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八十年の老人

 秋初月の十二日目の夕方、午後五時。

 馬車は、ロンディオの町の北の入口に到着した。

 ロンディオ。──ハーゲン帝国南部、丘陵地帯の小さな町。──人口、約二千人。──町の中央に小さな広場、その周りに石造りの古い家屋が並んでいた。──町の象徴である古い時計台が、広場の北側に立っていた。──ヴァランディン家の祖先が、千年前に建てたとされる石造りの塔。

 馬車は、町の中央広場で止まった。

 秋初月の十二日目の夕方の光が古い時計台の頂きを金色に染めていた。──時計の針は、午後五時を指していた。──小さな町の住民たちが、夕方の市場の片付けを進めていた。──しかし馬車から降りた稜・神崎・クロヴィスの三人は、住民たちの目を引いた。──ヴェルデンから来た、見慣れない服装の三人。

 神崎が、町長の屋敷に向かって、馬車の御者を案内させた。──町長には、事前に密書を送っており、エミーリオ・ヴァランディン殿との対面の段取りが、整えられていた。

            ─── ─── ───

 町長の屋敷で、簡単な挨拶を交わした後、町長が三人をエミーリオ・ヴァランディンの屋敷まで案内してくれた。

 エミーリオの屋敷は、ロンディオの町の南端、小さな丘の上にあった。──町の中心から、徒歩で十五分。──屋敷自体は、思ったより小さかった。──二階建ての石造りの家。──しかし屋敷の周囲の庭が、丁寧に手入れされていた。──秋初月の十二日目の花々が、淡い色で咲いていた。

 町長は、屋敷の正面の扉の前で、三人に頭を下げた。

 「稜殿、神崎殿、クロヴィス殿。──エミーリオ殿は、お客様を内でお待ちでいらっしゃいます。──私はここで失礼いたします」

 神崎は深く一礼を返した。

 「町長殿。──ご案内、ありがとうございました」

 町長は、屋敷の前から町の方向に戻っていった。

 三人は、屋敷の正面の扉の前に立った。

 ──そして神崎が、扉を静かに叩いた。

            ─── ─── ───

 しばしの間。

 そして扉の向こうから、低い声が返ってきた。

 「──お入りください」

 神崎は、扉をゆっくりと押した。

 扉は、軋まなかった。──丁寧に手入れされた古い樫の扉。──夏の終わりの夕方の光が、扉の隙間から、屋敷の中に差し込んだ。

 玄関の中に入った。

 そして三人の目が、奥の部屋を見た。

 ──小さな居間。──壁の四面に古い書架。──書架の中に古い書物が、丁寧に並べられていた。──居間の中央に古い暖炉。──夏なので火は焚かれていなかったが、暖炉の周りに、いくつかの古い椅子が置かれていた。

 そして暖炉の前に、一脚の大きな椅子。──その椅子に、一人の老人が座っていた。

 エミーリオ・ヴァランディン。

 八十歳。──白い髪、白い髭深い茶色の目。──しかし背筋は、椅子の中で真っ直ぐに伸びていた。──体格は痩せているが、目には強い知の光が宿っていた。──そして手には古い書物を一冊、開いて持っていた。

 エミーリオが、ゆっくりと書物を膝の上に置いた。

 そして三人を見た。

 「──稜殿、神崎殿、クロヴィス殿」

 エミーリオの声は、思ったより明瞭だった。──八十年の老人の、しかし今もしっかりとした発声。

 「──私は、エミーリオ・ヴァランディンと申します。──八十年、この屋敷で、ヴァランディン家の千年の口伝を一人で抱えて参りました」

 三人は深く頭を下げた。

            ─── ─── ───

 エミーリオはゆっくりと立ち上がった。──そして暖炉の前の椅子を三人の方向に手で示した。

 「──お座りください」

 三人は、それぞれの椅子に座った。──稜と神崎が、エミーリオの向かい側に。──クロヴィスは、稜の隣に。

 エミーリオは、自分の椅子に再び座った。──そして長く三人を一人ずつ見つめた。

 エミーリオの目が、稜で止まった。

 ──そして、低く呟いた。

 「──稜殿。──あなたを私は知っております」

 稜の息が、わずかに止まった。

 「──エミーリオ殿」

 「八十年、私は、夢を見続けて参りました」

 エミーリオの声は、静かだった。──しかし奥に、八十年の重みが宿っていた。

 「──夢の中で、私は古い建物の中におりました。白い大理石の柱、青い天井、奇妙な文字の刻まれた壁。──その奥に、四十代の二人の東洋人の男がいた。一人は、革の手帳を持っていた。もう一人は、青い宰相の礼服を着ていた」

 稜と神崎の目が、同時に動いた。

 ──エミーリオもまた、同じ夢を見ていた。

 エミーリオは続けた。

 「──その夢を私は、八十年見続けて参りました。──幼い少年の頃から。──そして夢の中の二人の男が、私の人生のいつか必ず、私の屋敷を訪れると、私は信じておりました」

 「──そして今日ようやくお二人がいらっしゃった」

 エミーリオはわずかに微笑んだ。──八十年の老人の、深く穏やかな微笑み。

 稜は深く頭を下げた。

 「エミーリオ殿。──八十年のお待ちの時間に、私は深く敬意を覚えます」

 エミーリオはわずかに首を横に振った。

 「稜殿。──私は、待っていたのではございません。──ヴァランディン家の千年の口伝を八十年抱えながら、自分の代で次の世代に渡せないことを私は受け入れて生きて参りました。──しかし夢の中の二人の男が、いつか必ず私の屋敷を訪れると信じることだけが、私の八十年の生の支えでございました」

 エミーリオの目に、わずかに涙が滲んだ。──しかし八十年の老人は、それを拭わなかった。

            ─── ─── ───

 しばらく、暖炉の前で、四人の沈黙が流れた。

 秋初月の最終日の夕方の光が、屋敷の窓辺から、徐々に弱くなりつつあった。──エミーリオが、ゆっくりと立ち上がって、暖炉の脇の小さなランプに、火を入れた。──老人の手の動きはゆっくりとしかし確かだった。

 ランプの橙色の炎が、居間の中に静かに揺れた。

 エミーリオは、椅子に再び座った。

 「稜殿、神崎殿。──ヴァランディン家の千年の口伝の最も深い層は、一晩では、お伝えしきれません。──そして私は、八十年抱え続けた口伝を軽々しくお伝えしたくはございません」

 「──今夜は、ロンディオの町の宿屋で、お休みください。──町長が、お部屋を用意してくださっているはずです。──そして明日の朝、午前十時から、夕方まで、私と長くお話いたしましょう。──もし必要なら、明後日も、その次の日もお話を続けます」

 稜は深く頭を下げた。

 「エミーリオ殿。──ご配慮、痛み入ります。──明日の朝、午前十時に再度、お屋敷をお訪ねいたします」

 エミーリオはわずかに微笑んだ。

 「稜殿。──ありがとうございます。──八十年、私は、毎日同じ時間に起きてきました。午前六時に起き、午前八時に朝食、午前九時から書物の整理、午前十時から午後の対話の時間。──八十年の習慣に、お三方をお迎えいたします」

            ─── ─── ───

 エミーリオはゆっくりと立ち上がって、三人を玄関まで見送った。

 玄関の扉の前で、エミーリオがふと稜の方を見た。

 「──稜殿。──最後に、一つだけ今日の夕方にお伝えしたいことがございます」

 稜は静かにエミーリオを見た。

 「──私は、八十年、夢の中の二人の男が、いつか必ず私の屋敷を訪れると信じておりました。──しかし夢の中でもう一つ、別の場面を私は見続けてきました」

 エミーリオは、低く続けた。

 「──夢の中で、二人の男の後ろにもう一人、若い人物がいらっしゃいました。──十六歳ほどの若い書記官の少年。──そしてその少年は、白い羊皮紙を一束、抱えていらっしゃいました」

 クロヴィスの息が、止まった。

 エミーリオの目が、クロヴィスを見つめた。

 「──クロヴィス殿。──夢の中の若い書記官の少年は、あなたでいらっしゃいました」

 クロヴィスの目が、わずかに大きくなった。

 「──エミーリオ殿、私が」

 エミーリオは静かに頷いた。

 「──そしてあなたが抱えていらっしゃる白い羊皮紙の束は、おそらくお祖父様の手稿でいらっしゃいます。──ヴァランディン家の千年の口伝と、お祖父様の手稿が、明日の対話の中で、初めて重なります」

 クロヴィスは深く頭を下げた。

 「──エミーリオ殿。──私の祖父は、十年前に亡くなりました。──しかし祖父の手稿、そして祖父が私に残してくださった『沈黙の意味』を私は今抱えております。──明日お祖父様の手稿を持参して、ご対話に参ります」

 エミーリオはわずかに微笑んだ。

 「クロヴィス殿。──八十年、私は、あなたの登場を待っておりました」

            ─── ─── ───

 三人は、エミーリオの屋敷を辞した。──夕陽が、ロンディオの丘陵地帯の地平線に、ほぼ沈みつつあった。──町の方向に戻る道で、夕方の風が、夏の終わりの草花を揺らしていた。

 クロヴィスは、稜と神崎の半歩後ろを静かに歩いていた。──十六歳の若い書記官の目に深い感慨が宿っていた。

 「師匠。──エミーリオ殿が、私の存在を夢の中で見ておられた」

 稜は静かに頷いた。

 「クロヴィス。──三十六年前のアドラム王、三十年前の神崎、若き日の玄一郎先生、そして八十年前のエミーリオ殿。──四人の異なる時代と場所の人物が、同じ夢の中で、私たち三人の姿を見ておられた」

 神崎が、横で口を開いた。

 「稜。──そして玄一郎殿の発見の通り、二人の異邦人の前世の祖父の準備が、孫の代の参謀の道を支える。──しかし、玄一郎殿と晋三郎殿のさらに上の世代──おそらく二人の祖父の若き日の研究会の前の世代──も、千年の予言の構造の中で、何かの役を演じておられた可能性がある」

 稜は深く頷きを返した。

 「玲。──ヴァランディン家の口伝の最も深い層が、明日エミーリオ殿のお口から、初めて開かれる」

            ─── ─── ───

 夜、十時。

 ロンディオの町の小さな宿屋。──稜・神崎・クロヴィスの三人は、それぞれの部屋に分かれて、夜を過ごしていた。

 稜は、宿屋の小さな部屋の窓辺に立っていた。──秋初月の最終日の夜空。──月はわずかに欠けながら、静かに昇っていた。

 革の手帳を机の上に置いた。──最初の頁の裏に、九枚の紙。──そして明日の朝、エミーリオ・ヴァランディン80歳の口伝の最も深い層が、稜の前で、ようやく開かれる。

 (──エミーリオ殿。──八十年の重みを明日、私たち三人で受け止めます)

 稜は、窓の外の月を長く見つめた。

 ──そして秋初月の風が、宿屋の窓辺を静かに揺らした。

 遠く、ロンディオの古い時計台が、夜の十時を告げる鐘を十回鳴らした。

 稜は、宿屋の窓辺で長く立っていた。──エミリオの言葉が、稜の胸の中で静かに反復していた。──「八十年、私は、あなたの登場を待っておりました」。──千年の予言の最も深い層が、ここから始まろうとしていた。

エミーリオ・ヴァランディン80歳との初対面。

八十年同じ夢を見続けてきた老人。

ロンディオの古い時計台の前で、稜と神崎が八十年の重みを受け取る。

千年前の物語に、いよいよ深く入っていきます。

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