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『俺を嵌めた相棒が、異世界で敵国の宰相になっていた ─ 戦略コンサルタント、銀貨五枚で王国を買う』  作者: MU
【第三部】【第三章】五家・商人・若き異邦人、トレスト家の終焉
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三日月の夜の襲撃

 紅葉月の七日目、夜十時。

 ヴェルデン中央地区、稜が滞在している宿屋の二階の部屋。

 稜は、机の前に座っていた。──部屋の中央のランプの炎が、橙色の光を机の上に投げていた。──机の上に、革の手帳。──そして手帳の隣に、半分書いた密書。──カスパル宰相宛て。

 「カスパル殿。──貴殿のご回復をお祈り申し上げております。──第三段階の議会への開示は、貴殿のご回復をお待ちして進める所存です」

 稜はインクを乾かした。

 昨日アウリオンからの最新の知らせ。──カスパル宰相は意識を回復したがまだ床から起き上がれない状態。──七十二歳の老宰相の最後の段階が、徐々に近づきつつあることが、マテウス院長からの密書で確認されていた。

 稜は窓の外を見た。

 三日月。──紅葉月七日目の細い月。──冷たい光が、ヴェルデンの街並みを淡く照らしていた。

 部屋の外の廊下から、深夜の宿屋の静けさが伝わってきていた。

 しかしその時、稜の鼻が、わずかな違和感を感じた。

 (──何か、薄い匂い)

 稜は、ランプの炎を一度見た。──炎は普段通りに揺れていた。──しかし匂いは、ランプの匂いではなかった。──別の、わずかに甘い、しかし異質な匂い。

 稜は、扉の方を見た。

 扉の下の隙間から、薄い緑色の煙が、ゆっくりと部屋の中に流れ込んでいた。

            ─── ─── ───

 稜は瞬時に判断した。

 (──毒煙)

 稜は息を止めた。──そして机の上の革の手帳を左手で素早く掴んだ。──右手で、椅子の背に掛けていた外套を取った。──外套で口と鼻を覆った。

 部屋の窓は、二階。──下の路地まで、約三メートル。──稜は窓に近づいた。──窓を素早く開けた。

 冷たい秋の夜の空気が、部屋に流れ込んだ。──しかし扉の下からはまだ毒煙が流れ続けていた。

 稜は、窓辺で一度立ち止まった。──下の路地を目で確認した。

 路地の右手の影に、二つの人影。──黒い外套。──マルガレーテの私設の手の者。──稜の落下を待ち構えていた。

 (──逃げ道は、別にある)

 稜は、窓辺の右の壁の出っ張りに、左足をかけた。──そして外套を巻いた手帳を口に挟みながら、両手で壁の出っ張りを伝って、屋根の方向へ移動を始めた。

 しかしその時、屋根の方向から、別の人影が現れた。

 「稜殿!」

 ブランの声だった。

 稜は安堵を一瞬感じた。──ブランは過去三日、稜の宿屋の周辺で警護を密かに続けていた。──マルガレーテの最後の動きが近いと予感していた。

 ブランは屋根の縁から、稜に手を伸ばした。──稜の手を掴んだ。──そして稜を屋根の上に引き上げた。

 「稜殿。──こちらへ」

 ブランは、屋根伝いに走り始めた。──稜も後を追った。

 下の路地で、マルガレーテの手の者が稜の落下を待っていたが、屋根の上の二人の影には気付いていなかった。

            ─── ─── ───

 屋根の上、約二百歩。

 ブランと稜は、隣の建物の屋根を伝って、宿屋から離れていた。──三日月の冷たい光が、二人の影を石屋根に長く落としていた。

 「稜殿」

 ブランは低い声で告げた。

 「──毒煙は、扉の下から。──そして路地に二人の見張り。──三人目がいるはず」

 稜は黙って頷いた。

 「ブラン殿。──三人目は、どこに」

 ブランは右手で、屋根の向こうの影を指した。

 「──路地の更に奥。──馬車。──そこが、マルガレーテ自身の位置」

 稜の目が鋭くなった。

 「マルガレーテ自身が、来ているのか」

 ブランは無言で頷いた。

 「稜殿。──二十年彼女は手の者に毒の配布を任せてきた。──しかし今夜は、自分の手で見届けようとしている。──最後の標的だから」

 稜は屋根の縁から、路地の奥を見た。──確かに馬車が一台、隣の建物の影に静かに止まっていた。──馬車の窓のカーテンが、わずかに動いた。──中に人がいる。

 「ブラン殿」

 稜は静かに告げた。

 「──彼女を生け捕りにする」

 ブランの目が、稜を見た。

 「稜殿。──ご自身も標的の場面で、生け捕りに」

 稜は深く頷いた。

 「──エリカ議員のために」

 ブランは一瞬稜の意図を理解しなかった。

 しかし次の瞬間、ブランは黙って頷いた。──エリカ・ライヘンバッハ。──二十年前、母アンナ・ライヘンバッハをマルガレーテが毒殺した。──エリカが二十年抱え続けてきた憎しみ。──そしてフィオナの「受容」の継承の場面がこれから来る可能性。

 「稜殿。──分かりました」

 ブランは屋根の縁から、慎重に下を確認した。

 「──馬車から、生け捕りにする。──私が下から正面に。──稜殿は、上から馬車の御者を制圧してください」

 稜は深く頷いた。

            ─── ─── ───

 ブランは屋根の端から、路地の暗がりに静かに降りた。──十年の傭兵としての身体能力。──地面に着地した瞬間、足音はほとんど立たなかった。

 稜は、屋根の上を移動した。──馬車の真上の位置に近づいた。──馬車の御者は、馬の手綱を握って、路地の方向を見ていた。──稜の存在には気付いていなかった。

 稜は屋根の縁から、御者の頭の上に、革の手帳を一度落とした。

 ──手帳が御者の肩に当たった瞬間、御者は驚いて立ち上がった。──しかし次の瞬間、ブランが御者の背後から、首の後ろに一撃を加えた。──御者は気を失った。

 馬車の中から、声が聞こえた。

 「マルク? どうした?」

 マルガレーテの声だった。

 ブランは無言で、馬車の扉を素早く開けた。

 馬車の中のマルガレーテは初めて事態を察した。──しかし既に遅かった。──ブランの手が彼女の右手の手首を素早く掴んだ。──彼女の右手にはもう一つの硝子の瓶が握られていた。──別の毒。──最後の自決のための瓶。

 「マルガレーテ殿」

 ブランの声は静かだった。

 「──貴女の自決を許しません」

 ブランの左手が、瓶を彼女の手から取り上げた。──そして瓶を自分の左の上着のポケットに、慎重に入れた。

 マルガレーテは長くブランを見つめた。──そしてゆっくりと深く息を吐いた。

 「ブラン殿。──貴殿は、私を生け捕りにするおつもりですか」

 ブランは黙って頷いた。

 マルガレーテの目にわずかに何かが宿った。──しかしそれは、敗北の悲しみではなかった。──むしろ何かを諦めた瞬間の静けさ。

 「──分かりました。──私は、貴殿に従います」

 マルガレーテはゆっくりと立ち上がった。──馬車から降りた。──稜が屋根から降りてきた。

 マルガレーテと稜は初めて路地の暗がりで対面した。

 「マルガレーテ殿」

 稜の声は静かだった。

 「──貴女のご来訪、確認しました」

 マルガレーテは長く稜を見つめた。

 「稜殿。──私の二十年の最後の標的が、貴殿でした。──しかし今夜、私は失敗いたしました」

 稜は静かに頷いた。

 「マルガレーテ殿。──失敗は、貴女の二十年の最後の機会です。──私は、貴女を皇宮の地下牢にお連れいたします。──そして貴女のご裁判の前に、お会いしたい方がお一人、おられます」

 マルガレーテの目が、わずかに動いた。

 「──どなた、ですか」

 稜は静かに告げた。

 「エリカ・ライヘンバッハ議員。──二十年前、貴女が毒殺された一人目の犠牲者、アンナ・ライヘンバッハ様の、ご娘」

            ─── ─── ───

 午前一時。──ヴェルデンの皇宮の地下牢。

 マルガレーテは、地下牢の最も奥の部屋に収監された。──両手は、鎖で繋がれていなかった。──しかし出口に二人の警備兵が立っていた。

 マルガレーテは、石の床に腰を下ろした。──四十八歳の貴族の女性が、二十年の活動の最後に、この地下牢の冷たい石の床に座っていた。

 しかしマルガレーテの表情は、平静だった。──むしろ二十年抱え続けてきた重みが、ようやく終わる安堵に近い表情。

 扉の外から、稜の声が聞こえた。

 「マルガレーテ殿。──エリカ議員に、お会いになるお気持ちはございますか」

 マルガレーテは長く沈黙した。──そしてゆっくりと答えた。

 「稜殿。──私は、エリカ・ライヘンバッハ様にお会いしたい。──二十年前、私が彼女のお母様の命を奪った事実を私自身の口で彼女に告げたい」

 稜は深く頷いた。

 「マルガレーテ殿。──分かりました。──エリカ議員には、明日の朝、ご連絡いたします。──彼女のご判断をお待ちください」

 マルガレーテは静かに頷いた。

 地下牢の扉が閉じられた。──稜は地下牢を後にした。

 しかし地下牢の中で、マルガレーテは石の床に座って、長く沈黙していた。──二十年抱え続けてきた最も古い罪。──二十年前、ライヘンバッハ家のアンナの食卓に彼女自身が密かに毒を入れた夜。──その記憶が、四十八歳の今夜ようやく言葉になる準備が整っていた。

 (──エリカ様。──二十年前、私が、貴女のお母様の命を奪いました)

 マルガレーテの目から、二十三年で二度目の涙が、頬を一筋伝った。──最初の涙は、夫ハインリヒとの別れの夜。──二度目の涙は、二十年の活動の最後の罪を自分自身の口で告げる準備をした夜。

 地下牢の小さな窓から、紅葉月七日目の三日月の冷たい光が、わずかに差し込んでいた。──そして遠くで、ヴェルデンの中央広場の午前一時の鐘が、街全体に響いていた。

 稜は、地下牢の階段を上りながら、深く息を吐いた。──マルガレーテを生かす判断。──しかしその判断の重みが、稜の胸の中で静かに動いていた。──「許さない。しかし殺さない」。──エリカと共に明日、二十年の終わりの場面を迎える。

毒煙の襲撃、屋根伝いの追跡、馬車の正面突破。

ブランの剣を抜かない戦闘技術の、最も鮮やかな形。

そして稜の方針転換——「マルガレーテの命を奪わない」。

ここに、稜の参謀としての成熟が出ました。

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