鈴の鳴らない楡通り【ドニーズ視点】
籠の重さで、その日の王宮の機嫌が分かる。
門番小屋の連中は、機嫌がいいと丸パンを余計に頼む。冬至の前の評議が済んだ次の朝、あたしの籠は、いつもより三つ分重かった。
門番小屋では、評議の話でもちきりだった。洗濯女とパン屋と看護婦と石屋が、公爵様の付き添いの席に座ったこと。楡通りの伯爵様が立って、毎日緑に乗っていると言ったこと。長官様が、願いは退けると言ったこと。
そのパン屋があたしだと言ったら、門番の爺さんは丸パンを一つ落とした。
◇
評議の次の朝から、楡通りでは鈴が鳴らなくなった。
かわりに、車掌が声で呼ぶ。そうすると、おかしなことが起きた。
車掌の声は、鈴ほど遠くまで届かない。だから楡通りの角が近づくと、乗っている客のほうが、隣の客の肩を叩くようになったのだ。次、楡通りよ。あんた、楡通りで降りるんでしょう。洗濯場の娘にも、厨房の小僧にも、誰かが声をかける。
鈴が鳴っていたころは、誰も隣の客がどこで降りるかなんて気にしなかった。それが今じゃ、楡通りで降りる顔を、車内の誰もが覚えている。
評議の後から、公爵様は、朝の便にもときどき乗るようになった。
夜会のある晩の、夜の便だけじゃない。暗いうちの上りの便の一番奥に座って、楡通りの角で降りていく下働きを、窓から黙って数えている。隣には、たいていうちのお嬢さんがいる。二人して指を折っているところを、あたしは何度も見た。
「乗合を走らせてる人が、今さら数えてどうするんです」
あたしがからかうと、公爵様は真面目な顔で言った。
「四年、夜しか見ていなかった。朝の分を、取り返している」
お嬢さんは、その横で笑いをこらえていた。こらえきれずに、肩が揺れていた。公爵様が笑うときと、そっくりの揺れ方だった。
ジョルジェットは、暇を出されなかった。
モルヴァン様のお屋敷の厨房にパンを届けたとき、料理番のおかみが教えてくれた。侯爵様が、洗濯女を辞めさせたら評議の噂がもっと大きくなると言って、奥様を止めたのだそうだ。
「奥様は、あれからも乗合には乗らないとおっしゃってるけどね。朝のお湯は、ちゃんと時刻どおりに沸いてるわよ」
料理番のおかみは、そう言って、あたしの丸パンを一つ余計に取った。
◇
その晩、東の市場から乗った夕方の便に、伯爵様が乗ってきた。
評議の間で顔を見たから、今度は分かった。灰色の混じった黒髪に、口ひげ。外套の襟を立てて、帽子のつばを下げている。市場の裏通りの金貸しのところから来たのだと、なんとなく分かった。肩が、そういう落ち方をしていた。
空いていたのは、一番奥だけだった。伯爵様は、そこに座った。
あたしは、少し考えた。それから籠を抱えて立ち上がり、車内を奥へ進んだ。一番奥の隣の席の看護婦に頼んで、入口の脇と代わってもらった。
伯爵様が、隣に座ったあたしを見て、帽子のつばの下で目を見開いた。
「パン屋でございます。評議で、付き添いの席に座っておりました」
「……ああ」
あたしは、籠の布をめくって、丸パンを一つ取り出した。
「どうぞ。焼き損ねで、売り物になりませんので」
本当は、焼き損ねなんかじゃなかった。伯爵様は、それを分かっていたかどうか、しばらくパンを見ていた。それから、戸惑ったように受け取った。
あたしは、うちのお嬢さんの話をした。責めるつもりはなかった。あったことだけを話した。
三年前の秋の市の日、門の前で泣いていたこと。それから雨の晩も雪の晩も、裾を膝の上で畳んで、この緑に乗っていたこと。籠を抱えたあたしに、いつも入口の脇を空けてくれたこと。あたしの甥っ子がパン職人の試験に受かったことを、誰より先に喜んでくれたこと。
伯爵様は、パンを膝に載せたまま、黙って聞いていた。一度も口を挟まなかった。
川沿いを過ぎ、緑が楡通りへの坂にかかったころ、伯爵様が、ぽつりと聞いた。
「あの子は、どこに座っていた」
あたしは、伯爵様の座っている席を、指で示した。
「そこですよ。伯爵様が今座ってらっしゃる、一番奥」
伯爵様の手が、膝の上で止まった。
「今は、公爵様の隣ですけどね」
◇
楡通りの角が近づいた。
後ろの段で、ジョスさんが鈴に手を掛けかけて、下ろした。
「楡通りー」
評議の朝は鈴より大きかった声が、今夜は、ちょうどよかった。静かで、それでも、車内の端まで、ちゃんと届いた。ジョスさんは、評議の後も毎晩、練習していたのだ。
伯爵様は、丸パンを外套の内側にしまって、立ち上がった。段を降りるとき、ジョスさんのほうを見て、口ひげの端を少しだけ持ち上げた。
笑ったように、あたしには見えた。




