私は毎日、楡通りから緑に乗っている
評議の間は、天井の高い、細長い部屋だった。
正面の一段高いところに、長官の机がある。その右手に、願いを出した側の長い椅子が並び、モルヴァン侯爵とジスレーヌ様、楡通りの屋敷の主たちが腰を下ろした。継母は列の端のほうに座り、そのいちばん端に、父が座った。
左手が、乗合の側の席だった。公爵の椅子が一つと、付き添いの椅子が四つ。
オクターヴ様は、椅子の脇に立ったままでいようとした。私は、その袖をそっと引いた。
「オクターヴ様が座ってくださらないと、付き添いの席に誰も座れません。乗合の側の席は、オクターヴ様の席から始まるのですから」
オクターヴ様は、私を見て、それから黙って腰を下ろした。
付き添いの椅子には、ジョルジェットさん、ドニーズさん、年かさの看護婦さん、ブノワさんが座った。私とマルトは、その後ろの壁際に立った。令嬢たちも侍女たちも、ジョスさんも、ほかの看護婦さんたちも、同じ壁際に並んだ。
長官は、白い髪の、痩せた人だった。机の上の書面から目を上げて、乗合の側の付き添いの席を眺めた。洗濯女とパン屋のおかみと看護婦と石工が、そこに並んでいた。
長官の眉が、少しだけ上がった。
「アルドワン公爵。付き添いの方々は」
「乗合の客だ」
オクターヴ様は、座ったまま答えた。
「付き添いに誰を座らせるかは、決まりのどこにも書いていない。だから、家が決めた」
長官は、手元の綴りをめくって、しばらく指でたどった。
「たしかに、どこにも書いていない」
それだけ言って、長官は綴りを閉じた。向かいの長椅子のほうで、誰かが咳払いをした。
◇
最初に話したのは、モルヴァン侯爵だった。
朝の暗いうちから鳴る鈴が、通りの屋敷の眠りを妨げる。屋敷の並ぶ角に、毎朝、身分の低い者が立つ。近ごろは流行りの令嬢たちが停留所に集まり、夜ごとに騒がしい。侯爵は、願いの書面と同じことを、同じ順に言った。
「通りの品位の問題ですわ」
ジスレーヌ様が、扇の陰から言い添えた。
長官は、うなずきもせずに聞いていた。それから、乗合の側を向いた。
「付き添いの方。楡通りの停留所を、使っておられるか」
ジョルジェットさんの肩が、びくりと震えた。膝の上で両手を握りしめて、それでも、顔を上げた。
「わ、私は……モルヴァン様のお屋敷の、洗濯女でございます」
向かいの長椅子の上で、ジスレーヌ様の扇が止まった。
「川沿いから、毎朝、緑で通っております。楡通りの停留所で降りて、お屋敷の裏木戸から入ります。洗濯場の水を汲むのも、奥様の朝のお湯を沸かすのも、楡通りで降りる者でございます」
ジョルジェットさんは、そこで一度息をのんだ。
「停留所がなくなったら、私は、噴水広場から雪の坂を歩きます。そうしたら、奥様の朝のお湯は、今よりずっと遅くなります」
評議の間が、しんとした。
ジスレーヌ様は、扇を握ったまま、自分の家の洗濯女の顔を、初めて見るような目で見ていた。
次に、ドニーズさんが話した。
「あたしは東の市場のパン屋で、楡通りのお屋敷の厨房に、毎朝パンを届けております。モルヴァン様のお屋敷にも」
侯爵が、咳払いをした。
年かさの看護婦さんは、雪の夜の話をした。最終便の後、辻馬車の来ない夜半に、川沿いの洗濯女の母親が緑で運ばれてきたこと。施療院の夜の門を、公爵様が自分の名で開けさせたこと。
「あの晩、緑が走らなければ、あの人のお母さんは、朝まで持たなかったかもしれません」
ジョルジェットさんが、うつむいて目元を押さえた。
ブノワさんは、腕を組んで短く言った。
「西の丘のお屋敷の普請には、俺らは夜の緑で通います。楡通りのお屋敷の塀も、去年、俺が積み直しました」
ブノワさんは、そこで屋敷の主たちの並ぶほうをちらりと見た。
「どの塀かは、言いませんがね」
壁際の令嬢たちが、扇の陰で肩を揺らした。
◇
長官は、しばらく黙って書面を眺めていた。やがて、屋敷の主たちのほうへ顔を向けた。
「楡通りに住まわれる方で、ご自身でこの停留所を使っておられる方は」
誰も、答えなかった。
モルヴァン侯爵は前を向いたままで、ジスレーヌ様は扇を開き直した。屋敷の主たちは、互いの顔を見ないようにしていた。
そのとき、列のいちばん端で、椅子がきしんだ。
父が、ゆっくりと立ち上がっていた。
継母が、隣で夫を見上げた。その顔が、何が起きているのか分からないというふうに、ぽかんと開いていた。
「私は」
父の声は、かすれていた。それでも、評議の間の端まで届いた。
「私は毎日、楡通りから緑に乗っている」
継母の扇が、膝の上に落ちた。
父は、継母のほうを見なかった。長官のほうだけを見ていた。
「馬車は、売った。……それに、あの停留所は」
父は、そこで一度、言葉を切った。壁際の私のほうへ目が動きかけて、止まった。
「三年、娘があそこから乗っていた停留所だ」
父は、それだけ言って、座った。
長いあいだ揉めごとから逃げてきた人が、自分から立ったのを、私は初めて見た。
◇
オクターヴ様が、立ち上がった。
「乗合の側から、二つ申し出る。楡通りでは、鈴を鳴らさない。車掌が、声だけで停留所を呼ぶ。それから、冬のあいだ、最終便の後に一便、施療院を回る夜半の便を走らせる」
長官が、書面に目を落とした。
「鈴を鳴らさないという案は、公爵のお考えか」
「いや」
オクターヴ様は、壁際の私を振り返った。
「婚約者のものだ。彼女は朝の楡通りに立って、降りる者を数えた」
長官が、私のほうを見た。
「では、その方に聞こう。こちらへ」
私は壁際から一歩出て、長官の机の前に立った。席はなかった。立ったまま、話した。
「朝の楡通りの鈴は、本当に大きいのです。お屋敷の壁に当たって、跳ね返ります。ですから、楡通りでは鳴らさないことにいたします。お屋敷の方々の願いのうち、そこは、そのとおりだと思いました」
屋敷の主たちの列が、少しざわついた。
「けれど、停留所は、乗る人のものです。楡通りで毎朝降りるのは、お屋敷の灯りを点ける人たちです。どうか、残してください」
長官は、私の顔を見て、それから書面に何か書きつけた。
「楡通りの停留所は、残す。楡通りでは、鈴を鳴らさない。冬の夜半の便を、許す。願いは、退ける」
長官は、そこでオクターヴ様のほうへ目を移した。
「雪の晩の運行は、許しの外であったと聞く。持ち主の責で走らせたものとして、今日の許しの内に入れる。次からは、許しの内で走らせるように」
「承知した」
長官は、ペンを置いて、願いを出した側を見た。
「願いの書面には、嘘は書いてなかった。ただ、半分しか書いてなかった」
モルヴァン侯爵が、また咳払いをした。ジスレーヌ様は何も言わなかった。継母は、拾い上げた扇で、顔の半分を隠していた。
◇
評議の間を出た廊下で、父が私の前を通りかかった。
父は、通り過ぎかけて、足を止めた。唇が、一度だけ動いた。
けれど、何も言わずに口を閉じ、外套の襟を立てて、継母の後を追っていった。




