月の庭、新しい始まり
夏萌月の二十六日目、夜十時。
アウリオン王宮、月の庭。
稜と神崎は、月の庭の中央の小さな石のベンチに、並んで座っていた。
二年半前、契約更新日の夜。──稜と神崎が二年半ぶりに再会した、まさに同じベンチ。──そして二人の参謀の関係の新しい段階が、最初に始まった場所。
月の庭の白い忘れな草が、夏萌月の終わりの夜の風の中で、静かに咲いていた。──二年半前の春芽月の終わりの忘れな草と、ほぼ同じ姿。──しかし二年半の時が、二人と忘れな草の間に、深く流れていた。
「玲」
稜は静かに切り出した。
「──二年半前、ここで再会した夜の続きを今夜ようやく完成させる」
神崎はわずかに頷いた。──そして長く月の庭の中央の白い忘れな草を見つめていた。
夜空には、夏萌月二十六日目の月が、満月に近い銀色の光を月の庭全体に降らせていた。──遠くで、アウリオンの中央広場の十時の鐘が、街全体に響いていた。
「稜」
神崎の声は、深かった。
「──二年半前、契約更新日の夜のここで俺はお前の前で、二十年の沈黙を初めて開いた。──そして二年半、俺たちは長い旅路を共にしてきた」
稜は静かに頷いた。
「玲。──そして本日、夏萌月二十六日目の夜のここで俺たちの二年半の旅路の最後の節目を迎える」
─── ─── ───
稜は、革の手帳を膝の上に置いた。
過去二年半、稜の右手に、ほぼ常に握られていた手帳。──最初の頁から最後の頁まで、二年半の重みの全てが、刻まれていた。──玄一郎先生の写真立て。──カスパル宰相の白い紙。──千年前のアンナの新しい予言の最初の文字。──そして、九人の同志のそれぞれの覚悟の紙。
そして、最後の頁。──二日前の夜、稜が初めて文字を書いた最後の頁。──しかし最後の頁にはまだ余白があった。
稜は、革の手帳をゆっくりと開いた。──最後の頁を月の庭の月光の下に、広げた。
「玲」
稜は静かに告げた。
「──最後の頁の最後の文字を今夜お前と二人で書きたい」
神崎の目が、稜を見た。
「稜。──最後の文字、と」
稜はわずかに微笑んだ。
「玲。──二年半の旅路の、最後の言葉。──そして新しい千年の最初の言葉」
神崎は黙って頷いた。──そして稜の隣で、革の手帳を長く見つめた。
月光の下で、二人の参謀は、しばらく無言で、手帳の最後の頁を見つめていた。
─── ─── ───
稜は、インクと羽ペンを手帳の隣に置いた。
「玲」
稜は、神崎にペンを差し出した。
「──最初に、お前が書いてくれ」
神崎の目が、わずかに動いた。
「稜。──俺が、最初に」
稜は静かに頷いた。
「玲。──二年前、お前は前世の最後の夜、俺を嵌めた。──しかし二年半前、お前は月の庭で、俺の前で二十年の沈黙を開いた。──そして二年半、お前は俺の隣で、参謀として歩んできた」
稜は静かに頷いた。
「玲。──最後の頁の最初の文字をお前が書いてくれ。──二年半の旅路のお前自身の最後の言葉」
神崎は、しばらく稜を見つめた。──そしてゆっくりと羽ペンを受け取った。
神崎の右手が、月光の下で、手帳の最後の頁の上で、わずかに止まった。──そして、ゆっくりと書き始めた。
──「稜。──二年前の罪をお前は許した。──そして俺は、お前の隣でもう一度参謀として生きる道を得た」
──「二年半。──そして千年。──二つの時間が、お前と俺の間で新しい形に到達した」
──「結城晋三郎・神崎玲」
神崎はインクを乾かした。──そしてペンを稜に渡した。
稜は、ペンを受け取った。──そしてゆっくりと神崎の言葉の隣に、自分の言葉を書き始めた。
──「玲。──二年前のお前の罪を俺は許す。──そして二年半前のお前の沈黙の解放を俺は深く受け止めた」
──「これからの五十年から百年。──新しい千年の予言の最初の継承者として、お前と二人で、毎日の小さな選択を続ける」
──「村瀬玄一郎・高木稜」
稜はインクを乾かした。──そして手帳をゆっくりと閉じた。
最後の頁の、最後の文字が、二年半の旅路の終わりの形をようやく完成させた。
─── ─── ───
しばらく、二人は無言で、月の庭の白い忘れな草を見つめていた。
夏萌月の終わりの夜の風が、忘れな草の上を静かに撫でていた。──そして月の庭の中央の小さな噴水の音が、二人の沈黙の中で、長く響いていた。
「玲」
稜は静かに切り出した。
「──二年前のあの夜の月影亭」
神崎はわずかに頷いた。
「稜。──覚えている」
稜は深く息を吐いた。
「玲。──あの夜、お前は俺に、最後の笑みを向けた。──『稜。──また明日、続きを話そう』。──しかしその『明日』は、来なかった」
神崎の目にわずかに涙が滲んだ。
「稜。──二年前のあの夜、俺がお前に最後に告げた言葉。──二年半、俺はその言葉を深く後悔し続けた」
稜はわずかに微笑んだ。──しかしその微笑みの奥に深い感慨が宿っていた。
「玲。──しかし二年半前、俺たちは月の庭で再会した。──そして二年前のあの夜の『続き』を俺たちは別の世界で、別の形で、書き直し始めた」
稜は深く息を整えた。
「玲。──二年前の月影亭の最後の夜の続きを本日ここでようやく書き終えた」
神崎の目から、涙が一筋流れた。
「稜。──そして本日のここから新しい始まりが、徐々に動き始める」
二人は、月の庭の白い忘れな草をもう一度長く見つめた。
─── ─── ───
夜十一時。──月の庭の中央の小さな噴水の音が、徐々に深まる夜の中で、長く響き続けていた。
「稜」
神崎は静かに切り出した。
「──我らの仕事は、終わった」
稜の目が、神崎を見た。
──「我らの仕事」。──二年半前の契約更新日の夜、神崎が稜に最初に告げた言葉。──「稜。──我らの仕事をもう一度共に始めよう」。──二年半の旅路の、最初の宣言。
そして本日月の庭で、神崎は同じ言葉を別の形で告げた。
「玲」
稜は長く神崎を見つめた。
そして静かに答えた。
「──玲。──いや、終わりではない」
稜の声は深くしかし強かった。
「──新しい始まりだ」
神崎は深く頷いた。
月の庭の白い忘れな草が、夏萌月二十六日目の夜の風の中で、静かに揺れていた。──そして月光が、二人の参謀の肩を永遠に近い形で照らしていた。
「稜。──新しい始まり」
神崎の声は、震えていた。
「──そして俺たちのこれからの五十年から百年の旅路の、最初の夜」
稜は一度頷いた。
しばらく、二人は無言で、月の庭の中央の白い忘れな草を見つめていた。
──白い忘れな草。──二年半前、稜が異世界転生してから、初めてこの花の名前を知った時から、稜にとって特別な花だった。──そしてフィオナの最期の朝の棺の上に置かれた花。──セレネの母エリナが、生前に大切に育てていた花。──そして千年前のヴァランディン家の白い庭にも、同じ花が咲いていた。
(──忘れな草。──千年の時を超えて、ここで咲き続けた花)
稜の胸の中で深い感慨が、徐々に深まっていった。
─── ─── ───
夜十一時半。──稜と神崎は、月の庭の中央の小さなベンチでまだ並んで座っていた。
「玲」
稜は静かに告げた。
「──二年前の前世の最後の夜の俺は、丸の内の二十八階の役員室で、深夜一時に十五年分の経歴書と懲戒書を見つめていた」
神崎の目が、深く動いた。
「稜。──その夜の俺は、お前を嵌めた書類の最後の確認を自分の家の書斎で、していた」
稜はわずかに頷いた。
「玲。──二年前の俺たち二人は、丸の内の二十八階と神崎の家の書斎で、別々の場所で、それぞれの最も深い場所を迎えていた」
「──そして本日、夏萌月二十六日目の夜のアウリオン王宮の月の庭で、俺たちは、二年前のあの最も深い場所の続きを二人で並んで座って、迎える」
神崎は無言で頷いた。
「稜。──二年前の丸の内の二十八階と、本日の月の庭。──二つの場所が、二年半の時を超えて、ここで新しい形で重なる」
稜はわずかに微笑んだ。
「玲。──そして二年前の十数年の参謀の関係の終わりは、二年半の異世界での新しい形で、本日ようやく完成した」
神崎は深く頷いた。
「稜。──十数年の前世の参謀の関係。──二年半の異世界の参謀の関係。──そして千年前のザラフとアドレアンの友情。──三つの参謀の関係が、本日のここで一つの形に到達した」
稜は、革の手帳を軽く撫でた。──手帳の中の玄一郎先生の写真立て。──そして二年半の重みの全て。
「玲。──そして十五年と二年半と千年の三つの時間が、革の手帳の中で、永遠の形を持つ」
月の庭の中央の白い忘れな草が、夜の風の中で、静かに揺れていた。──そして二人の参謀の影が、月光の下で、ベンチの上に長くしかし軽く、伸びていた。
─── ─── ───
夜十二時。──アウリオンの中央広場の零時の鐘が、街全体に響いた。
夏萌月二十六日目の最後の鐘。──そして夏萌月二十七日目の、最初の鐘。──新しい一日の始まり。
「稜」
神崎の声は、静かだった。
「──そろそろ、戻ろうか」
稜は深く頷いた。
「玲。──そして明日、俺たちは別の旅路を始める」
二人は、月の庭の中央のベンチから、ゆっくりと立ち上がった。──そして月の庭の入口の方向に、静かに歩き始めた。
しかし入口の前で、稜は一度立ち止まった。──そして月の庭の中央の白い忘れな草をもう一度長く振り返った。
夏萌月二十六日目の夜の月光が、忘れな草の上で、静かに輝いていた。──二年半の旅路の終わりの場所。──しかし同時に新しい千年の最初の朝の場所。
(──忘れな草。──いつか若い人物が、この場所で、お前と再会する日が来る)
稜の胸の中で、千年前のアンナの予言の続きが、静かに動いていた。──新しい千年の予言の最初の継承者の役目。──そしていつか革の手帳の引き継ぎの瞬間。
稜は、月の庭の中央の白い忘れな草に、わずかに頭を下げた。
そして神崎の隣で、月の庭の入口を静かに通り抜けた。
月の庭の中央の白い忘れな草が、夜の風の中で、静かに咲き続けていた。──二人の参謀が去った後も、月光の下で、白い花は、永遠に近い形で、咲き続けていた。
─── ─── ───
王宮の中央の廊下。──夏萌月二十六日目の夜の冷たい空気。──しかし二人の歩みには新しい温かさが宿っていた。
「稜」
神崎は静かに告げた。
「──また明日。──続きを話そう」
稜は長く神崎を見つめた。
──二年前の月影亭の最後の夜、神崎が稜に最後に告げた言葉。──「稜。──また明日、続きを話そう」。──しかしその「明日」は、来なかった。
そして本日月の庭で、神崎は同じ言葉を別の形で告げた。
稜は小さく頷いた。
「玲。──また明日。──続きを話そう」
神崎の目にわずかに涙が滲んでいた。──しかし顔の表情には深い安らぎが宿っていた。
二年前のあの夜の「明日」が、二年半の時を超えて、本日ようやく形を持って到達した。──そして本日のこの夜の「明日」は、必ず来る。──二人の参謀はこれから五十年から百年、毎日の「明日」を共に迎え続ける。
王宮の中央の廊下の蝋燭の光が、二人の影を廊下の石の床に並んで落としていた。──二人の影が、徐々に廊下の奥の方向に進み、徐々に小さくなっていった。──しかし完全に消えることは、なかった。──月の庭の白い忘れな草の月光と、廊下の蝋燭の光が、二人の影を静かに永遠に近い形で、保ち続けていた。
稜は廊下を歩きながら、二年半前の朝の場面を、最後にもう一度心の中で呼び戻した。──異世界に転生した最初の朝、王都の市場で銀貨五枚を見つけた瞬間。──「銀貨五枚で、王国を買う」と若い意志で呟いた、二年半前の春芽月の朝。
──銀貨五枚は、千年の歪みの書き直しに、なった。──小さな銀貨が、千年単位の意志に、姿を変えた。──そして本日その銀貨五枚の証は、新しい千年の最初の夜の月光の中で、ようやく完全な形で、永遠の中に置かれた。
夏萌月二十六日目の夜が、徐々に二十七日目の朝に変わりつつあった。──そして新しい千年の、最初の数時間が、ようやく深まりつつあった。
ついに、最終話です。
二年半前の契約更新日の夜の月の庭の、同じベンチ。
革の手帳の最後の頁に、二人で署名する。
神崎が「結城晋三郎・神崎玲」、稜が「村瀬玄一郎・高木稜」。
130話、長い旅路でした。
ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございました。
新しい千年の最初の継承者の役目を、これからも稜と神崎は静かに続けていきます。
彼らの物語の続きは、ここから先、皆様の想像の中にあります。
ありがとうございました。




