一年後の世界、四十年の終わり
春芽月、初日。
アウリオン王宮、稜の書斎。
稜は、机の前で革の手帳を開いていた。──手帳は、過去一年で全ての頁が埋まっていた。──最初の頁の裏のセレネの覚悟の紙、そしてその上に重なる十数枚の紙。
しかし手帳の最後の頁の裏に、最も重い紙が一枚、最近添えられていた。
──「カスパル・グラドール宰相、八十一日前にご逝去。──春芽月の二十五日前。──七十三歳。──四十一年の宰相職の最後の朝」
稜は、その紙を長く見つめた。
過去一年の重み。──そしてカスパル宰相の最後の三ヶ月。
昨年の秋初月、稜と神崎が共にアウリオンに戻ってきた朝、カスパルは床から起き上がれない状態だった。──しかし議会への第三段階の開示はまだ完了していなかった。──そしてカスパルは、最後の力で執務室から議会の壇上まで、自分の足で歩いた。
紅葉月の二日目。──アウレリア王国の議会の大広間で、カスパル宰相が最後の演説をした。──四十一年の宰相職の集約。──「諸君。──四十一年、私は中継ぎとして立ってきた。──しかし今日、最後の中継ぎの役目をレオン陛下にお渡しする。──陛下の代から新しい千年が始まる」。
そしてレオン王──三十四歳になっていた──が、議会の壇上で千年の真相を五十名の議員の前で、自分の言葉で開示した。──即位六年の王の声。──しかし議員五十名が、深く受け止めた。
紅葉月の三日目。──カスパル宰相は執務室の楢の机の前で、静かに息を引き取った。──四十一年の宰相職の最後の朝。──七十三歳。──マテウス院長と、ヴァルド書記官長が、最期の床に立ち会った。
稜は、その日にヴェルデンから急遽戻ってきた。──しかし最期には、間に合わなかった。
革の手帳のカスパルの紙を稜は指先で軽く撫でた。
(──カスパル殿。──四十一年の最後の中継ぎ、見事でした)
しばらく、稜は無言で手帳を見つめていた。
─── ─── ───
午前十時。──稜の書斎の扉がノックされた。
「師匠」
ロッテの声だった。
稜は扉を開けた。──ロッテが入ってきた。──二十一歳。──書記官の黒い服。──しかし一年前と比べて、明確に何かが変わっていた。──ロッテは過去一年でアウレリア王国の若手書記官の中の中核に成長していた。
「師匠。──ヴァルド宰相からの密書です。──第四段階の有識者会議の最終予定が、確定いたしました」
稜は密書を受け取った。──ヴァルド・ハーラル、四十二歳。──カスパル宰相の後継として、紅葉月の半ばに新宰相に就任していた。──カスパルが四十一年抱えてきた重みを四十二歳の中継ぎが今引き受けていた。
稜は密書を開いた。
「春芽月の十五日目。──両国の有識者会議、第二回の開催。──ヴェルデン皇宮の大広間。──両国の主要な学者・歴史家・哲学者、計八十名」
稜は静かに頷いた。
「ロッテ。──予定、確認した。──そして今回の会議には、リオラ・フォン・ヴァランディン殿も発表者として参加されるか」
ロッテは深く頷いた。
「師匠。──リオラ様、二十三歳。──ヴェルデン大学経済学部の博士課程の二年目。──彼女の千年の商業の歪みの数理的分析の中間発表が、第二回会議の中核です」
稜はロッテの目を見た。
「ロッテ。──リオラ殿との連携は、お前が中心で進めてきたな」
ロッテはわずかに微笑んだ。
「師匠。──ヴェルデンの大学とアウリオンの図書館の女性研究者の連携を過去一年構築してまいりました。──リオラ様だけではなく、アウリオン王立図書館のクラーラ・ヴェルナー様、二十六歳。──ヴェルデンの哲学院のヘルガ・ホフマン様、三十一歳。──四人の女性研究者の研究会が、過去半年間で安定的に動いています」
稜は深く頷いた。──過去一年、ロッテが急速に成長した中身が今稜の前で具体的になっていた。──二十一歳の若い書記官が、両国の女性研究者の四人の研究会の中核として動いていた。
「ロッテ」
稜の声は静かだった。
「──素晴らしい仕事だ」
ロッテは深く一礼した。──しかし顔を上げた時、別の話を続けた。
「師匠。──もう一つご報告がございます」
「うん」
「セレネ殿下から、密書が届いております。──結婚の儀の準備の進捗です」
稜の目にわずかに光が宿った。
「セレネ殿下、十七歳になられた」
ロッテは無言で頷いた。
「セレネ殿下。──春芽月の二十日目に、十七歳のお誕生日。──そしてヴィスカルト殿下とのご結婚は、夏萌月の予定。──あと一年」
稜は、机の上の革の手帳に目を落とした。
──過去一年、セレネはアウリオンとヴェルデンを何度も往復してきた。──十七歳の若い王女が、数ヶ月後の女王即位と結婚の儀の準備を進めていた。──そしてヴィスカルト皇太子は、数ヶ月後の皇帝即位の準備を密かに進めていた。
(──二人の若い皇族と王女が、一年後新しい時代の中核として並んで立つ)
稜は深く頷いた。
─── ─── ───
午後二時。──稜とヴァルド宰相の打ち合わせ。
王宮の宰相執務室。──カスパルが四十一年座り続けた楢の机。──しかし今ヴァルドが四十二歳の若い宰相として、その机の前に座っていた。
稜が机の対面に座った。
「ヴァルド殿」
稜の声は静かだった。
「──四ヶ月、よくお務めです」
ヴァルドはわずかに微笑んだ。
「稜殿。──カスパル先代宰相の重みは、私の代ではまだ完全には引き継げません。──しかし徐々に自分の形で動き始めております」
稜は一度頷いた。
「ヴァルド殿。──カスパル殿はご逝去の前夜、お一人だけのお話の機会を私と持たれました」
ヴァルドの目が、稜を見つめた。
「──カスパル先代から、稜殿に、何か」
稜は小さく頷いた。
「カスパル殿は、こう仰せでした。──『ヴァルドは、私の四十一年と違う形の宰相になる。──それで良い。──四十一年の中継ぎの形は、一度終わる。──次の中継ぎは、別の形で始まる』」
ヴァルドは長く沈黙した。──そしてゆっくりと頷いた。
「稜殿。──カスパル先代のお言葉、深く受け止めます。──私の代の宰相は、四十一年の中継ぎではなく新しい時代の最初の宰相として、形を作ってまいります」
稜は静かに頷いた。
──カスパルが四十一年抱えてきた重み。──そしてその重みが、四十二歳のヴァルドに新しい形で引き継がれた。──過去一年で、アウレリア王国の宰相職の中身が、明確に変わりつつあった。
─── ─── ───
夕方、五時。──稜の書斎に、ヴェルデンから密書が届いた。
神崎からの密書。──稜は封蝋を開いた。
「稜。──過去三ヶ月、神器の周囲の動きが、徐々に変化してきている。──皇宮の地下深部の青銅の扉の中央の丸い穴が、わずかに光を発するようになった」
稜の目が、わずかに開いた。
続きを読んだ。
「最初は気付かなかった。──しかし二週間前、ブラン殿が地下深部の警備の最中に確認した。──そして昨夜ヘルマン殿と私が、二人で扉の前に立った。──確かにわずかな青白い光が、丸い穴の周囲から漏れている」
「稜。──エミーリオ・フォン・ヴァランディン様の口伝の最終層を思い出してくれ。──『神器の最終起動の刹那、二人の異邦人と二人の皇族が同時に神器に触れる』。──そして起動の条件は、結婚の儀の刹那」
「結婚の儀まで、あと一年。──しかし神器の周囲の光はすでに動き始めている。──稜。──私たちは徐々に最終段階に近づきつつある」
稜は密書を机の上に置いた。
そして革の手帳の最後の頁の裏に新しい一枚を書いた。
「春芽月の初日。──神器の周囲の光、徐々に動き始めている。──結婚の儀の一年前から、最終段階の準備が始まる」
稜はインクを乾かした。
書斎の窓の外で、春芽月初日の夕方の光が、王宮の庭を金色に染めていた。──そして遠くで新しい一年の最初の鐘が、街全体に響いていた。
しかし稜の胸の中で、別の重みも動いていた。
──カスパル宰相の最期の朝。──七十三歳の四十一年の宰相が、楢の机の前で息を引き取った瞬間。──稜は、その瞬間に間に合わなかった。──しかしカスパル宰相の遺言の中に、稜への一つの伝言が残されていた。
(──稜殿。──四十一年の最後の中継ぎ、見事に終わった。──しかし最後の謎が、お前の手帳の中に隠されている。──最後の頁の裏の、白い紙)
稜は革の手帳の最後の頁の裏をもう一度確認した。──白い紙。──カスパルが亡くなる前夜、稜の手帳に密かに挟んだ紙。──しかし白いままだった。
──「いずれ、文字が現れる。──私の四十一年の最後の謎をお前が引き継ぐ」。──カスパルの最後の言葉。
稜は、その白い紙を長く見つめた。
(──カスパル殿。──貴方の最後の謎は、何を示しておられるのですか)
書斎の蝋燭の炎が、静かに揺れていた。──そして春芽月初日の夜が、徐々に深まりつつあった。──結婚の儀まで、あと一年。──そして神器の最終起動まで、あと一年。──しかしカスパル宰相が遺した最後の白い紙の謎が、稜の手帳の中で、静かに眠っていた。
稜は、革の手帳を閉じた。──そして書斎の机の前で、長く目を閉じた。──四十一年のカスパルが遺した白い紙の謎。──そして結婚の儀まで一年。──二つの時間の終わりが、稜の中で静かに動き始めていた。
カスパル宰相の最後の演説、そして楢の机の前で逝去——
七十三歳、四十一年の宰相職の終わり。
書きながら、何度も筆を置いては立ち上がりました。
そして一年後の世界。第四章の開幕です。




