千年前のアンナの最後の言葉
翌朝、午前十時。
ロンディオの町は、雨に包まれていた。──秋初月の十四日目の朝。──秋初月の雨。──低い灰色の雲が、町の空全体を覆っていた。
稜・神崎・クロヴィスは、エミーリオの屋敷の二階の書斎に、再び集った。──書斎の窓の外で、雨が、屋根の瓦を静かに叩いていた。──しかし書斎の中は、温かく整えられていた。──エミーリオが、暖炉の脇の小さなランプに、火を入れていた。
エミーリオは、机の前の椅子に座った。──昨日と同じ場所。──しかし今朝のエミーリオの目には、昨日とは異なる光が宿っていた。──八十年抱え続けた口伝の最も深い層をようやくこれから語る瞬間の深い静けさ。
「稜殿、神崎殿、クロヴィス殿」
エミーリオの声は、雨の音に紛れることなく、書斎の中に明瞭に響いた。
「──今朝ヴァランディン家の千年の口伝の、第二層の核心をお伝えいたします」
「──千年前のアンナの最後の言葉でございます」
三人は、机の周りの椅子に、それぞれ座った。──そして長くエミーリオの言葉を待った。
─── ─── ───
エミーリオは、机の上の書物の中から、一冊を取った。──昨日の三十冊の中で、最も小さい一冊。──表紙は、薄い、しかし丁寧に保存された羊皮紙。──「アンナ──最後の三日」と古い文字で札が貼られていた。
「──この書物は、千年前、アンナが亡くなる三日前から、亡くなる夜までの、最後の言葉を記録したものです」
「アンナの最後の三日を彼女の枕元で見守ったのは、二人の男──アドレアン王とザラフ──ともう一人、若き書記官でございました。書記官の名は、エマヌエル・ヴァランディン。──ザラフの幼馴染で、後にヴァランディン家の最初の代となった人物。──私の千年前の祖先でございます」
「エマヌエルが、アンナの最後の言葉を丁寧に書き残しました。──そしてその記録が、千年の中で、ヴァランディン家の代々の継承者の手で、丁寧に守られてきました」
「──今私が、その最後の継承者として、お三方の前で、初めてお読みいたします」
エミーリオはゆっくりと書物を開いた。
そして、最初のページから、低い声で読み始めた。
─── ─── ───
「──アンナ、最後の三日、第一日の朝。
──熱が、夜の間に下がりました。しかしアンナの顔色は、白く彼女自身は、自分の最期が近いことを既に受け入れていました。
──アンナは、アドレアン王とザラフを枕元に呼びました。そして二人に、こう告げました」
エミーリオは、書物の文字を丁寧に読んだ。──しかしエミーリオの声は、千年前のアンナの言葉を今初めて声に出して読んでいる老人の声だった。──八十年、口伝として記憶していた言葉を今初めて他者に届けるための声。
「──『アドレアン。ザラフ。──私はもう、長くありません』」
「『──しかし、私の死を悲しまないでください。──私は、私の人生で、二人の最も深い男に愛された。──そして、二人の戦友としての友情の前で、私は最も大切な役を演じました』」
「『──私は、二人の対立の表面の物語の中で、犠牲になる女ではありません。──私は、二人の真の友情の中で、二人を繋ぐ橋となる女です』」
エミーリオは、書物の続きを読んだ。
「──アンナ、最後の三日、第二日の夜」
「──アンナは、アドレアン王とザラフに、こう告げました。『──私の魂は、私の死の後、千年の中で、二度生まれ変わります』」
「『──最初の生まれ変わりは、五百年後。──六百五十年前のトルメアスの時代の、ある女性として。──しかしその女性の役割は、千年の歪みの始まりを見届けるためでございます』」
「『──二度目の生まれ変わりは、千年後。──二人の異邦人が、東の海の向こうの遥か遠い大陸から、この大陸に到着する時代。──私の魂は、その時代に、二人の異邦人の中に、半分ずつ宿ります』」
─── ─── ───
稜と神崎の息が、同時に止まった。
──千年前のアンナの最後の言葉。──「私の魂は、二人の異邦人の中に、半分ずつ宿ります」。
エミーリオは、続きを読んだ。
「──『二人の異邦人は、私の魂の半分ずつを抱えて、最初は離れて生きます。──彼らは、それぞれの前世の人生で、東の遥かな大陸で、参謀の道を歩みます。──そして二人は、若き日に出会い、若き日の戦友となり、十五年の友情を築きます』」
「『──しかし二人の前世の人生の最後の三週間で、二人は、私が千年前にアドレアンとザラフと共に経験したのと同じ、最も深い試練を経験します。──二人は、表面的に対立し、その対立の中で、二人とも傷つきます』」
「『──そしてその対立の後、二人は、東の大陸を離れ、別の世界──私たちの大陸の延長の世界──に転生します。──そして転生の後、二人は再会し、私たち千年前の三人の真実を初めて知ります』」
稜の手が、わずかに震えた。
──二年前のあの最後の夜、神崎が稜を嵌めた瞬間。──そして二年半前の異世界転生。──そして二ヶ月半前の月の庭の再会。──全てが、千年前のアンナの予言の中に、既に組み込まれていた。
エミーリオは、書物の続きを読んだ。
「──『二人の異邦人が再会する日、私の魂もまた、彼らの中で再会します。──二人の参謀の友情の中で、私は、千年前のアンナとして、ようやく完全に蘇ります』」
「『──そして二人は、千年の歪みを書き直します。──私の魂の最後の役は、二人の参謀の道を内側から見守ることでございます』」
─── ─── ───
エミーリオは、書物の最後のページを開いた。
「──アンナ、最後の三日、第三日の夜。──彼女が亡くなる、最後の夜の言葉でございます」
エミーリオの目に、わずかに涙が滲んだ。
「──『アドレアン。ザラフ。──私はこれから眠ります。──しかし私の魂は、千年の中で、二度生まれ変わって、最後に二人の異邦人の中で再会します』」
「『──二人の異邦人の友情を私が見守ります。──そして二人が、千年の歪みを書き直す時、私もまた、最後の役を演じます』」
「『──二人に、最後に伝えてください。──「アンナは、千年前から、あなた方二人の中で、生きていました」と』」
「──アンナの最後の言葉でございました」
エミーリオは、書物をゆっくりと閉じた。
書斎の中で長い沈黙が流れた。──雨の音が、屋根の瓦を変わらず叩いていた。──しかしその雨の音の奥で、千年前のアンナの声が今稜と神崎の中で、初めて蘇っていた。
─── ─── ───
しばらく、四人の沈黙が流れた。
そして稜がふと机の上の革の手帳を懐から取り出した。──最初の頁の裏の十枚の紙。──そしてその裏の最も奥の小さなポケットに、稜が異世界に転生する直前、写真立ての裏で発見した、玄一郎先生の紋章のスケッチが、一枚、保存されていた。
稜は、紋章のスケッチを机の上に静かに置いた。
エミーリオは、そのスケッチを長く見つめた。
そして低く呟いた。
「──稜殿。──この紋章は、ヴァランディン家の千年の家紋でございます」
稜の息が、止まった。
「──ヴァランディン家の」
「アンナの紋章でもございます。──アンナが亡くなる前に、ヴァランディン家の祖先エマヌエル・ヴァランディンに与えられた彼女の最後の象徴。──そしてヴァランディン家は、千年の中で、この紋章を守り続けてきました」
エミーリオは、続けた。
「──稜殿。お祖父様の写真立ての裏に、なぜこの紋章があったのか。──おそらくお祖父様の若き日の研究会で、玄一郎殿と晋三郎殿が、ヴァランディン家の千年の口伝に偶然触れた時、ヴァランディン家のある代の継承者から、この紋章を若き二人に贈ったのでございましょう」
「──二人の祖父は、その紋章をそれぞれの代々で守り、孫の代に届けるために、家族の中に静かに残されました」
稜は深く目を伏せた。
(──玄一郎先生。──写真立ての裏の紋章は、千年前のアンナの紋章だった。──そしてあなたは、その紋章を私の代に届けるためにご自身の写真立ての裏に、静かに残してくださった)
─── ─── ───
エミーリオはゆっくりと立ち上がった。
──そして三人を長く見つめた。
「稜殿、神崎殿、クロヴィス殿。──ヴァランディン家の千年の口伝の、第二層の核心は、これにて、お伝えしきりました」
「──私の役目は、これで、終わります」
エミーリオの声は深く穏やかだった。──しかし奥に、八十年の老人の解放感が、宿っていた。
「──第三層──二人の異邦人の魂の最終形と、神器の最終起動の刹那の物語──は、結婚の儀の刹那に、お二人ご自身が、皇宮の地下深部で直接ご覧になります。──私が、お伝えする内容ではございません」
「──私は、八十年抱え続けた重みを今お三方にお渡しいたしました。──そして私は、これで、この屋敷で、静かに残りの人生を過ごします」
稜は深く頭を下げた。
「エミーリオ殿。──八十年のご重みを私たち三人で、丁寧にお預かりいたします」
神崎も、深く頭を下げた。
「エミーリオ殿。──ヴァランディン家の千年の口伝が、ようやく次の世代に渡りました。──私たち二人と、クロヴィス殿が、結婚の儀の刹那まで、この口伝を抱えて生きます」
クロヴィスも、深く頭を下げた。
「エミーリオ殿。──祖父ルクレティウスの手稿の中で、エリナ前王妃の名前が出てくる箇所と、エミーリオ殿のお話の中のヴァランディン家の千年の継承の仕組みが、これから、私の中で繋がります」
エミーリオはわずかに微笑んだ。──八十年の老人の、解放と感謝の、深く穏やかな微笑み。
─── ─── ───
午前十一時、雨が小やみになった頃。
三人は、エミーリオの屋敷を辞した。
玄関の扉の前で、エミーリオが最後に三人を見送った。──雨上がりの空から、秋初月の昼の光が、屋敷の前の庭を淡く照らしていた。
「稜殿、神崎殿、クロヴィス殿。──道中の無事をお祈りいたします」
稜は深く頭を下げた。
「エミーリオ殿。──ご健康を心よりお祈りいたします」
エミーリオはわずかに首を横に振った。
「稜殿。──私は、八十年抱え続けた重みを今日お三方にお渡しいたしました。──私の人生は、これで完全に意義あるものとなりました。──残りの人生は、ヴァランディン家の千年の家紋を静かに守り続けるだけでございます」
エミーリオは深く一礼した。
そして三人も、深く頭を下げた。
─── ─── ───
帰路の馬車の中で、稜・神崎・クロヴィスの三人は長く沈黙していた。
馬車が、ロンディオの町の北の入口を出て、ヴェルデンへの街道に入った。──雨上がりの空が、徐々に晴れつつあった。──夏の雲が、東の地平線に、流れていった。
クロヴィスがふと口を開いた。
「師匠。──千年前のアンナのお名前と、私の祖父様の手稿の中で出てくる一人の女性のお名前が、おそらく同じでございます」
稜は静かにクロヴィスを見た。
「クロヴィス。──祖父殿の手稿の中で、アンナという名前が」
クロヴィスは深く頷いた。
「祖父様の手稿の最後の頁の裏に、ある古い記録が、写されておりました。──『五百年前、シビル女王の時代に、ある女性詩人がいた。彼女の名前はアンナ。詩人として、千年前のアンナの魂の最初の生まれ変わりであった』」
稜の息が、わずかに止まった。
(──五百年前のシビル女王の時代の女性詩人アンナ。──千年前のアンナの魂の最初の生まれ変わり。──エミーリオ殿の口伝の中の『五百年後の最初の生まれ変わり』と、完全に一致する)
神崎が、横で口を開いた。
「稜。──そしてアンナの魂の二度目の生まれ変わりは、俺たち二人の中に、半分ずつ宿る」
稜は深く頷きを返した。
「玲。──アンナの魂は、俺とお前の中で、千年の中で初めて再会する。──結婚の儀の刹那、皇宮の地下深部の神器の最終起動の瞬間に」
─── ─── ───
夕刻、緑陰月の最初の日の夕方。
馬車は、ロンディオから二日目の街道を走り続けていた。──夕陽が、夏の終わりの空を深い紫から橙色に変えつつあった。
稜は、馬車の窓辺で、長く外を見つめていた。
革の手帳を膝の上に置いた。──最初の頁の裏に、十枚の紙。──そして玄一郎先生の紋章のスケッチが新しい意味を持って、稜の中で蘇っていた。
(──玄一郎先生。──あなたは、千年前のアンナの紋章を私の代に届けるためにご自身の写真立ての裏に静かに残してくださった)
(──千年前のアンナ。──あなたの魂が、玲と俺の中に、半分ずつ宿っている)
馬車の車輪の音が、街道の砂利を静かに踏みつけていた。──そして夏の終わりの夕方の風が、馬車の窓辺を変わらず流れていた。
稜は深く目を閉じた。
──そして低く呟いた。
「玲。──千年前のアンナの言葉。──『二人の異邦人の友情の中で、私は、千年前のアンナとして、ようやく完全に蘇ります』」
神崎は、稜の隣で、静かに頷いた。
「稜。──結婚の儀の刹那、俺たち二人の中で、千年前のアンナの魂が、再会する」
稜は深く頷きを返した。
──馬車は、ヴェルデンへの街道を変わらず進んでいた。──そして遠く、地平線の向こうに、夏の終わりの最初の星が、徐々に現れつつあった。
千年前のアンナの最後の三日。
「私の魂は、千年の中で二度生まれ変わる」——
アンナがアドレアン王とザラフに残した予言。
第二章のクライマックス。
書きながら、雨の音が聞こえる気がしました。




