結婚の儀の前夜、二人の参謀
夏萌月の十六日目、夜十時。
ヴェルデン皇宮、月の庭。
ヴェルデン皇宮の中央の中庭の最も奥に、月の庭と呼ばれる小さな庭があった。──二百年前、ハーゲン帝国の建国の頃、初代皇帝が設計した庭。──白い石畳の小道。──中央に小さな噴水。──そして庭の周囲に、白い忘れな草が一面に咲いていた。
稜と神崎は、月の庭の中央の噴水の前のベンチに、並んで座っていた。
夏萌月の中旬。──夜の温かい風が、庭の白い忘れな草を撫でていた。──遠くで、ヴェルデンの中央広場の十時の鐘が、街全体に響いた。
明日の朝、結婚の儀。──ヴィスカルト皇帝即位とセレネ女王即位の同時の儀式。──そして神器の最終起動。
「玲」
稜の声は、静かだった。
「──二年半前、月の庭の夜」
神崎は長く稜を見つめた。
──二年半前、契約更新日の夜。──アウリオン王宮の月の庭で、稜と神崎は二年半ぶりに再会した。──前世の最後の夜から、異世界転生を経て、二人の参謀の関係の新しい段階の最初の場所。
「稜」
神崎の声は、深かった。
「──そして二年前の月影亭の最後の夜から、二年半。──二つの月の庭が今夜ここで重なる」
稜は深く息を吐いた。
月の庭の中央の噴水の音が、二人の沈黙の中で長く響いていた。──そして二人の前のベンチに、稜の革の手帳が置かれていた。──手帳の中には、玄一郎先生の写真立てとカスパル宰相の白い紙、そして十一枚の重みが、明日の朝のために静かに眠っていた。
─── ─── ───
しばらく、二人は無言で月を見上げていた。
夏萌月十六日目の月は、満月の二日前。──しかしほぼ満月の銀色の光が、月の庭全体を照らしていた。──白い忘れな草の花が、月光の中で淡く輝いていた。
「玲」
稜は静かに切り出した。
「──過去二年半の出来事を振り返ってみる」
神崎はわずかに頷いた。
「稜。──聞かせてくれ」
稜は深く息を整えた。
「──二年前の月影亭の最後の夜。──お前は俺に、最後の笑みを向けた。──そしてその笑みの裏で、お前は俺を嵌める計画を既に動かしていた。──翌朝、俺は会社のメールボックスで不正の数字を見つけ、午後には会社を追われた」
神崎は深く目を伏せた。
「稜。──二年前のあの瞬間の、俺の罪」
稜は続けた。
「──しかし二年半前、俺たちは二人とも異世界転生した。──俺はアウリオンの王宮の参謀として。──お前はヴェルデンの宰相として。──そして契約更新日の夜、月の庭で再会した」
神崎はわずかに頷いた。
稜は、夜空を見上げた。
「玲。──過去三ヶ月の長い旅路を俺は革の手帳の中で記録し続けてきた。──カスパル殿の四十年の重みの引き継ぎ。──マテウス院長の五十年の沈黙の解放。──セレネ殿下の覚悟。──クロヴィスの祖父の手稿。──ロッテの祖母譲りの直感力。──マルセル書記官長の元老院での七年の地道な調整。──ブランの十年の傭兵時代の傷の癒し」
稜は手帳を軽く撫でた。
「──そしてフィオナ殿の最期の受容。──カイル殿の和解。──エリカ議員の二十年の戦いの最後の答え。──ヴィスカルト殿下の十九年の自責の解放。──セレネ殿下とヴィスカルト殿下のご結婚の決意。──ハインリヒ・トレスト殿の家の改革。──エヴァルト・トレスト殿の帰還」
稜は静かに頷いた。
「玲。──そして玄一郎先生の写真立て、カスパル殿の四十一年の白い紙、エミーリオ様の祖父様の八十年前の最後の一文。──過去二年半の重みの全てが、明日の朝の結婚の儀の刹那に、収束する」
─── ─── ───
神崎は長く稜を見つめた。
「稜」
神崎の声は、震えていた。
「──二年前のあの夜、俺がお前に最後の笑みを向けた瞬間。──俺は、お前を失うことを最も恐れていた」
稜の目が、神崎を見た。
「玲。──失うこと、と」
神崎は深く息を吐いた。
「稜。──二十年前、俺がお前と最初に出会った瞬間から、俺はお前をいつか失うのではないかと、恐れ続けていた。──二人の参謀の関係の深さ。──しかし俺の心の弱さの中で、俺は、自分の手でお前を失う方が、他の力でお前を失うよりもまだ耐えられる気がした」
稜の目が、深く動いた。
「──玲。──お前はお前自身の手で俺を嵌めることで、俺を失うことの恐怖をコントロールしようとしたのか」
神崎は小さく頷いた。
「稜。──愚かな選択だった。──しかし十数年の参謀の関係の中で、俺は、お前を失う恐怖と、お前と並んで立つ喜びの間で、徐々に病んでいった。──そしてその病が、二年前のあの夜の、最後の笑みになった」
神崎の目に、涙が滲んだ。
「稜。──二年半前、月の庭で再会した夜。──俺は、お前の前で初めて自分の二十年の病を認める覚悟を持てた。──そして二年半、俺はお前の隣で新しい形の参謀として、生きてきた」
稜は静かに神崎を見つめた。
「玲」
稜の声は、深かった。
「──俺もまた、お前の二年前の罪を許す瞬間が、二年半前の月の庭の夜だった。──しかし許しが本当に深く根を下ろすには、過去三ヶ月の長い旅路が必要だった」
稜は神崎の目を見た。
「玲。──そして玄一郎先生の写真立てをお前と二人で見つめた瞬間。──俺たち二人の前世の祖父の若き日の友情が、千年前のアンナの予言の中で永遠化されることを俺は理解した」
稜は、革の手帳の最初の頁の裏を軽く撫でた。
「──玲。──俺たちの参謀の関係は、二十年の前世の関係から始まったのではない。──千年前のアンナの予言の中で、千年前から始まっていた」
神崎は黙って頷いた。──そして、稜の隣で、深く目を伏せた。
「稜。──千年前から続いていた関係が、明日の結婚の儀の刹那新しい完成の形に到達する」
─── ─── ───
夜十一時。──月の庭の中央の噴水の音が、徐々に深まる夜の中で、長く響き続けていた。
しかし二人の前のベンチにもう一つの動きが、徐々に近づきつつあった。
月の庭の入口の方向から、慎重な足音が二つ、近づいてきていた。
稜は、最初に気付いた。
「玲」
稜の声は、低かった。
「──月の庭の入口」
神崎も、足音に気付いていた。──しかし神崎はわずかに微笑んだ。
「稜。──ブラン殿だ。──彼の足音」
稜の目にわずかに安堵が宿った。──そして月の庭の入口に、ブランが姿を現した。──しかし隣に、別の人物が立っていた。
ヴィスカルト皇太子。──三十五歳。──黒い夜の上着。──しかし胸に銀の翼のブローチ。──兄ヴァレンの形見。
ヴィスカルトとブランは、月の庭の中央の噴水に近づいた。
「稜殿、神崎」
ヴィスカルトの声は、静かだった。
「──夜の月の庭で、お二人だけの対話のお邪魔、申し訳ない」
稜は静かに首を横に振った。
「殿下。──ブラン殿の同行。──何かお伝えになりたいことが、お有りでしょうか」
ヴィスカルトは深く頷いた。
「稜殿。──ブラン殿が、過去三日の動きを私を通じて、お伝えに参った」
ブランは深く一礼した。
「稜殿、神崎閣下。──ハイリエンから戻ってきました。──三人のマルガレーテの手の者の中、二人を生け捕りにしました。──しかし三人目がまだ動いている」
稜の目が、ブランを見た。
「──三人目」
ブランは深く頷いた。
「稜殿。──三人目は、結婚の儀の刹那の場面で、最後の動きを準備しています。──皇宮の正面玄関の広場の周辺で、群衆に紛れて、稜殿のご位置を狙う準備」
神崎の目が、わずかに動いた。
「ブラン殿。──三人目の特定は」
ブランは無言で頷いた。
「神崎閣下。──ヴィルヘルム殿の情報で、三人目の名前と顔の特徴を把握しております。──マルク・ヴィッセル、四十二歳。──過去二週間、ヴェルデンに潜伏。──結婚の儀の朝、群衆の中で動く」
稜はゆっくりと頷いた。
「ブラン殿。──明日の朝、皇宮の正面玄関の広場の警護を貴殿の中心で組み立ててください。──しかし神器の最終起動の場面で、私と神崎は、皇宮の地下深部に降りる必要があります」
ヴィスカルトが何度か頷いた。
「稜殿。──地下深部の警護は、私の私設警備隊が担当いたします。──ブラン殿は、地上の広場の警護を担当」
ブランは深く一礼した。
「殿下、稜殿、神崎閣下。──私の最後の戦いの準備を整えます」
─── ─── ───
夜十一時半。──ヴィスカルトとブランは、月の庭を辞した。
稜と神崎は、再びベンチに座った。──しかし二人の沈黙の中身は、最初の沈黙とは違っていた。──明日の結婚の儀の刹那の場面の、複数の重みが、二人の胸の中で並行して動いていた。
「玲」
稜は静かに告げた。
「──明日、神器の最終起動の場面で、もし俺たちのうちの一人が、地下深部に到達する前に、地上で何かに巻き込まれた場合」
神崎は、稜の目を見つめた。
「──稜。──そのような事態は、起きない」
稜は一度頷いた。
「玲。──しかし、もし起きた場合。──残された一人が、千年前のアンナへの感謝を二人分唱えてくれ」
神崎は長く沈黙した。
「──稜。──分かった。──しかし俺は、お前の隣で唱える」
稜は静かに頷いた。
月の庭の中央の噴水の音が、深夜の風の中で、長く響き続けていた。──夏萌月十六日目の月の銀色の光が、白い忘れな草の上で、静かに輝いていた。──そして明日の朝、結婚の儀の刹那の場面が、徐々に近づきつつあった。
「玲」
稜は最後に告げた。
「──二年前の月影亭の最後の夜の続きを明日の朝、俺たちは完成させる」
神崎は深く頷いた。
「稜。──そして千年前のアンナの予言の最終形を俺たち二人で成就させる」
月の庭の白い忘れな草の上で、夜の風が静かに流れていた。──そして月の銀色の光が、二人の参謀の肩を永遠に近い形で照らし続けていた。
稜の胸の中で、前世の高樹師の声が静かに蘇った。──「稜。──参謀の哲学は、責任設計の一言に集約される」。──二十数年前の若い日の稜が、高樹師から最初に授けられた一行。──そして今、その一行は千年の歪みの書き直しという、遥かに深い意味を持って、二人の参謀の関係の中で生き続けていた。
──参謀の道は、決断の代わりに立つことではない。──決断が起きるべき場所に、構造を設計することだ。──二年半前の若い意志は今、千年単位の責任設計として、新しい形で結実していた。
稜は、月の庭の白い忘れな草を長く見つめた。──二年半前の契約更新日の夜のここで、神崎と再会した瞬間。──そして本日、結婚の儀の前夜のここで、二十年の罪の許しが完成した。──二人の参謀の関係の最終形が、ここから始まる。
二年半前の契約更新日の月の庭の夜の、続きの完結場面。
神崎の二十年の病——「お前を失うことを最も恐れていた」の告白。
そして稜の許しの完成。
第二部のあの夜から、ここまで来ました。
自分でもこの場面を書ききれた手応えがあります。




