エリカの最後の選択、二十年の受容
紅葉月の九日目、午前七時。
ヴェルデンの元老院議事堂、エリカの控え室。
エリカ・ライヘンバッハ、三十八歳。──白い議員の礼服。──しかし今朝は、母の銀のブローチに加えてもう一つ別の小さなものを胸に着けていた。──二十年前、母アンナが最後に着けていた小さな白い布の花。──エリカが、母の遺品の中から、二十年保管してきたもの。
エリカは控え室の壁の母の肖像画の前に立っていた。──二十年、毎朝続けてきた所作。──しかし今朝は、所作の意味が違っていた。
昨日の夜、稜から密書が届いた。──「マルガレーテ・フォン・トレストが、生け捕りにされた。彼女が、貴女との対面を希望している」。
エリカは長く母の肖像画を見つめた。
──二十年前、ライヘンバッハ家の食堂の晩餐会の夜。──四十二歳のアンナは、皇宮の晩餐会から帰ってきた直後に、心臓発作で急死した。──表面上は心臓発作。──しかし二十年、エリカは母の死の真相を追い続けた。──そして昨夜ついに犯人が、自分の口で告白する準備をしていることを知った。
マルガレーテ・フォン・トレスト。──四十八歳。──二十年前、エリカが十八歳だった頃、二十八歳の彼女が、エリカの母の食卓に密かに毒を入れた。──そして二十年彼女は同じ手口で、何人もの改革派の人物の命を奪い続けてきた。
エリカは、母の肖像画に、一礼した。
「母さん」
エリカの声は静かだった。
「──今日、私は、母さんの命を奪った人物に、初めて会います」
肖像画の母は、変わらず静かに微笑んでいた。──二十年前、エリカが十八歳の若さで母を失った時、母はこの肖像画の中で同じ微笑みをしていた。──そしてエリカが二十年戦い続けた間も、母は静かに見守り続けていた。
エリカは深く頭を下げた。
「母さん。──私は、母さんの遺志をどう継ぐか今日、決めます」
─── ─── ───
午前十時。──ヴェルデンの皇宮の地下牢。
エリカが地下牢の最も奥の部屋の前に立った。──稜が後ろに付き添っていた。──しかし対面の場には、稜は入らない予定だった。──エリカとマルガレーテの二人だけの対面。
「稜殿」
エリカは静かに告げた。
「──私は、お一人でお会いします」
稜は同意の表情を浮かべた。
「エリカ議員。──ご決意。私は扉の外でお待ちしております」
警備兵が、地下牢の扉を開けた。
エリカは中に入った。
地下牢の最も奥の部屋。──石造りの狭い空間。──小さな窓から、紅葉月の朝の光がわずかに差し込んでいた。──マルガレーテは、石の床に座っていた。──白絹のドレスは、二日の地下牢の冷たさで皺になっていた。──首の銀のネックレスはまだ着けていた。
エリカが部屋に入った瞬間、マルガレーテはゆっくりと立ち上がった。
「エリカ・ライヘンバッハ様」
マルガレーテの声は、静かだった。
「──ようこそ、おいでくださいました」
エリカは長くマルガレーテを見つめた。──四十八歳の女性。──貴族の妻。──そして二十年、何人もの命を奪い続けてきた人物。
エリカは、吐息を漏らした。
そして用意された椅子に、ゆっくりと座った。──マルガレーテも、対面の椅子に座った。
二人の間に長い沈黙が流れた。
地下牢の小さな窓から、朝の光が斜めに差し込んでいた。──そして遠くで、ヴェルデンの中央広場の十時の鐘が、地下牢の壁の隙間まで届いていた。
「マルガレーテ様」
エリカの声は、静かだった。──しかし二十年抱え続けてきた重みが、奥に宿っていた。
「──昨夜稜殿から伺いました。──貴女が、私の母の命を奪った、と」
マルガレーテは深く頷いた。
「エリカ様。──二十年前、私が、貴女のお母様の食卓に、毒を入れました」
マルガレーテの声は、震えていた。──しかし誤魔化しはなかった。──二十年抱え続けてきた最も古い罪を彼女は初めて犠牲者の娘の前で言葉にした。
エリカの目に、涙が滲んだ。──しかし顔の表情は、変わらなかった。──二十年、このひとときを待ち続けた。──そして二十年、この瞬間が来た時の自分の反応をエリカは想像し続けてきた。──しかし実際の瞬間は、想像とは違っていた。
「マルガレーテ様」
エリカの声はゆっくりと続いた。
「──貴女は、なぜ、私の母を殺したのですか」
マルガレーテは一度息を吐いた。
「エリカ様。──二十年前、私の夫ハインリヒの家のトレスト家には、千年の毒の歴史がありました。──家の三代の女性たちが、家の影の活動として、改革派の人物の命を奪い続けてきた、と聞いておりました。──私は二十八歳で、その活動を継承しました」
マルガレーテは続けた。
「──貴女のお母様、アンナ・ライヘンバッハ様。──四十二歳。──元老院議員として、ハーゲン帝国のアウレリア王国への属国条約の見直しを密かに準備されておられました。──しかしその活動は、千年の歪みを止める側の活動でした。──そして家の千年の歪みを維持する活動の中で彼女は標的の一人になりました」
エリカの目から、一筋の涙が頬を伝った。
「──母は、議員として、千年の歪みを止める側に立っていた」
マルガレーテは深く頷いた。
「エリカ様。──貴女のお母様は、二十年前の時代の、最も鋭い千年の歪みの観察者でした。──彼女が当時の活動を続けていれば、千年の歪みは二十年早く揺らぎ始めた可能性があります。──しかし私が、その可能性を二十年前に止めました」
─── ─── ───
エリカは長く沈黙した。
地下牢の中の冷たい空気が、二人の間に流れていた。──そしてエリカの胸の中で、二十年抱え続けてきた感情が、徐々に整理されつつあった。
──二十年、エリカは母の死の真相を追い続けてきた。──最初の十年は、表面的な調査しかできなかった。──次の十年は、議員として元老院の内部で密かに調査を続けた。──そしてついに、二十年目に、犯人と直接対面した。
しかし対面のひととき、エリカが感じたのは、想像していたような単純な憎しみではなかった。──むしろ深い悲しみと、複雑な理解。──マルガレーテもまた、千年の歪みの被害者であり、同時に維持者でもあった。──彼女が二十八歳だった頃、家の三代の影の活動を継承した瞬間彼女自身も千年の歪みの一部になった。
そしてその瞬間、エリカの胸の中で、フィオナの最期の言葉が蘇った。
──三ヶ月前、霧峰の古戦場で、フィオナが父マルティンの石碑の前で告げた言葉。──「父さんを殺したのは、アルデスでもヴィルフレッド王でもない。──千年の大陸の歪みだった。──私、父さんを殺した千年の歪みを怒る。許さない、けど怒らない」。
エリカは初めてフィオナのその言葉の深さを理解した。
──二十年前、エリカの母を殺したのは、マルガレーテ一人ではない。──マルガレーテもまた、千年の歪みの活動の中で動いた人物。──そして真の標的は、千年の歪みそのもの。
エリカは深く息を吐いた。
「マルガレーテ様」
エリカの声はゆっくりと続いた。
「──私は、貴女を許しません」
マルガレーテは深く頭を下げた。
「エリカ様。──私も、貴女のお許しを求めるつもりは、ございません」
エリカは続けた。
「しかし──」
マルガレーテは顔を上げた。
「──しかし私は、貴女の命を奪う処刑には、反対の嘆願書を議会に提出いたします」
マルガレーテの目が、初めて深く動いた。
「エリカ様……」
エリカはゆっくりと頷いた。
「マルガレーテ様。──貴女もまた、千年の歪みの被害者であり、同時に維持者でもありました。──貴女お一人を処刑することで、千年の歪みは消えません。──むしろ貴女の命を千年の歪みの書き直しの過程の証言者として、お残しいたします」
マルガレーテは長くエリカを見つめた。──そして両目から深い涙が流れた。
「エリカ様」
マルガレーテの声は、震えていた。
「──私は、貴女のお気持ちを深く受け止めます」
エリカは初めて深く頷いた。
「マルガレーテ様。──貴女には、二十年の記録の全てを議会に提出していただきます。──貴女が二十年で奪ったすべての命の、その背後の千年の歪みの構図を貴女の口で証言していただきます」
マルガレーテは深く頭を下げた。
「エリカ様。──ご決意。──深く受け入れます」
─── ─── ───
午前十一時半。──エリカが地下牢を出てきた。
稜は、地下牢の入口で、エリカを待っていた。──エリカの目に深い涙の跡があった。──しかし表情は、二十年抱え続けてきた重みをようやく下ろした安堵に近かった。
「稜殿」
エリカは静かに告げた。
「──私は、マルガレーテ様の命を奪う処刑には、反対の嘆願書を議会に提出いたします」
稜は一度頷いた。
「エリカ議員。──ご決意の深さ。──私は深く受け止めます」
エリカはわずかに微笑んだ。──しかし微笑みの奥に深い覚悟が宿っていた。
「稜殿。──二十年前、私の母を奪った人物に、初めて会いました。──そして三ヶ月前、フィオナ様が霧峰の古戦場で残されたお言葉を私はようやく自分の中で深く理解いたしました」
稜は黙って頷いた。
エリカは続けた。
「『──怒らない、許さない、けど怒らない』。──フィオナ様のお言葉。──私の二十年の戦いの最後の答えが、フィオナ様のお言葉の中にありました」
エリカは深く息を吐いた。
「稜殿。──私の二十年は、ようやく終わります。──そして次の二十年が、別の形で始まります」
─── ─── ───
午後二時。──ヴェルデンの皇宮の小広間。
稜と神崎、そしてセレネとヴィスカルト。──四人が机を囲んでいた。──午前のエリカの地下牢での対面の報告を稜が四人に共有していた。
「──エリカ議員のご決意。──マルガレーテ様の命を奪う処刑への反対。──そしてマルガレーテ様の二十年の記録を議会に提出する」
セレネは軽く頷いた。
「師。──エリカ様の二十年が、ようやく形を持って終わるのですね」
稜は静かに頷いた。
ヴィスカルトは静かに告げた。
「稜殿。──マルガレーテ様の生存の選択は、千年の歪みの書き直しの過程に、極めて重要です。──二十年の活動の証言者として彼女のご証言がこれからの第四段階、第五段階の進行に深い貢献をいたします」
稜は黙って頷いた。
神崎が静かに口を開いた。
「稜。──そしてもう一つ。──今夜アウリオンからもう一つの密書が届いた」
稜は神崎を見た。
「──カスパル殿のことか」
神崎は一度頷いた。
「稜。──カスパル殿のお身体が、徐々に最後の段階に近づきつつある。──マテウス院長から、お前にお伝えしたいことがあるそうだ」
稜の目に深い陰が走った。
四十年の老宰相。──二ヶ月前、稜がアウリオンに帰還した日に「最近少し悪化している」と告げられた体調が、徐々に最終段階に向かいつつあった。
「玲」
稜の声は、低かった。
「──明日アウリオンに戻る」
神崎は静かに頷いた。
「稜。──私も、共に行こう」
稜は神崎を長く見つめた。
──二ヶ月前、稜と神崎はそれぞれヴェルデンとアウリオンに分かれていた。──しかし今二人は再び共に動き始めた。──二人の参謀の関係の新しい段階が、徐々に深まりつつあった。
─── ─── ───
夕方、五時。──エリカは元老院議事堂の控え室に、再び戻ってきた。
控え室の壁の母の肖像画の前で、エリカは静かに立った。
「母さん」
エリカの声は、静かだった。──しかし朝の声とは、明確に違っていた。
「──今日、母さんの命を奪った人物に、会いました。──そして私の決意を彼女に告げました」
エリカは深く頭を下げた。
「母さん。──私は彼女を許しません。──しかし彼女の命を奪う処刑にも、反対いたします。──二十年の戦いの最後の答えが、ようやく見つかりました」
肖像画の母は、変わらず静かに微笑んでいた。──しかしエリカの目には、その微笑みが、二十年で初めてわずかに別のものに見えた。──娘の二十年の戦いを見守ってきた母がようやく娘の答えを受け入れた瞬間の微笑み。
エリカの目から深い涙が流れた。
しかしこの涙は、悲しみの涙ではなかった。──二十年抱え続けてきた重みが、ようやく形を持って下りた瞬間の、解放の涙。
エリカは深く一礼した。
「母さん。──二十年、ありがとうございました。──そして次の二十年は私自身の議員としての活動を母さんの遺志の延長として続けてまいります」
控え室の窓の外で、紅葉月九日目の夕陽が、ヴェルデンの皇宮の白い壁を金色に染めていた。──そして元老院議事堂の壁の歴代の議員たちの肖像画の中で、ただ一枚の女性議員の肖像画が、夕陽の光の中で、わずかに光っていた。
エリカ38歳とマルガレーテ48歳の、二人だけの対面。
「私は貴女を許しません。しかし貴女の罪を二十年抱えてきた重みは知っています」——
エリカの二十年の所作の最後の朝。
母アンナの遺品の白い布の花が、最後の場面で生きました。




