夜半の便
夜半の便が初めて走る晩、オクターヴ様と私は、始発から終点まで乗ることにした。
最終便で東の市場まで行き、車庫の脇の事務所で、時刻を待った。事務所の窓から、新しく雇われた若い御者と車掌が、緑の灯りを点けて、馬に毛布を掛けているのが見えた。車掌の腰には、灰色の鷺の焼き印を押した木札が下がっていた。施療院の夜の門を開けさせるための札だ。
「始発ー、夜半の緑、出ますよー」
若い車掌さんの声が、雪の止んだ車庫の前に響いた。ジョスさんに習ったという呼び方だった。
乗ったのは、私たちと、マルトと、入口の脇のバルナベさんだけだった。
「最初の晩は、こんなものだ」
オクターヴ様が、一番奥の席でそう言った。
「乗合を始めた最初の朝も、空っぽで走った」
◇
けれど、川沿いの停留所で、もう人が待っていた。
外套に赤ん坊のおくるみを抱えた、若い母親と、その母親らしい人だった。赤ん坊が夕方から熱を出したので、施療院へ行きたいのだという。昼のうちに、緑の夜半の便が今夜から走ると、川沿いの井戸端で聞いたのだそうだ。
「噂って、早いのね」
私が言うと、若い母親は、泣きそうな顔で笑った。
「乗合の噂は、乗合より速いって、パン屋のおかみさんが」
ドニーズさんの言いそうなことだった。
楡通りの角で、若い車掌さんは鈴を鳴らさずに、ささやいた。
「……楡通りー」
ささやきすぎて、誰にも聞こえなかった。停留所には、誰も待っていなかった。オクターヴ様が、一番奥で額に手を当てた。
楡通りを出るとき、オクターヴ様は段の上の若い車掌さんに声をかけた。
「明日、ジョスに声の出し方を、もう一度習ってくれ。ささやくのと、静かに呼ぶのとは違う」
「へ、へい」
噴水広場の、施療院の裏の停留所で、母子は降りた。若い車掌さんが木札を持って裏の門を叩き、のぞき窓の門番が札を見て、閂を外した。赤ん坊を抱いた母親と、その母親が、門の中へ駆けこんでいった。
◇
緑は、王宮前まで行って、折り返した。
王宮前からは、厩番や夜番の人たちが、何人も乗ってきた。夜半を過ぎても帰れなかった人たちだ。みんな、座るなり眠ってしまった。
車内の灯りが、揺れに合わせて小さく揺れた。
オクターヴ様が、私の膝の上で畳んだ外套の裾が、ずれて床に垂れているのに気づいた。黙ってそれを拾い上げて、もう一度、膝の上に畳み直してくれた。
「ありがとうございます」
「乗り方を教えたのは、君だ」
誰もいない公爵邸前の停留所で、若い車掌さんが鈴を鳴らした。今夜は、ここでは降りない。終点まで乗って、車庫に待たせてある公爵家の馬車で帰ることにしていた。夜の通りに、鈴の音が細く伸びていった。
オクターヴ様は、窓の外の暗い街並みを見ていた。
「昔、一度だけ」
窓に映った自分の顔に話しかけるように、オクターヴ様が言った。
「馬車が来なかった夜がある。子どもの頃だ」
私は、黙って続きを待った。
けれど、オクターヴ様はそこで口を閉じた。しばらくして、こちらを向いた。
「その話は、婚礼の後にする」
「どうして、婚礼の後なのですか」
「婚礼の前に話すと、君は、その夜の分まで私に席を作ろうとするだろう」
私は、言い返せなかった。たぶん、そのとおりだったから。
噴水広場の施療院の裏で、夜勤を交代した看護婦さんたちが乗ってきた。これから家へ帰る人たちだ。その中に、年かさの看護婦さんがいた。
「お嬢さん。公爵様も」
年かさの看護婦さんは、私の向かいに腰を下ろして、外套の前を合わせた。
「ジョルジェットさんのお母さん、今日の昼の緑で、家に帰ったわよ。娘さんが迎えに来て。緑のお嬢さんに、よろしくって」
帰りの楡通りの角には、屋敷の晩餐の手伝いを終えた厨房の女の人が二人、寒そうに足踏みをして待っていた。今夜は、楡通りのどこかの屋敷で晩餐があったのだという。願いの書面に名を書いた屋敷の一つだった。川沿いの家へ帰るところだった。
二人は入口の脇に並んで座ると、凍えた指をこすり合わせながら、遠慮のない声で話しはじめた。
「うちの奥様ったら、停留所をなくせって名前を書いておいて、晩餐の片づけは夜半過ぎまでやらせるんだもの」
「この便がなかったら、今夜は厨房の床で寝るとこだったわよ。辻馬車なんて、あたしたちの給金で呼べるもんですか」
「評議で、どこかの洗濯女が言ってやったんですってね。奥様の朝のお湯は、楡通りで降りる者が沸かしてますって」
「あれ、胸がすっとしたわ」
一番奥で、オクターヴ様が窓の外を向いて、口元を手で覆っていた。
◇
車庫から公爵家の馬車で屋敷へ戻ると、玄関に、まだ灯りが点いていた。
夜半を過ぎているのに、先代公爵夫人が、玄関の広間の椅子に座って、私たちを待っていた。膝の上に、厚い帳面を広げていた。
「お帰りなさい。夜半の便は、どうだったの」
「走りました。席も、埋まりました」
「それはよかったわ」
先代公爵夫人は、帳面を閉じて、私を見上げた。
「では、そろそろ、花嫁の支度の話をしましょう。春は、すぐに来ますからね」




