5月27日 『花』
『花』
夕方の商店街は、玉葱の皮みたいな薄紫の空気に包まれていた。五月の終わり、雨の匂いを含んだ風がアーケードを抜け、葉桜の並木をざわりと揺らしていく。花は青野の少し後ろを歩きながら、シャツの袖を握った。
青野は白い半袖シャツの上に薄い紺のカーディガンを羽織り、くたびれた黒いスラックスを履いていた。煙草の匂いと新茶の香りが混じったような人だった。花は古着屋で買った生成りのワンピースに、灰色のパーカーを重ねていた。昨日の雨で乾ききらなかったスニーカーの底が、歩くたびに少し湿った音を立てる。
「腹減ったな」
青野が振り返らずに言った。
「さっき食べたじゃん」
「焼きそばは食事に入らない」
「入るよ」
「おやつだろ」
花は笑った。青野といると、自分の笑い声が他人のものみたいに聞こえる時がある。
魚屋の前を通ると、氷の上に並んだ鯖が銀色に光っていた。店の奥から威勢のいい声が飛んでくる。
「兄ちゃん、今日は安いよ!」
「今日は金ないんです」
青野が軽く手を振る。魚屋の親父は「また来いよ」と笑った。
その先の花屋には、ぼうたんが大きく咲いていた。重たそうな花弁の赤が、夕暮れの薄青い空気の中で浮かんで見える。卯の花も並んでいる。白い小さな花の群れは、どこか台所の湯気を思わせた。
花は立ち止まった。
「ねえ、これ好き」
「どっち」
「白いの」
「地味だな」
「ぼうたんは疲れる」
「花に疲れるってなんだよ」
青野は笑いながらも、少し真面目な顔で卯の花を見た。
「でも、おまえっぽい」
「どういう意味」
「静かそうに見えて、いっぱい咲いてる感じ」
「意味わかんない」
そう言いながら、胸の奥が少し熱くなった。
八百屋の軒先では、玉葱が山積みになっていた。土の匂い。湿った新聞紙。夕飯の支度を急ぐ人たちの足音。遠くで祭囃子が聞こえる。五月祭の準備らしかった。
「行く?」
花が聞くと、青野は首を傾けた。
「人多いからなあ」
「苦手?」
「おまえが迷子になる」
「子どもじゃない」
「この前も本屋で消えただろ」
「あれは本読んでただけ」
「二時間な」
商店街を抜けると、小さな川が流れていた。滝というほどではない段差から、水が白く落ちている。夕暮れの光を細かく砕きながら流れる水を見ていると、少しだけ涼しかった。
川辺には青鷺が一羽、じっと立っていた。
「置物みたい」
花が囁く。
「動かないよな、あいつら」
青野も声を落とした。
その時、水面がぱしゃりと跳ねた。金魚だった。誰かが放したのか、緋鯉みたいな赤が薄暗い水の中で揺れる。
「綺麗」
「でも長く生きられないかもな」
「どうしてそんなこと言うの」
「川だから」
花は黙った。青野は時々、世界の終わりを先に見つけてしまう人だった。
少し歩くと、古い茶屋があった。軒先に「新茶あります」と手書きの札が下がっている。
「入ろう」
青野が言った。
店の中は薄暗く、木の匂いがした。扇風機がゆっくり回っている。窓際の席に座ると、女主人が冷たい新茶と柏餅を持ってきた。
「うまそう」
青野がすぐに柏餅へ手を伸ばす。
「いただきますくらい言って」
「言った」
「聞こえなかった」
「心で言った」
「ずるい」
新茶は少し苦くて、喉の奥に青い香りが残った。花は湯呑みを両手で包む。窓の外では葉桜が風に揺れている。祭囃子が遠くなったり近づいたりする。
「なあ」
青野が急に言った。
「ん?」
「おまえ、最近ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ」
「嘘」
「なんでわかるの」
「目の下」
花は目を逸らした。
夜になると、時々、言葉が全部わからなくなる。看板も、本も、テレビの字幕も、意味を持たない線になる。息だけが浅くなる。そういうことを、青野にはうまく言えなかった。
「別に平気」
「平気な顔じゃない」
青野は柏餅の葉を指先で折りながら、少し考えていた。
「俺さ、おまえが黙って消えそうで怖い時ある」
花は驚いて顔を上げた。
「消えないよ」
「ほんとか」
「うん」
「約束できる?」
「……できる」
青野はようやく笑った。
「じゃあいい」
その笑い方を見て、花は急に泣きそうになった。
外へ出ると、空はもう群青色だった。農鳥の話を誰かがしている声が聞こえる。山に残る雪形のことだと、青野が前に教えてくれた。
「百足虫!」
突然、花が叫んだ。
道路脇を大きな百足虫が這っていた。黒く濡れた身体が街灯に光る。
「うわ、でか」
青野が後ずさる。
「そっち行った!」
「言うな!」
二人で騒ぎながら逃げる。通りすがりの高校生が笑っていた。
走って、息が切れて、橋の真ん中で立ち止まる。
「最悪……」
「青野、虫苦手だったんだ」
「当たり前だろ」
「意外」
「おまえは平気なのかよ」
「ちょっと好き」
「変人」
風が吹いた。川の匂い。遠くの屋台から漂うソースの香り。誰かの笑い声。
花は橋の欄干に頬杖をつきながら、ふと思った。
こういう夜が、ずっと続けばいいのに。
けれど、続かないことを知っているから、人はこんなにも眩しく感じるのかもしれなかった。
青野が隣で煙草に火をつける。赤い火が一瞬だけ灯り、すぐ夜に溶けた。
「帰るか」
「うん」
二人はまた歩き出す。
葉桜が揺れる音が、暗い道の上に静かに降っていた。
5月27日
葉 桜
青 野
ぼうたん
卯の花
新 茶
五 月
桐の花
五 月
祭
玉 葱
滝
金 魚
農 鳥
青 鷺
百足虫
鯖
緋 鯉
靑 鷺
花




