千年前の三人
翌朝、午前十時。
稜・神崎・クロヴィスは、エミーリオの屋敷を再び訪ねた。──朝の光が、屋敷の前の庭の白い花を淡く照らしていた。──昨夕と異なり今朝のエミーリオは、玄関の外で待っていた。
「お早うございます」
エミーリオはわずかに微笑んだ。──そして三人を屋敷の中に案内した。
しかし昨夕の居間ではなく、屋敷の二階の書斎へ。──二階に上がる階段は、八十歳の老人にとって、わずかに難しい動作だった。──しかしエミーリオはゆっくりとしかし確かに階段を上った。
書斎は、屋敷の最も奥の部屋だった。──大きな机、四方の壁の書架、そして窓辺の小さな茶卓。──書斎の中央の机の上に、三十冊ほどの古い書物が、丁寧に並べられていた。──それぞれの背表紙に、小さな札。──「千年前」「九百年前」「八百年前」──時代別の整理。
「──ヴァランディン家の千年の記録、私が八十年で整理してきたものでございます」
エミーリオは、机の前に、ゆっくりと座った。──そして三人を机の周りの椅子に案内した。
クロヴィスが、自分の鞄から、祖父ルクレティウスの手稿の写しを取り出した。──そして机の上の、エミーリオの書物の隣に、丁寧に置いた。
エミーリオの目が、その手稿を長く見た。
「──ルクレティウス殿の手稿の写し」
「はい、エミーリオ殿」
エミーリオはわずかに頷いた。──そして指先で、手稿の表紙を軽く撫でた。
「八十年、私の机の上に、この手稿が初めて重なります」
─── ─── ───
エミーリオは深く息を吸った。
「稜殿、神崎殿、クロヴィス殿。──ヴァランディン家の千年の口伝をこれからお話いたします。──しかし、三層に分けて、お伝えいたします」
「第一層は、千年前のアドレアン王とザラフの『公的な歴史』。──これは、両国の歴史書にも、断片的に残されている内容です」
「第二層は、千年前のアドレアン王とザラフの『私的な物語』。──これは、ヴァランディン家の口伝としてのみ、保存されてきました」
「第三層は、二人の異邦人と、二人の祖父と、千年前のアドレアン・ザラフの繋がりの最も深い層。──この層は、口伝の中で『神器の最終起動の刹那まで開けない』とされてきました。──しかし結婚の儀の刹那、皇宮の地下深部の神器が最終起動する時、その層が開かれます」
エミーリオは続けた。
「──今日は、第一層と、第二層の入口まで、お伝えいたします。──第二層の核心と、第三層は、明日もう一日、お時間をいただきたい」
稜は深く頷いた。
「エミーリオ殿。──ご配慮、ありがとうございます」
─── ─── ───
エミーリオは、机の上の書物の中から、最も古い一冊を取った。──表紙は、革ではなく、薄い金属の板のようなもの。──千年前の保存技術。──「千年前」と札が貼られていた。
エミーリオは、その書物をゆっくりと開いた。
「第一層──千年前のアドレアン王とザラフの公的な歴史。──両国の歴史書では、こう記されています」
「『──アドレアン王は、東の大陸の最初の統一王。──しかし王の最後の年、若き臣下ザラフが反逆を企て、王国を分裂させた。──王は、ザラフを公的に追放し、アドレアン王の死後、ザラフは西の島国を建国した。──これが、両国の千年の対立の起点である』」
エミーリオは、書物を一度閉じた。
「──しかし、この公的な歴史は、表面の物語でございます。──真実は別にございました」
エミーリオは、別の書物を取った。──少し新しい。「九百年前」と札が貼られていた。──九百年前、トルメアスの時代の最も古い後継者たちが、千年前の真相を初めて記録に残した書物。
「第二層の入口──千年前のアドレアン王とザラフは、公的には対立しました。──しかし二人は、実は若き日の戦友でございました。──そして二人は、同じ女性を愛しておられました」
稜の息が、わずかに止まった。
「──同じ、女性」
「アンナという名の女性でございます。──後に、ヴァランディン家の最初の代の象徴となる女性。──しかし、その時はまだ若い、東の辺境の出身の一人の女性でございました」
エミーリオの声は、低かった。
「──アンナは、東の大陸の小さな辺境の集落の出身。──若き日のアドレアン王とザラフの両方が、辺境の遠征の途中で、アンナと出会いました。──そして二人とも、アンナを深く愛されました」
「アンナは、最終的に、アドレアン王と結ばれました。──ザラフは、その選択を深い悲しみと共に受け入れました。──しかしザラフは、生涯、アンナを忘れることができませんでした」
エミーリオは続けた。
「──そしてアンナは、若くして亡くなりました。──結婚の三年後、流行病で。──アドレアン王とザラフは、アンナの墓の前で、初めて二人だけで対話を交わされました。──その夜の対話の内容が、千年の歪みの構造の最も深い層の起点でございます」
─── ─── ───
エミーリオは、ランプの光の下で、書物の文字をゆっくりと読んだ。
「──『アドレアン王。──私たちはもう、アンナを失いました。──しかし、私たちの友情は、アンナへの愛と共にこれからも続きます』」
「『ザラフ。──しかし私たちが共に生きるためには、表面的な対立が必要となります。──大陸の若い秩序のために、二人の異なる王国が、対立する形で並び立つ必要があります』」
「『アドレアン王。──私たちは、表面的に対立しましょう。──しかし私たちの真の友情と、アンナへの愛は、千年の中で必ず、誰かに引き継がれます』」
「『ザラフ。──千年後、誰かがこの真実に到達するでしょう。──二人の異邦人が、千年の歪みを書き直す時、私たちの真の物語が、ようやく明かされる』」
エミーリオは、書物を閉じた。
「──稜殿、神崎殿。──千年前のアドレアン王とザラフは、表面的には対立しました。しかし真実は若き日の戦友であり、同じ女性を愛した二人でございました」
稜は長く沈黙した。
(──千年前の二人。──表面の対立の奥に、若き日の友情と、同じ女性への愛があった)
神崎は深く息を吐いた。
(──そして俺と稜の二人もまた、表面的には『嵌めた者と嵌められた者』の関係だった。──しかし真実は二十年の戦友の関係。──千年前の二人の構造が、千年後の俺たち二人の構造に、繋がっている)
─── ─── ───
エミーリオはゆっくりと立ち上がった。──そして書斎の窓辺に立った。──秋初月の八日目の正午の光が、屋敷の窓から流れ込んでいた。
「稜殿、神崎殿、クロヴィス殿。──午前の対話は、ここまでにいたします。──午後、町長の宿屋に戻られて、午後の昼食をお取りください。──そして明日の朝、再びお戻りください」
「明日、第二層の核心──アンナの最後の言葉と、千年前の三人の最後の場面──をお伝えいたします」
エミーリオの目が、稜と神崎を長く見つめた。
「──そしてアンナの最後の言葉が、お二人の二人の祖父──玄一郎殿と晋三郎殿──の若き日の研究会の出発点でございました」
稜と神崎の息が、同時に止まった。
(──アンナの最後の言葉が、二人の祖父の研究会の出発点)
─── ─── ───
三人は、エミーリオの屋敷を辞した。
昼の光が、ロンディオの町の石畳を夏の白さで照らしていた。──中央広場まで戻る道で、三人は長く沈黙していた。
クロヴィスがふと口を開いた。
「師匠、神崎宰相。──千年前の三人。──アドレアン王、ザラフ、そしてアンナ」
稜は静かに頷いた。
「クロヴィス。──千年の対立の歴史の起点が、若き日の戦友と、同じ女性への愛だった。──そして千年後、その物語の続きを俺たち二人が引き継いでいる」
神崎が、横で口を開いた。
「稜。──しかしまだ千年前の物語の最も深い層は、明日まで開かれない。──エミーリオ殿が、明日アンナの最後の言葉を語られる。──そしてそれが、俺たちの二人の祖父の研究会の出発点」
稜は深く頷きを返した。
(──アンナ。──千年前の女性のお名前が明日、二人の祖父の研究会の起源として、新たな層を開く)
─── ─── ───
午後、宿屋の小さな部屋。
稜は、革の手帳の最初の頁の裏に新しい一枚の紙を加えた。──十枚目の紙。──エミーリオの口伝の第一層と第二層の入口の整理。
「秋初月最終日の翌日。エミーリオの第一層と第二層の入口の開示。千年前のアドレアン王とザラフは、若き日の戦友。同じ女性アンナを愛した。アンナの墓の前で、二人は表面的な対立と真の友情を交わした。千年後、二人の異邦人がその真実に到達する」
稜は、ペンを置いた。
──宿屋の窓の外で、夏の風が、ロンディオの古い時計台の方角から流れていた。──時計の針は、午後二時を指していた。
(──明日の朝、アンナの最後の言葉が開かれる)
稜は長く窓辺で立った。
稜の胸の中で、新しい問いが動いていた。──千年前のアドレアン王、ザラフ、アンナ。──三人の友情と対立の最後の層が、神崎と二人で受け止める覚悟の重みを、徐々に明確にしていた。
千年前のアドレアン王とザラフが、若き日の戦友だった事実。
そして二人とも、同じ女性アンナを愛していた。
表面の対立の背後にあった、三人の物語。
ここから千年前の真の物語が動き始めます。




