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『俺を嵌めた相棒が、異世界で敵国の宰相になっていた ─ 戦略コンサルタント、銀貨五枚で王国を買う』  作者: MU
【第三部】【第三章】五家・商人・若き異邦人、トレスト家の終焉
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トレスト家の最後の対話

 紅葉月の五日目、夕刻六時。

 ヴェルデン東地区、トレスト家の館の応接間。

 古い樫の机を挟んで、二人の人物が向かい合っていた。

 ハインリヒ・フォン・トレスト、四十五歳。──黒い貴族の上着。──しかし胸に飾るはずの家紋のブローチは今日は外していた。──二十三年、毎日付けてきたブローチを今日は意識的に外していた。

 向かい側にマルガレーテ・フォン・トレスト、四十八歳。──白絹のドレス。──首に古い銀のネックレス。──二十三年前の婚礼の日にハインリヒから贈られた品。──今夜も、それを首に着けていた。

 二人の間の机の上に、紅茶のカップが二つ。──しかし誰も口を付けていなかった。──夕方の冷たい紅茶の表面に、応接間の蝋燭の橙色の光が、薄く反射していた。

 「マルガレーテ」

 ハインリヒの声は静かだった。──しかし奥に、二十三年の夫婦関係の最も深い決意が宿っていた。

 「──昨夜エヴァルトが帰ってきた」

 マルガレーテの右手が、紅茶のカップの取手の上で一瞬止まった。──しかし表情は変わらなかった。

 「──そう、ですか」

 マルガレーテの声は、平静だった。

 「あの子は、どちらに」

 「皇宮の小広間で、ヴィスカルト殿下とセレネ殿下、そして稜殿との対面を経た後今朝この館の方角に向かって出発した。──午後八時頃、この館に到着する予定」

 マルガレーテは黙って紅茶を見つめた。

 「ハインリヒ。──あの子の帰還は、誰の手配ですか」

 ハインリヒは妻の目を見た。

 「──ヴィスカルト殿下のご手配。──そしてその裏で、ブラン殿という元傭兵が、貧民街の路地で動かれた」

 マルガレーテの右手がもう一度わずかに動いた。

 (──マルク・カスパル。──連絡が途絶えた理由が、これか)

 ハインリヒはマルガレーテの目を深く見つめた。

 「マルガレーテ。──私は、貴女の昨夜のご手配のことを今朝マルク・カスパル殿の名で確認しました。──マルク殿は、皇宮の地下牢に収監されています」

 マルガレーテは目を閉じた。──しばらく沈黙した。──そして再び目を開いた。

 「ハインリヒ。──貴方は、私をどうなさりたいのですか」

            ─── ─── ───

 ハインリヒは、机の上で右手を軽く拳にした。──しかしすぐに緩めた。

 「マルガレーテ」

 ハインリヒの声はわずかに震えていた。

 「──二十三年。──私たちは、共に生きてきた」

 マルガレーテは静かに頷いた。

 「ハインリヒ。──二十三年。──私は貴方の妻として、貴方の家の千年の歴史と、家の毒の歴史の両方を引き継いで参りました」

 ハインリヒは続けた。

 「私は、家の千年の歴史の重みを貴女と共に背負ってまいりました。──そして家の毒の歴史も、私は二十三年、見て見ぬ振りをしてまいりました」

 ハインリヒの目にわずかに涙が滲んだ。

 「貴女が、二十年の毒殺活動を続けている事実を私は知っていました。──最初の十年は、私は気付かない振りをしていました。──次の十年は、私は気付いていながら、止めることができませんでした。──私の弱さです」

 マルガレーテの表情が、わずかに変わった。

 「ハインリヒ……」

 ハインリヒは続けた。

 「しかし三ヶ月前、稜殿が、千年の真相を私の前にお持ちになりました。──そしてエミーリオ・フォン・ヴァランディン様の七十二年の歴史を私は伺いました。──そして私の家の千年の歴史が、千年前のセレウス・ヴァランディンの血の流れと深く結びついていることを私は理解いたしました」

 ハインリヒは深く息を吐いた。

 「マルガレーテ。──私は、決意いたしました。──家の毒の歴史を私の代で終わらせます」

 マルガレーテは長く沈黙した。──そして、ゆっくりと口を開いた。

 「ハインリヒ。──貴方の決意は、私が二十年積み重ねた全てを否定することになります」

 ハインリヒはわずかに頷いた。

 「マルガレーテ。──否定するのではありません。──貴女が二十年抱えてきた重みも、私は深く理解しております。──しかし家の毒の歴史を続けることはできません」

 マルガレーテの目に初めて深い感情が宿った。

 「ハインリヒ。──私は、貴方を愛しております。──二十三年。──私は貴方一人を愛しました」

 ハインリヒの目に深い悲しみが宿った。

 「マルガレーテ。──私も、貴女を愛しております。──しかし愛は、私の決意を変えません」

 二人の間に長い沈黙が流れた。

 応接間の蝋燭の炎が、静かに揺れていた。──夕方の窓の外で、紅葉月の最初の冷たい風が、館の壁を撫でていた。

            ─── ─── ───

 マルガレーテはゆっくりと立ち上がった。

 「ハインリヒ」

 マルガレーテの声はわずかに震えていた。

 「──私は今夜この館を去ります。──貴方の決意を尊重いたします。──そして私の二十年の重みも、私が一人で引き継ぎます」

 ハインリヒも立ち上がった。

 「マルガレーテ。──貴女のお行き先は」

 マルガレーテはわずかに微笑んだ。──しかしその微笑みの奥に深い覚悟が宿っていた。

 「ハインリヒ。──貴方にはお話しいたしません。──これからの私の活動は、貴方の家の改革と、独立して進みます」

 ハインリヒの目に、再び涙が滲んだ。

 「マルガレーテ。──貴女はまだ続けるおつもりですか」

 マルガレーテは答えなかった。──ただゆっくりと深く頭を下げた。

 「ハインリヒ。──二十三年、ありがとうございました。──そしてエヴァルトのことをよろしくお願いいたします」

 マルガレーテは応接間を出ていった。──しかし扉の前でもう一度振り返った。

 「ハインリヒ。──最後に一つだけ申し上げます。──私は、貴方を愛し続けます。──貴方の決意がどのようなものであっても」

 マルガレーテの目から、二十三年で初めての涙が、頬を一筋伝った。

 そして応接間を出ていった。

 ハインリヒは、立ったまま動けなかった。──二十三年の夫婦関係が今夜、終わった。──応接間の机の上に、二つの冷めた紅茶のカップが残されていた。──マルガレーテの首にあった銀のネックレスの記憶が、ハインリヒの胸の中に静かに残っていた。

            ─── ─── ───

 午後八時半。──エヴァルトが、館の正面玄関に到着した。

 馬車から降りた18歳の若者。──三年ぶりの父との再会。

 しかし正面玄関の扉が開かれた瞬間、エヴァルトは父の姿に、過去三年の手紙からは想像できなかった重みを感じた。──ハインリヒの目に深い悲しみが宿っていた。

 「父さん」

 エヴァルトの声は震えていた。

 「ただいま、戻りました」

 ハインリヒは長く息子を見つめた。──そして深く一礼を返した。

 「エヴァルト。──お帰り、なさい」

 エヴァルトは、父の様子に何かを察した。

 「父さん。──母上は」

 ハインリヒは目を伏せた。

 「──マルガレーテは今夜、館を去った」

 エヴァルトの目が、わずかに大きくなった。

 「母上が……」

 ハインリヒは静かに頷いた。

 「エヴァルト。──応接間でお話しよう」

 父と息子は、館の応接間に入った。──二つの冷めた紅茶のカップはまだ机の上に残っていた。──エヴァルトは、母の去った後の応接間の空気を瞬時に感じ取った。

 父と息子は、机の前に座った。──しばらく沈黙した。

 「父さん」

 エヴァルトは静かに切り出した。

 「──三年。──私は、家を出ました。──父さんに、深くお詫び申し上げます」

 ハインリヒは首を横に振った。

 「エヴァルト。──貴方の三年の選択は、正しい選択だった。──十八歳の貴方が、家の毒の歴史を察知して家を出た。──貴方の判断が、貴方の命を守った」

 ハインリヒは続けた。

 「そして三ヶ月前、稜殿が、私の前に千年の真相をお持ちになりました。──私は、ついに家の毒の歴史を私の代で終わらせる決意を固めました」

 エヴァルトは深く頷いた。

 「父さん。──私は、父さんの決意を深くお支えしたく、戻ってまいりました」

 ハインリヒの目に、再び涙が滲んだ。

 「エヴァルト。──貴方が、戻ってきてくれた。──私の二十三年の沈黙の重みが、ようやく報われた瞬間だ」

 父と息子は長く沈黙した。

 しかし応接間の窓の外で、マルガレーテの馬車の音が、徐々に遠ざかっていった。──そして二人の心の中で別々の重みが、別々の方向に動いていた。──父は新しい改革の出発の重み。──息子は、母を失った悲しみの重み。──そしてマルガレーテは新しい標的に向かう、二十年の活動の最後の重み。

            ─── ─── ───

 深夜十時。──マルガレーテの馬車は、ヴェルデンの北の門を出ていた。

 馬車の中で、マルガレーテは膝の上に小さな硝子の瓶を置いていた。──薄い緑色の液体。──二日前に完成した新しい毒の調合。

 マルガレーテは、瓶を長く見つめた。

 (──ハインリヒ。──貴方の改革のご決意の中核は、稜殿)

 マルガレーテの右手が、瓶の表面を軽く撫でた。

 (──稜殿が消えれば、貴方の決意は揺らぐ。──そして私が貴方の元へ戻る道が、開く)

 マルガレーテの目に深い決意が宿っていた。──二十年の毒殺活動の最大の標的を彼女は確定させた。

 馬車が、北街道を進み続けた。──紅葉月五日目の夜空に、三日月が冷たく浮かんでいた。──そしてヴェルデンの東地区で、トレスト家の改革の最初の夜が、静かに始まっていた。──しかし北街道の馬車の中で、別の戦いの最後の段階が、密かに動き始めていた。

 稜は、応接間の窓辺に立っていた。──二十三年の夫婦関係の終わりの場面が、稜の胸の中で長く反復していた。──しかし稜は、まだ知らなかった。──同じ夜の北街道の馬車の中で、自分の暗殺の最後の段階が、密かに動き始めていることを。

トレスト家の最後の対話。

ハインリヒ45歳が「家の毒の歴史を私の代で終わらせる」決意を、二十三年初めて妻に直接告げる。

マルガレーテの二十三年で初めての涙。

「貴方を愛し続けます」——館を去る最後の一言。

書きながら、自分も静かに涙していました。

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