玄一郎先生の写真立て、千年前の紋章
春芽月の二日目、午前七時。
アウリオン王宮、稜の書斎。
稜は机の前で、革の手帳の最初の頁をゆっくりと開いた。
最初の頁の裏。──そこにはセレネの覚悟の紙、クロヴィスの判断の写し、フィオナの最期の言葉、エリカの母の調査、ヴィスカルトの十九年の告白、神崎の妻ノエルの遺言など──十一枚の紙が、二ヶ月半の重みを抱えて挟まれていた。
しかし稜の指先が、その十一枚の紙の最も奥に、別のものを探した。
──小さな、銀の写真立て。
縦五センチ、横三センチほどの小さな銀の枠。──二年半前、稜が異世界に転生した朝、自分の枕元で見つけたもの。──前世で稜の祖父・玄一郎先生から受け継いだ品。──しかし前世から異世界へは、何も持ち越せないはずだった。──にもかかわらず、稜はこの一つだけを転生の朝に枕元で見つけた。
稜は写真立てを机の上に静かに置いた。
枠の中に古い写真。──玄一郎先生が大学院時代、二十六歳の頃の白黒の写真。──大学のキャンパスの並木道。──若い玄一郎先生がもう一人の若い男と並んで写っていた。──二人とも研究室の白衣。──そして二人の背景に、銀杏の若葉。
稜は写真を静かに見つめた。
(──玄一郎先生。──二年半前の異世界転生の朝、なぜ、貴方の写真立てだけが私の枕元にあったのですか)
稜は、写真立てを裏返した。
枠の裏の銀の表面に、小さな紋章が刻まれていた。──過去二年半、稜はこの紋章を何度も見つめてきた。──しかし意味が分からなかった。──西洋風の意匠で、星が二つと、月が一つ。──そして中央に、双子の弟と兄を象徴する二つの矢印。
しかし、約一年前。──南方ロンディオで、エミーリオ・フォン・ヴァランディン八十歳の口伝の最終層を聞いた瞬間、稜はこの紋章の正体を理解した。
──ヴァランディン家の、千年の家紋。
稜は深く息を吐いた。
─── ─── ───
午前十時。──ヴェルデンから神崎が到着した。
昨日の夜、稜が神崎に密書を送っていた。──「玲。──私の革の手帳の中の写真立てをお前に見せたい。──朝、アウリオンに来てくれないか」。──神崎は即座にヴェルデンを発って、北街道を一晩かけて来た。
稜の書斎の扉がノックされた。
「稜」
神崎の声だった。
稜は扉を開けた。──神崎が入ってきた。──四十二歳。──黒い参謀の外套。──宰相退任後、参謀としての装い。──しかし目には、二十年の宰相の重みが消えた新しい透明さが宿っていた。
神崎は机の前に座った。
稜は神崎の対面に座った。──そして机の上の小さな銀の写真立てを神崎の前にゆっくりと置いた。
「玲」
稜の声は静かだった。
「──二年半前、俺の枕元にあった写真立てだ。──玄一郎先生の、大学院時代のもの」
神崎は写真立てを長く見つめた。
そして、ゆっくりと写真の中の二人の若い男を見た。
「──稜」
神崎の声が、わずかに変わった。
「──写真の右側の若い男。──白衣の、銀縁の眼鏡」
稜は神崎の目を見た。
「玲。──俺の祖父、玄一郎先生だ」
神崎は一度息を吐いた。
「──稜。──写真の左側の若い男も、白衣の若い男も、俺は知っている」
稜の目が、わずかに動いた。
神崎は写真立てを自分の指先で、静かに撫でた。
「──結城晋三郎。──俺の祖父だ」
稜の息が、止まった。
─── ─── ───
書斎の中で長い沈黙が流れた。
春芽月二日目の午前の光が、書斎の窓から斜めに入っていた。──机の上の銀の写真立てが、その光を受けて静かに輝いていた。──二年半前、稜の枕元にあった写真立て。──そして二年前、神崎が稜を嵌めた前世の最後の夜から、この写真立ての裏の紋章が静かに眠り続けていた。
「玲」
稜の声は、深かった。
「──俺たち二人の前世の祖父が、若き日の研究会の盟友だった」
神崎はわずかに頷いた。
「稜。──結城晋三郎、俺の祖父。──俺が八歳の時に亡くなった。──しかし俺の家には、祖父の若き日の写真がいくつか残っている。──その中の一枚が、この写真と同じ場面で撮られたものだ」
稜は神崎の目を見た。
「玲。──お前は、前世で、玄一郎先生のことを知っていたのか」
神崎は深く息を吸った。
「──稜。──実は俺の祖父は、生前にこんな話を父に残していた。──『晋三郎、私の若き日の最も近しい友は、村瀬玄一郎という男だった。──彼の孫が、いつかお前の前に現れる日が来る。──その日が来たら、彼を大切にせよ』」
稜の目に深い動揺が宿った。
「──玲。──お前の祖父は、八十年前の研究会の中で、俺の祖父との関係の意味を知っていたのか」
神崎はわずかに頷いた。
「稜。──俺は、二年前に前世でお前を嵌めた夜、この祖父の言葉を深く忘れていた。──しかし二年半前、転生した瞬間、祖父の言葉が頭の中で蘇った」
神崎は深く目を伏せた。
「──稜。──俺がお前を嵌めた前世の罪は、祖父の遺言を裏切る罪でもあった。──俺は、その二重の罪を二年半前から抱え続けてきた」
─── ─── ───
稜は、写真立てを再び裏返した。
「玲。──そしてこれを見てくれ」
写真立ての裏の銀の表面に刻まれた、千年の紋章。──二週間前、エミーリオから知った、ヴァランディン家の家紋。
神崎は紋章を長く見つめた。
「──稜。──これは、ヴァランディン家の家紋」
稜は無言で頷いた。
「玲。──エミーリオ様の口伝の最終層を覚えているか。──『二人の祖父が、若き日の研究会で、ヴァランディン家の継承者から贈られた、千年の家紋』」
神崎は深く息を吐いた。
「──稜。──俺の祖父も、この同じ紋章を自分の家のどこかに残していた可能性がある」
稜は神崎の目を見た。
「玲。──お前の家に、確認できる場所はあるか」
神崎は深く頷いた。
「稜。──俺の祖父が、俺に残した古い革のノート。──若き日の研究会の記録。──そのノートの最後の頁の裏に、この紋章と同じ模様が描かれていた。──俺は、その模様の意味をずっと知らずにいた」
稜は、二人の前世の祖父の繋がりの全貌をようやく理解した。
──二人の祖父、玄一郎と晋三郎は、若き日の大学院の研究会で、ヴァランディン家の千年の継承者と出会った。──そして家紋を贈られた。──二人の祖父は、千年前のアンナの予言の続きを無意識に背負っていた。──そして孫の代──稜と神崎──の中に、その予言の最終形が宿った。
稜は、吐息を漏らした。
「玲」
稜の声は、震えていた。
「──エミーリオ様の口伝。──『二人の異邦人は、千年前のアンナの魂の二度目の生まれ変わりとして、半分ずつ宿る』」
神崎は一度頷いた。
「稜。──俺たち二人は、千年前のアンナの魂を二人で半分ずつ宿す」
稜は写真立てを静かに胸の前に置いた。
「玲。──俺たち二人の参謀の関係は、二年前の前世の罪から始まったのではない。──千年前の予言から始まっていた」
─── ─── ───
午後一時。──稜と神崎は、王宮の中庭の樫の木の下のベンチに座っていた。
春芽月二日目の昼の光が、樫の若葉を透かして、二人の肩に金色の斑点を作っていた。──遠くで、王宮の中庭の鳥が、一度だけ鳴いた。──そして二人の前のベンチに、稜の革の手帳が開かれていた。──写真立ては、再び手帳の中に静かに収まっていた。
「稜」
神崎の声は、静かだった。
「──二年前の前世の最後の夜、俺がお前を嵌めた瞬間。──俺の中で、何か別の力が動いていた気がする」
稜は神崎を見た。
「──玲。──別の力」
神崎は長く息を吐いた。
「稜。──あの夜、月影亭で、俺はお前に最後の笑みを向けた。──しかしその笑みの裏で、既に動いていた不正の指示書。──俺は、自分の意志で、それを動かしたつもりだった。──しかし今思えば、別の流れの中で、俺は動かされていたのかもしれない」
稜は小さく頷いた。
「玲。──千年前のアンナの予言の発動。──二人の異邦人の異世界転生のために、お前の手で俺を嵌める必要があった」
神崎は静かに頷いた。
「稜。──俺の前世の罪は、消えない。──しかし、その罪の中に、千年前の予言の一部が含まれていた、と理解する。──二重の意味を持つ罪」
稜は神崎の目を無言で見つめた。
「玲。──俺は、お前を許す。──二十年前の前世の最初の出会いから、二年前の最後の夜まで。──そして二年半前の異世界転生から今日のこの瞬間まで。──全てを含めて、お前を許す」
神崎の目に初めて深い光が宿った。
「──稜。──ありがとう」
二人は、しばらく無言でベンチに座っていた。
王宮の中庭の樫の若葉が、春芽月の温かい風に揺れていた。──そして二人の前世の祖父の若き日の写真が、稜の革の手帳の中で、静かに眠っていた。──しかしその写真はもはや単なる前世の遺品ではなかった。──千年前のアンナの予言の証として、二人の参謀の関係を支える新しい意味を持っていた。
─── ─── ───
夕方、五時。──稜の書斎。──稜と神崎は、机の前に並んで座っていた。
しかし机の上にはもう一つの紙が置かれていた。
──カスパル宰相が遺した、白い紙。
稜は、その紙を神崎に見せた。
「玲。──カスパル殿がご逝去の前夜、俺の手帳に密かに挟まれた紙だ。──白いままだ。──しかしカスパル殿は、こう仰せだった。『──いずれ、文字が現れる。──私の四十一年の最後の謎をお前が引き継ぐ』」
神崎は紙をじっと見つめた。
「稜。──四十一年の最後の謎。──カスパル殿が、四十一年の宰相職の中で抱えてこられた、最も深い秘密」
稜は深く頷いた。
しかしその瞬間、稜の目が、わずかに動いた。
「玲」
稜の声は、低かった。
「──紙の表面が、わずかに変わっている」
神崎の目が、紙を見つめた。
──紙の中央に、薄い、極めて薄い、しかし確かに何か文字のような形が、徐々に浮かびつつあった。
稜は、紙を窓辺の光に近づけた。
薄い文字が、徐々に見えるようになった。
──「結城晋三郎、村瀬玄一郎。──二人の祖父の名」
稜の息が、止まった。
神崎の息も、止まった。
そして紙の下の方にもう一行、薄く現れつつあった。
──「私カスパル・グラドールは、四十一年前、宰相就任の朝に、二人の祖父の名を先王ミケランジュ陛下から、ご託されていた」
稜の目が、神崎を見た。
「玲」
稜の声は、震えていた。
「──カスパル殿が、四十一年前から、俺たち二人の前世の祖父の名を知っておられた」
神崎は長く沈黙した。
そして、静かに息を吐いた。
「稜。──これは、千年前のアンナの予言の、最終層の一部だ。──カスパル殿が、四十一年抱えてこられた最後の謎。──二人の祖父の名と、二人の異邦人の到来を四十一年前から待ち続けていた」
稜の目に初めて深い涙が滲んだ。
──四十一年。──そして千年。──二つの時間の中で、稜と神崎の到来を何人もの人々が静かに待ち続けていた。──カスパル宰相、玄一郎先生、晋三郎先生、エミーリオ・フォン・ヴァランディン、千年前のアンナ。
稜の右手が、机の上の革の手帳の最初の頁の裏で、軽く震えた。
「玲」
稜の声は、深かった。
「──結婚の儀の刹那、神器の最終起動の場面で、千年前のアンナの予言が完全に成就する」
神崎は深く頷いた。
「稜。──あと一年。──千年の歪みの書き直しの最終段階が、徐々に近づきつつある」
書斎の窓の外で、春芽月二日目の夕陽が、王宮の庭を金色に染めていた。──そして机の上のカスパル宰相の白い紙の中に、徐々に文字が浮かび上がっていた。──四十一年の宰相職の最後の謎が、稜と神崎の前で、ゆっくりと姿を現しつつあった。
玄一郎先生の写真立ての裏の千年前の紋章——第二部最大の謎の正体。
写真の左側に写る若い男が、神崎の祖父・結城晋三郎であった。
二年半保管してきた小さな銀の写真立て。
ここで全てが繋がります。書ききった手応えがあります。




