしいメニューだった。
食卓には、新鮮な初鰹のたたきが、たっぷりの生姜と薬味を乗せて大皿に盛られている。それから、採れたての夏野菜の天ぷら。
「さあ、温かいうちに食べよう」
和雄の合図で、家族みんなで箸を伸ばした。
「鰹、もっちりしていて美味しい! 生姜のピリッとした辛さがよく合うね」
晴斗は口いっぱいに頬張りながら、嬉しそうに目を輝かせた。天ぷらを噛むと、サクッという小気味よい音が部屋に響く。衣の香ばしさと、野菜の自然な甘みが口の中に広がった。
「美味しいねえ。こうして家族揃って、季節のものをいただけるのが一番の幸せだよ」
文江は目を細め、お茶を飲みながらしみじみと言った。
「そういえば、来月は地元の祭だね。今年は晴斗も、太鼓の練習に参加するんだろう?」
美智子が尋ねると、晴斗は力強く頷いた。
「うん! 楽譜の文字は読めないけれど、耳で聞いて、リズムを体で覚えれば叩けるって、近所のおじさんが言ってくれたんだ。お腹に響く太鼓の音が、今から楽しみ」
「そうか、しっかり練習するんだぞ。晴斗の太鼓、楽しみにしているからな」
和雄が頼もしそうに晴斗の背中を叩いた。
夜、自分の部屋の窓を開けると、外からはカエルの大合唱が聞こえてきた。
昼間の麦秋の黄金色、燕子花の深い紫、新茶の爽やかな緑、長閑な麦の秋の風景。そして家族の笑顔と美味しい食事の味。文字という記号を使わなくても、晴斗の心の中のノートには、今日という五月二十四日の思い出が、鮮やかな色彩と五感の記憶として、どこまでも深く、美しく刻み込まれていた。




