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神器の起動条件、最終確認

 春芽月の二十六日目、午前十時。

 南方ロンディオ、エミーリオ・フォン・ヴァランディンの邸宅の庭。

 稜とクロヴィスは、エミーリオ八十一歳と、白い椅子の周りに座っていた。

 八ヶ月ぶりの再訪。──昨年の秋初月、エミーリオがアンナの最後の三日の口伝を稜と神崎に伝えた、あの邸宅の庭。──しかし今日は、二度目の訪問。──そして稜の隣に、十七歳のクロヴィスが座っていた。

 庭には、白い紫陽花が咲いていた。

 南方の温暖な気候。──春芽月の終わりだが、ロンディオの紫陽花は既に満開だった。──白い花の塊が、庭の各所で、初夏の光を受けて静かに咲いていた。

 「稜殿、クロヴィス殿」

 エミーリオの声は、八ヶ月前と変わらず、深かった。──しかし表情には、八ヶ月の時の流れが微かに刻まれていた。──八十一歳。──しかし目の光はまだ衰えていなかった。

 「──ようこそ、おいでくださいました」

 稜は深く一礼した。

 「エミーリオ様。──八ヶ月ぶりのご来訪、申し訳ございません。──結婚の儀まで、あと二週間。──そして神器の最終起動の手順の確認のため、参りました」

 エミーリオは静かに頷いた。

 「稜殿。──私も、貴殿のご来訪を待っておりました。──過去八ヶ月、私は私の家の千年の口伝の最も奥の層を徐々に整理してまいりました」

 エミーリオは、机の上に古い羊皮紙の束を置いた。──白い紫陽花の花びらが、机の上に一枚、風で運ばれてきた。──エミーリオは花びらを指先で軽く撫でた。

 「稜殿。──結婚の儀の刹那の神器の最終起動の手順について本日最終的なご確認をいたします」

            ─── ─── ───

 エミーリオは、羊皮紙の束を机の上に広げた。──最も古い羊皮紙には、古代アウレリア語と古代ハーゲン語の両方で、文字が並んでいた。──千年前のヴァランディン家の予言の継承者が書いた原文。──そして二百年前と五十年前に、ヴァランディン家の継承者たちが手を加えた翻訳文。

 エミーリオは、最も古い羊皮紙の中央を指先で示した。

 「稜殿。──ここに、神器の最終起動の三つの条件が記されております」

 稜は身を乗り出した。──クロヴィスも、慎重に羊皮紙を見つめた。

 「一つ目」

 エミーリオの声は、深かった。

 「──結婚の儀の刹那、新郎新婦がそれぞれの誓いを交わした瞬間。──ヴィスカルト様とセレネ様の誓いの言葉が、神器の起動の最初の鍵となります」

 稜は静かに頷いた。

 「二つ目」

 エミーリオは続けた。

 「──二人の異邦人が、その瞬間に同時に神器に触れる。──稜殿と神崎殿の二人が、結婚の儀の場の地下深部で、ヴィスカルト様とセレネ様の誓いの言葉と完全に同期して、神器の表面に手を置く」

 クロヴィスが、慎重に確認した。

 「エミーリオ様。──結婚の儀の場の地下深部、と」

 エミーリオは静かに頷いた。

 「クロヴィス殿。──ヴェルデンの皇宮の正面玄関の広場の真下に、千年前の神器の墓室が位置しております。──結婚の儀は、皇宮の正面玄関の広場で行われる予定。──つまり新郎新婦の誓いの場面の真下に、神器が眠っております」

 稜の目が、わずかに動いた。

 「エミーリオ様。──しかし、千年前のヴァランディン家の継承者たちは、結婚の儀の場の真下に神器の墓室があることを千年前から知っていたのでしょうか」

 エミーリオは深く頷いた。

 「稜殿。──千年前のアドレアン王とザラフ殿が、神器の墓室の位置を後世のために慎重に設計されました。──皇宮の正面玄関の広場は、千年前から、皇室の儀式の中心の場所として位置付けられておりました。──そして神器の墓室は、その儀式の中心の真下に、隠されていた」

 クロヴィスは黙って頷いた。──千年前の予言の継承者たちの、千年単位の地理的な設計の精度。

 「三つ目」

 エミーリオは続けた。──しかし三つ目の条件を語る前に、エミーリオは長く稜とクロヴィスを見つめた。

 「──三つ目の条件は、最も深い層の条件です」

 稜は静かにエミーリオの言葉を待った。

            ─── ─── ───

 エミーリオは深く息を整えた。

 「三つ目の条件。──二人の異邦人が、神器に触れる刹那、それぞれの胸の中で、千年前のアンナへの『感謝の言葉』を心の中で唱える」

 稜の目が、わずかに開いた。

 「──感謝の言葉、ですか」

 エミーリオは無言で頷いた。

 「稜殿。──千年前のアンナの予言は、二人の異邦人の魂の中に、半分ずつ宿っております。──しかし二人が、自らの意志でアンナへの感謝を唱える刹那、半分ずつ宿る魂が再会し、千年前のアンナの完全な姿が、二人の異邦人の中で、再び形になります」

 エミーリオは、白い紫陽花の方向を一度だけ見た。

 「──二人の異邦人がアンナへの感謝を唱えなければ、神器の起動は、不完全な形で終わります。──二人の異邦人の半分ずつの魂は、再会できず、千年前のアンナの予言は完成しない」

 稜は深く息を吸った。

 「エミーリオ様。──感謝の言葉は、特定の言葉でしょうか。──それとも、二人の異邦人がそれぞれの言葉で唱えてもよろしいのでしょうか」

 エミーリオはわずかに微笑んだ。

 「稜殿。──特定の言葉は、ありません。──二人の異邦人が、それぞれの心の中で千年前のアンナへの感謝をそれぞれの言葉で唱える。──その自由な感謝の言葉こそが、千年前のアンナの予言の本質に最も深く呼応する」

 クロヴィスが静かに口を開いた。

 「エミーリオ様。──千年前のアンナの予言は、二人の異邦人の自由な意志を最も深く尊重しているのですね」

 エミーリオは小さく頷いた。

 「クロヴィス殿。──千年前のアンナは、計画と命令ではなく、自由と感謝の力を最も深く信じておりました。──その思想こそが、ハーゲン皇室の千年の歪みの計画と最も鋭く対立した彼女の存在の本質でした」

            ─── ─── ───

 昼、十二時。──エミーリオの邸宅の食卓。

 三人は、簡素な昼食を共にしていた。──白い魚の蒸し料理。──南方の野菜のスープ。──そしてロンディオ産の白い葡萄酒。

 エミーリオが、葡萄酒のグラスを長く見つめた。

 「稜殿、クロヴィス殿。──昼食の後もう一つの伝言をお伝えいたします」

 稜は、エミーリオの目を見た。

 「──伝言、と」

 エミーリオは静かに頷いた。

 「稜殿。──私の祖父──エミーリオ二世──が、八十年前に書き残した、最後の一文があります。──祖父は、千年前のアンナの予言の最終形を孫の私の代で確認することを強く望んでおりました」

 エミーリオは深く息を整えた。

 「そして祖父は、その最後の一文を千年前のアンナの予言の継承者の家紋を伝授された二人の若き友に、送りました。──結城晋三郎と、村瀬玄一郎」

 稜の息が、止まった。

 「──エミーリオ様の祖父様は、玄一郎先生に最後の一文を」

 エミーリオは深く頷いた。

 「稜殿。──しかしその最後の一文を二人の若き友──結城晋三郎と村瀬玄一郎──は、受け取った時には、その意味を完全には理解できませんでした。──祖父は、その一文を別々の形で、二人の若き友それぞれに送りました」

 エミーリオは、机の上の古い羊皮紙の束の最も奥から、小さな一枚の紙を取り出した。

 「稜殿。──私の祖父が八十年前、結城晋三郎と村瀬玄一郎に送った、二枚の紙のうち、私の家に残された写しの一枚です」

 エミーリオは、その紙を稜とクロヴィスの前に静かに置いた。

 紙の上に、八十年前の古いインクで、薄い文字が並んでいた。

 「──二人の若き友よ。──貴殿らの孫の代で、千年前のアンナの予言が、ついに完成する日が来る。──孫が、千年前のアンナへの感謝を唱える刹那、貴殿ら二人の祖父の若き日の友情が、千年前のアンナの予言の中で、永遠の形を持つ」

 「──孫よ。──貴殿らが千年前のアンナへの感謝を唱える刹那、貴殿らの祖父──結城晋三郎、村瀬玄一郎──も、その瞬間、千年前のアンナと共に、貴殿らの胸の中で蘇る」

 「──エミーリオ二世、八十年前」

 稜の目から、涙が溢れた。

 「──エミーリオ様の祖父様は、八十年前、俺たち二人の祖父の若き日の友情の意味を知っておられた」

 エミーリオは静かに頷いた。

 「稜殿。──そして祖父の最後の一文は、千年前のアンナの予言の最終形が、孫の代で完成することを八十年前から確信しておりました」

 クロヴィスは、紙を静かに見つめた。

 「エミーリオ様。──祖父様の最後の一文は、二人の異邦人の祖父──結城晋三郎、村瀬玄一郎──の若き日の友情を千年前のアンナの予言の中で、永遠化する装置でもあった」

 エミーリオはゆっくりと頷いた。

 「クロヴィス殿。──ご慧眼。──千年前のアンナの予言は、千年の時間を超えて、二人の異邦人の祖父の若き日の友情を永遠の形にいたします。──そして二人の異邦人の現在の関係を千年前のアンナの予言の中で、最も深い層で支えます」

            ─── ─── ───

 午後三時。──稜とクロヴィスは、エミーリオの邸宅を辞した。

 ロンディオから、ヴェルデンへの北の街道。──しかし帰りの旅程は、再び十二日かかる。──結婚の儀まで、二十一日。──ぎりぎりの時間配分。

 馬車が、ロンディオの中央広場を抜けて、北の街道に出た。

 「クロヴィス」

 稜は静かに告げた。

 「──エミーリオ様の祖父様の最後の一文。──俺たちの祖父の若き日の友情の意味」

 クロヴィスは深く頷いた。

 「師匠。──結婚の儀の刹那、二人の異邦人が千年前のアンナへの感謝を唱える瞬間、お二人の祖父の若き日の友情も、永遠の形を持ちます」

 稜は革の手帳を膝の上に開いた。──最初の頁の裏の、玄一郎先生の写真立てをもう一度静かに見つめた。──写真の中の二人の若い男──玄一郎と晋三郎──の姿が、八十年前の友情の温かさを今でも保っていた。

 (──玄一郎先生、晋三郎先生。──結婚の儀の刹那、お二人の若き日の友情を私たち孫の代で、千年前のアンナの予言の中で、永遠の形にいたします)

 馬車の窓の外で、ロンディオの郊外の白い紫陽花の畑が、午後の光の中で静かに揺れていた。──南方の海風が、紫陽花の花びらをわずかに撫でていた。──そして稜とクロヴィスは、ヴェルデンへの長い旅路を再び北へと進み始めた。──結婚の儀まで、あと二十一日。──そして千年前のアンナの予言の最終形が、徐々に近づきつつあった。

 稜は、馬車の中でクロヴィスの隣に座っていた。──十七歳の若い書記官の目に、新しい層の覚悟が宿っていた。──二人の祖父の若き日の友情を、千年単位で受け継ぐ役目。──その役目の重みが、稜とクロヴィスの間で、静かに共有されていた。

神器の最終起動の三つの条件、最終確認回。

エミーリオ81歳との八ヶ月ぶりの再会、白い紫陽花の庭。

クライマックスへの最後の準備、ここで全て整います。

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