新しい千年の始まり
夏萌月の二十四日目、午前七時。
ヴェルデン皇宮の中庭。
結婚の儀と千年の真相の民への公開から、一週間が過ぎていた。
皇宮の中央の中庭で、稜は一人、樫の木の下のベンチに座っていた。──膝の上に、革の手帳。──手帳の最初の頁の裏に挟まれた、玄一郎先生の写真立ての隣に、新たに一枚、紙が加わっていた。──結婚の儀の刹那、神器の最終起動の場面で、稜の手帳の中に密かに加わった紙。──しかしこの一週間、稜はまだその紙の中身を確認していなかった。
過去一週間、両都市は急速に動いていた。──ヴェルデンの商人連合の二百の商家の代表たちが、エミーリオ・フォン・ヴァランディン七十三歳とリオラ二十三歳を中心とした、千年の経済の歪みの分析の研究会を自主的に立ち上げていた。──ハイデッカー家のマウリッツ五十二歳が、その研究会の最初の参加者の一人として、北街道の輸送権の段階的な見直しの提案を自ら準備し始めていた。
アウリオンでは、レオン王三十四歳が、ヴァルド宰相と共に、アウレリア王国の議会に第六段階の最終形の提案を提出していた。──そしてエリカ議員三十九歳が、ハーゲン帝国の元老院で、両国の女性議員の連帯の最初の集まりを組織していた。──マルガレーテ・フォン・トレストの二十年の記録が、エリカの組織する集まりの中で、徐々に整理されつつあった。
そして稜と神崎の二人は、過去一週間、ほぼ毎日、宰相公邸の応接間でこれからの五十年から百年の千年の歪みの書き直しの段階的な構想を議論し続けていた。
しかし今朝、稜は一人で、皇宮の中庭に座っていた。──そして革の手帳の中の、新たに加わった紙をようやく確認する朝。
─── ─── ───
稜は、革の手帳をゆっくりと開いた。
最初の頁の裏。──玄一郎先生の写真立て。──カスパル宰相の白い紙。──そして新たに加わった、白い紙。
しかしこの新しい紙は、カスパル宰相の白い紙とは違って、文字が既に浮かび上がっていた。──結婚の儀の刹那、神器の最終起動の場面で、千年前のアンナの最後の力で、稜の手帳の中に直接書き込まれた文字。
稜は、紙を樫の木の下の朝の光に近づけた。
紙の上に、繊細な文字が並んでいた。
「──二人の異邦人よ。──本日のあなた方の感謝の言葉を私は深く受け取りました」
「──そして本日のあなた方二人の参謀の関係の最終形を私は新しい千年の予言の中に、密かに織り込みます」
「──新しい千年の予言の本質は、二人の異邦人の関係の意味を千年単位で繰り返し再生することです。──新しい千年の中で新しい二人の異邦人が、また新しい形で出会います」
「──ただし、千年前のアドレアン王の計画とは違って新しい千年は、千年単位の歪みではなく、千年単位の友情の連鎖の形を取ります」
稜の目が、文字を長く見つめた。
そして紙の続きには、こう書かれていた。
「──二人の異邦人よ。──あなた方の役目は、本日の結婚の儀の刹那の成就で、最大の山場を迎えました。──しかしあなた方の人生の中で新しい千年の予言の最初の継承者としてこれから五十年から百年、徐々にその予言を支えていく役目が、続きます」
「──稜殿の革の手帳。──そしていつかあなた方の後の世代の若い人物に、その手帳を引き継ぐ瞬間が来ます。──その瞬間新しい千年の予言の最初の継承の形が、初めて確定します」
稜は深く息を吐いた。
──新しい千年の予言の最初の継承者。──そして革の手帳の引き継ぎの瞬間。──ここが、稜と神崎の二人の参謀のこれからの五十年から百年の人生の軸になる。
─── ─── ───
稜は、革の手帳をゆっくりと閉じた。
皇宮の中庭の樫の木の上で、夏萌月の温かい朝の風が、若葉を撫でていた。──そして遠くで、ヴェルデンの中央広場の七時の鐘が、街全体に響いていた。
しばらく、稜は中庭で、静かに座っていた。
「稜」
背後から、神崎の声が届いた。
稜は振り返った。──神崎が、中庭の入口に立っていた。──そして稜の方に、ゆっくりと近づいてきた。
「玲」
稜はわずかに微笑んだ。
「──朝の散歩か」
神崎は静かに頷いた。──そして稜の隣のベンチに、座った。
「稜。──手帳の中の新しい紙をようやく確認したのか」
稜は同意の表情を浮かべた。
「玲。──千年前のアンナ様からの新しい予言の最初の文字。──俺たち二人は新しい千年の予言の最初の継承者の役目をこれからの五十年から百年、担う」
神崎は長く稜を見つめた。
「稜。──そして革の手帳をいつか俺たちの後の世代の若い人物に、引き継ぐ瞬間が来る」
稜はわずかに頷いた。
「玲。──しかしまだその若い人物が、誰になるか、俺は分からない」
神崎はわずかに微笑んだ。
「稜。──現時点ではまだ誰も、その若い人物の予感を持っていない。──しかしこれからの五十年の中で、その人物が、徐々に現れる」
稜は静かに頷いた。
そして、稜と神崎は、しばらく無言で、樫の木の上の若葉を見上げていた。──夏萌月の温かい朝の風が、若葉を撫でていた。──そして遠くで、ヴェルデンの中央広場の人々の新しい時代の最初の朝の生活の音が、徐々に始まっていた。
─── ─── ───
昼、十二時。──稜と神崎は、月の庭の中央の噴水の前のベンチに、再び座っていた。
夏萌月二十四日目の昼の光。──月の庭の白い忘れな草が、満開を過ぎていた。──しかし忘れな草の花の数は、結婚の儀の朝より、わずかに増えていた。──過去一週間で新しい花が、徐々に咲き続けていた。
「玲」
稜は静かに切り出した。
「──過去一週間、両都市の動きをお前と二人で議論してきた」
神崎はゆっくりと頷いた。
「稜。──そして両都市の動きは、想像していたよりも、急速に進んでいる」
稜は無言で頷いた。
「玲。──ヴェルデンの商人連合のエミーリオ様とリオラ殿の研究会。──ハイデッカー家のマウリッツ殿の自発的な提案。──そしてアウリオンのレオン陛下とヴァルド宰相の議会の動き。──エリカ議員の女性議員の連帯」
神崎は静かに頷いた。
「稜。──過去一週間で、千年の歪みの書き直しの初期の枠組みが、急速に立ち上がりつつある」
稜は深く頷いた。──しかし稜の目には、別の重みも宿っていた。
「玲。──過去一週間の急速な動きを俺は深く評価する。──しかし同時に別の懸念も持ち始めている」
神崎の目が、稜を見た。
「──懸念」
稜は静かに頷いた。
「玲。──過去一週間の動きの急速さは、二百年の常識の揺らぎの、最初の反応に過ぎない。──次の段階で、必ず逆風が来る。──二百年の常識を保ちたい人々の、本格的な抵抗」
神崎は黙って頷いた。
「稜。──ご懸念、深く共有する。──そして俺たちは、その逆風に対して、どう構えるか」
稜は革の手帳を軽く撫でた。──手帳の中の、千年前のアンナの新しい予言の最初の文字。──「これからの五十年から百年、徐々にその予言を支えていく役目」。
「玲。──逆風への対応は、急がない。──俺たちはゆっくりと千年単位の時間の中で、逆風を受け止める。──そして逆風の中でも、千年前のアンナ様の予言の最初の継承者として、毎日の小さな選択を続ける」
神崎は一度頷いた。
「稜。──千年単位の時間の中での、毎日の小さな選択。──四十一年のカスパル殿の生き方の延長」
稜はわずかに微笑んだ。──しかしその微笑みの奥に深い感慨が宿っていた。
「玲。──カスパル殿の四十一年の中継ぎの生き方を俺たち二人でこれから五十年から百年新しい形で引き継ぐ」
─── ─── ───
夕方、五時。──稜と神崎は、月の庭を辞した。──そして皇宮の正面玄関の方向に、ゆっくりと歩いた。
皇宮の正面玄関の広場では、過去一週間で大きな変化があった。──結婚の儀の壇は、既に取り壊されていた。──しかし広場の中央の白い大理石の床に新しい銀の銘板が、嵌め込まれていた。──夏萌月十七日目の結婚の儀の刹那の成就を千年単位で記憶するための銘板。
銘板の上の文字を稜は静かに読んだ。
「──夏萌月十七日目。──ヴィスカルト皇帝陛下とセレネ女王陛下のご結婚の儀。──そして千年前のアンナの予言の、最初の段階の成就」
「──二百年の両国の歴史と、千年の大陸の歴史の新しい段階の最初の朝」
稜は何度か頷いた。
そして稜の隣で、神崎も同じ銘板を見つめていた。
「玲」
稜は静かに告げた。
「──結婚の儀の刹那の場面を銘板の形で千年単位で記憶する。──二百年の両国の歴史で、初めての形」
神崎は深く頷いた。
「稜。──そして銘板の文字は新しい千年の予言の最初の物理的な記録でもある」
稜はわずかに微笑んだ。
「玲。──新しい千年の予言は、神器の中だけでなく、皇宮の正面玄関の広場の中央の銘板の中にも、形を持って残った」
神崎は深く頷いた。──そして二人は、銘板の前で、しばらく静かに立っていた。
夕陽が、皇宮の正面玄関の広場の銘板を橙色に染めていた。──そして銘板の銀の表面が、夕陽の光を千年単位で反射していた。
─── ─── ───
夜、八時。──稜は自分の客室に戻った。──机の前で、革の手帳を再び開いた。
最初の頁の裏。──玄一郎先生の写真立て、カスパル宰相の白い紙、そして新たに加わった、千年前のアンナの新しい予言の最初の文字の紙。
しかし今夜、稜は手帳の最後の頁をゆっくりと開いた。
最後の頁。──二年半の間に書き続けてきた、稜の革の手帳の最終地点。──しかし最後の頁はまだ白いままだった。──稜は、最後の頁に今夜、初めて文字を書こうとしていた。
インクを取り、ゆっくりと書き始めた。
「──夏萌月の二十四日目。──結婚の儀から一週間。──千年前のアンナ様の新しい予言の最初の継承者の役目を玲と二人で引き受けた」
「──これからの五十年から百年。──千年単位の時間の中での、毎日の小さな選択。──そしていつか若い人物への革の手帳の引き継ぎ」
稜はインクを乾かした。
そして手帳をゆっくりと閉じた。
しかし手帳を閉じる前に、稜は最初の頁の裏の、玄一郎先生の写真立てをもう一度静かに見つめた。──写真の中の二人の若い男──玄一郎と晋三郎──の姿が、八十年前の友情の温かさを今でも保っていた。
(──玄一郎先生、晋三郎先生。──貴方たちの若き日の友情の意味を私たち孫の代で完成させ、千年前のアンナ様の予言の中に、永遠の形で織り込みました)
稜は静かに頷いた。
そして革の手帳を机の上にゆっくりと閉じた。──書斎の蝋燭の炎が、机の上の手帳の表面を静かに照らしていた。──夏萌月の二十四日目の夜が、徐々に深まりつつあった。──そして新しい千年の最初の一週間が、ようやく終わりを迎えていた。
しかし、二年半の長い旅路の終わりはまだ来ていなかった。
稜は、机の前で、しばらく長く革の手帳を見つめていた。
(──玲。──最後の対話を月の庭でもう一度。──二年半前の契約更新日の夜の場所で)
稜は、革の手帳を机の上にゆっくりと閉じた。──玄一郎先生の写真立てが、夜の蝋燭の光の中で、静かに輝いていた。──明日の月の庭での対話。──二年半の旅路の最後の場面が、ここから始まる。
新しい千年の始まりの、一週間の余韻回。
千年前のアンナの新しい予言の最初の文字。
「あなた方は新しい千年の予言の最初の継承者として、これから五十年から百年、徐々に支えていく役目」
物語の終わりが、もうすぐ来ます。




