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ハイリエンへの旅、十年の戦友

 春芽月の十六日目、午前十一時。

 アウレリア王国北部、港町ハイリエン。

 ブランの馬車が、ハイリエンの中央広場に入った。

 ブラン、二十九歳。──過去六日、北街道を経由して、アウリオンからハイリエンまで急ぎ来ていた。

 馬車を降りた瞬間、ブランの肺に、北の海の冷たい潮の匂いが届いた。

 (──十年ぶりだ)

 ブランは過去十年の傭兵生活の中で、ハイリエンに二度立ち寄ったことがあった。──最初は、十二年前。──最後は、十年前。──しかし十年前の最後の訪問から、ハイリエンには来ていなかった。──十年前の戦闘の中で、最も深い傷を負った場所が、このハイリエンの近郊だった。

 ブランは中央広場の北側を見た。

 ──ハイリエンの北の海。

 十年前、ブランはこの海の、すぐ北の浜辺で、十二人の傭兵仲間のうち八人を失った。──そして十年前、ヴィルヘルム・トレストとブランの最後の戦闘も、この浜辺の砂の上で起きた。

 ブランは深く息を整えた。

 そして中央広場の市役所の方向に、足を向けた。

            ─── ─── ───

 ハイリエン市役所、午後一時。

 ブランは市役所の応接室で、ハイリエン市長と対面していた。──市長、五十八歳。──しかし表情には、過去三日の動揺がはっきりと見えた。

 「ブラン殿」

 市長の声はわずかに震えていた。

 「──稜殿と神崎閣下からの密書を昨夜受け取りました。──ヨハン議員のご逝去について、慎重なご調査をお願いいたします」

 ブランは小さく頷いた。

 「市長殿。──ヨハン議員の最後の三日間のご様子をまずお教えいただきたい」

 市長は深く息を吐いた。

 「ヨハン議員は、亡くなられた前夜、市役所の私の執務室にお越しになりました。──三日後の第六段階の会議への出席について、深く考え込んでおられました。──そして亡くなられたのは、ご自宅の書斎でした」

 「ご自宅の書斎」

 「はい。──朝ご家族が見つけた時、ヨハン議員は机に突っ伏しておられました。──医師の診断では、心臓発作。──しかし──」

 市長は深く息を吸った。

 「──しかしヨハン議員のご家族は、ご自宅の食堂で前夜の夕食の後、紅茶のカップから微かな違和感を感じていたと、私に密かに告げました」

 ブランの目が鋭くなった。

 「──紅茶」

 市長は一度頷いた。

 「ブラン殿。──ご家族は、その紅茶のカップを医師に渡したそうです。──しかし医師は、特に異常はないと結論されました。──ご家族は、納得されておりませんが、医師の結論には逆らえません」

 ブランは吐息を漏らした。

 (──マルガレーテ・トレストの手の者の手口に、酷似している)

 マルガレーテは地下牢にいるが、二十年の活動の間に育てた手の者はまだ少なくとも数名残っていた。──そして手の者が、マルガレーテ不在の中でも独自に動き続けている可能性。

 「市長殿」

 ブランの声は静かだった。

 「──ヨハン議員のご自宅の紅茶のカップを私自身が拝見できますでしょうか」

 市長は深く頷いた。

 「ブラン殿。──夕方ご家族のご了解の下、ご案内いたします」

            ─── ─── ───

 午後四時。──ブランはハイリエン市役所を出た。──夕方の調査の前に、一度自分の宿屋に戻ることにした。

 しかし中央広場を抜けて、北街道の脇の細い路地に入った瞬間。──ブランの首の後ろの傭兵としての本能が、警報を鳴らした。

 (──誰かが、後ろから付けている)

 ブランは、足の速度を変えなかった。──しかし耳を最大限に開いた。──背後の足音。──しかし足音は、慎重に距離を保っていた。──攻撃の意図ではなく、観察の意図。

 (──マルガレーテの手の者ではない)

 ブランは、路地の角で、突然立ち止まった。──そして、後ろを振り返った。

 背後に立っていたのは、一人の中年の男だった。

 四十代後半。──黒い外套。──しかし傭兵の装いではなかった。──むしろハイリエンの港町の労働者風の身なり。──顔に深い皺。──そして左の頬に長い古い傷跡。

 ブランは、その傷跡を一目で認識した。

 ──十年前、ブランの剣が刻んだ傷跡。

 「──ヴィルヘルム」

 ブランの声は、震えていた。

 男は深く息を吐いた。──そして長くブランを見つめた。

 「ブラン。──十年ぶりだ」

 ヴィルヘルム・トレスト。──四十七歳。──十年前のサンミール渓谷の戦闘の最後の日、ブランの剣を頬に受けて、生死不明とされていた男。──しかし生きていた。──そして過去十年、ハイリエンの港町で、別の生活を送っていた。

            ─── ─── ───

 夕方、五時半。──ハイリエンの北の浜辺。──十年前、ブランとヴィルヘルムが最後に戦闘した場所。

 二人は、浜辺の岩の上に、並んで腰を下ろしていた。──夕方の海風が、北の海から吹いていた。──遠くで、海鳥の声が一度だけ響いた。

 「ヴィルヘルム」

 ブランは静かに切り出した。

 「──十年。──お前は、どこで生きていた」

 ヴィルヘルムは一度息を吐いた。

 「ブラン。──十年前、お前の剣を頬に受けた瞬間、俺は意識を失った。──しかしハイリエンの漁師の老夫婦が、浜辺で俺を見つけた。──老夫婦は俺を匿い、俺の傷を治した」

 ヴィルヘルムは、左の頬の古い傷跡を指先で軽く撫でた。

 「老夫婦の家で、俺は半年養生した。──そしてお前との戦闘の後、俺は『ヴィルヘルム・トレスト』としての人生を捨てた。──ハイリエンの港町で、漁師として新しい人生を始めた」

 ブランは長く沈黙した。

 「ヴィルヘルム。──お前は、ハイリエンで漁師として、十年生きていたのか」

 ヴィルヘルムは深く頷いた。

 「ブラン。──そしてここ三年、俺は別のことも始めた。──老夫婦の養子の娘、エルザ。──二十六歳。──彼女と結婚した。──二歳の息子もいる」

 ブランは、ヴィルヘルムを長く見つめた。──十年前、傭兵としての殺し合いを続けていた男が、十年で漁師の夫として、父として新しい人生を築いていた。

 「ヴィルヘルム。──ご家族のこと、おめでとう」

 ヴィルヘルムはわずかに微笑んだ。──しかしその微笑みの奥に深い決意が宿っていた。

 「ブラン。──しかし今日お前がハイリエンに来ていることを俺は港の噂で聞いた。──そして俺は、お前を追ってここまで来た。──十年で初めて自分の漁師の生活を一日離れた」

 ブランの目が、ヴィルヘルムを見た。

 「──なぜ、お前は俺を追ったのか」

 ヴィルヘルムは溜息をついた。

 「ブラン。──ヨハン・ヴィルツ議員の死の件で、お前がハイリエンに来たのだろう。──俺は、過去三年、ヨハン議員のご活動を密かにお手伝いしていた」

            ─── ─── ───

 ブランの目が、わずかに動いた。

 「──ヴィルヘルム。──お前が、ヨハン議員の」

 ヴィルヘルムは深く頷いた。

 「ブラン。──十年前、俺がトレスト家の遠縁として、ハインリヒ・トレストの依頼で動いていた頃の記憶は、覚えているだろう。──しかし十年前の戦闘の後、俺はトレスト家との関係を完全に絶った」

 ヴィルヘルムは続けた。

 「過去三年、ハイリエンの港町で、俺は徐々にハインリヒ・トレスト殿の家の改革の動きを密かに耳にするようになった。──そしてヨハン・ヴィルツ議員が、ハイリエンで第六段階の改革派の代表として、密かに動いておられることを俺は知った」

 ヴィルヘルムは静かに息を吐いた。

 「ブラン。──過去三年、俺はヨハン議員に、トレスト家の遠縁として知っていた古い情報を密かに提供した。──マルガレーテ・トレストの手の者の名前。──手口。──そして三人の手の者が、過去三ヶ月、ハイリエンに密かに潜伏している事実」

 ブランの目が、鋭くなった。

 「──三人の手の者が、ハイリエンに」

 ヴィルヘルムは黙って頷いた。

 「ブラン。──三日前の夜、ヨハン議員が亡くなられた。──俺は、その三人の手の者の中の一人が、ヨハン議員のご自宅の使用人の仕事に、過去二ヶ月密かに潜入していたことを確認している」

 ブランはゆっくりと息を吐いた。

 (──マルガレーテは地下牢にいる。──しかし彼女の手の者は、過去半年、独自の判断で動き続けている)

 ヴィルヘルムは続けた。

 「ブラン。──三人の手の者のうち、一人がヨハン議員に毒を盛った後、過去三日でハイリエンを出ている。──しかし残りの二人はまだ街にいる。──次の標的の準備を進めている」

 ブランの目が、ヴィルヘルムを見つめた。

 「──次の標的は、誰だ」

 ヴィルヘルムは一度息を吐いた。

 「ブラン。──次の標的は、お前の主、稜殿だ」

            ─── ─── ───

 ブランの息が、止まった。

 夕方の海風が、二人の肩を強く吹き抜けた。──北の海の波の音が、二人の沈黙の中で長く響いていた。

 「ヴィルヘルム」

 ブランの声は、低かった。

 「──稜殿」

 ヴィルヘルムは無言で頷いた。

 「ブラン。──三人の手の者は、稜殿が結婚の儀のためにヴェルデンに戻る道筋を過去二ヶ月調査してきた。──春芽月の終わりから、夏萌月の中旬の結婚の儀の日までの、稜殿の北街道の旅程の各地点で、複数の襲撃の準備が進んでいる」

 ブランは深く息を吸った。

 「ヴィルヘルム。──お前の情報の出所は、確かなのか」

 ヴィルヘルムは静かに頷いた。

 「ブラン。──三人の手の者の中の一人が、過去三年俺との連絡を維持してきた。──彼は、トレスト家の改革のご決意を密かに尊重していた。──しかし他の二人の手の者から、抜けることができなかった。──彼は、自分の同僚の二人を止めるために、俺に最後の情報を伝えた」

 ブランは長く海を見つめた。

 「ヴィルヘルム。──お前が、過去三年、密かにハインリヒ殿の改革を支えていた」

 ヴィルヘルムは静かに頷いた。

 「ブラン。──十年前、俺は、トレスト家の遠縁として、千年の歪みの一部を担っていた。──しかし十年で、ハイリエンの漁師として新しい人生を築いた。──そして三年前から、自分の十年の罪を別の形で償う活動を始めた」

 ブランは、ヴィルヘルムの目を長く見つめた。

 ──十年前の傭兵時代の戦友。──しかし十年で、別々の人生を築いた。──そして十年後、別々の道で、同じ千年の歪みの書き直しの側に、立っていた。

 「ヴィルヘルム」

 ブランの声は、深かった。

 「──ありがとう。──そしてお前のご家族の生活は、千年の歪みの書き直しの後も、必ず守る」

 ヴィルヘルムはわずかに微笑んだ。

 「ブラン。──十年前のサンミール渓谷の戦闘の傷を十年後、お前と俺の二人で、別の形で癒すことになるとは、思わなかった」

            ─── ─── ───

 夕方、六時半。──ブランは、ヴィルヘルムから三人の手の者の特徴と、過去二ヶ月の動きの記録を受け取った。──そしてハイリエンの市役所に戻る馬車に乗った。

 馬車の窓越しに、ブランは北の海を最後に見た。──十年前の戦闘の記憶。──そして十年後の新しい同志との再会。──同じ浜辺の上で、二つの時代が静かに重なっていた。

 「(──稜殿。──貴殿のご無事を必ずお守りいたします)」

 ブランは、心の中でそう告げた。

 そして同時に、ブランの胸の中でもう一つの考えが動いていた。──ヴィルヘルム・トレスト、四十七歳。──十年、ハイリエンの港町で漁師として生き、ハイリエンの民の生活を最も深く知る男。──そして過去三年、ヨハン議員の活動を密かに支えてきた男。

 (──ヴィルヘルム。──お前が、ヨハン議員の後を継ぐべき人物だ)

 ブランは、稜への密書の中で、ヴィルヘルムをハイリエンの代表者として推挙する案を、明日の朝までに記すと決めた。──ハイリエンの民の生活の重みを、最も深く理解している男。──そしてトレスト家の遠縁として、千年の歪みの内部の構造も理解できる立場の男。──稜と神崎が了承すれば、ヴィルヘルムが結婚の儀の刹那、ハイリエンの広場で代表として立つ。

 馬車が、ハイリエンの中央広場に向かって、徐々に動き始めた。──夕陽が、北の海の水平線の向こうで、徐々に沈みつつあった。──そしてハイリエンの港町の灯りが、一つずつ点され始めていた。

 しかしブランの胸の中で新しい重みが動いていた。──三人の手の者。──稜殿の暗殺の準備。──そして結婚の儀までの一ヶ月の間に、北街道の各地点での襲撃。──ブランの新しい戦いが、ここから始まる。

 ブランの胸の中で、十年の戦友との再会の重みが、まだ動いていた。──ヴィルヘルム・トレスト四十七歳。──十年前の傭兵時代の最後の戦友。──そして今、ハイリエンの新しい代表として、結婚の儀の刹那、千年の歪みの書き直しの最初の駒として立つ。

ブラン29歳、十年ぶりにハイリエンに到着。

十年前のサンミール渓谷で剣を受けた戦友ヴィルヘルム・トレスト47歳が、漁師として新しい人生を生きていた。

E115のブランの章の続きが、ここで結実します。

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