二人の祖父、若き日の戦友
秋初月の六日目の朝、午前七時。
神崎の公邸の応接間。
昨夜の月光は、夜明けの光に変わっていた。──東の窓から、夏の朝日が斜めに流れ込んでいた。──金色の光が、応接間の机の上を淡く照らしていた。
机の上に、神崎の祖父結城晋三郎の古い革の封筒。──十年前から保管されていた、最後の手紙。──昨夜と同じ場所に、置かれていた。
稜と神崎は、机の前の二脚の椅子に、向かい合って座った。──クロヴィスは、隣の客室でまだ朝の準備を進めていた。──二人だけの場面。
神崎は、革の封筒に、ゆっくりと指を伸ばした。──そして十年前の赤い封蝋を慎重に剥がした。
封蝋は、十年の月日の中で、わずかに脆くなっていた。──しかし指の力で、丁寧に剥がせる程度の硬さは、残っていた。
神崎は、封筒の中から、二枚の古い羊皮紙を取り出した。
結城晋三郎の手書き。──四十年宰相の道を歩んだ結城晋三郎、八十歳のお年での字。──しかし丁寧な、誠実な字。──十年前、亡くなる三日前に書かれた手紙。
稜は、神崎の手元の手紙を長く見つめた。
(──玲。──十年前、お前の祖父様の最後の手紙)
─── ─── ───
神崎は、最初の一行を読み始めた。
「──玲へ。
──私はもう長くない。今日で、寝台から起き上がれない日が三日続いた。──お前にこの手紙を渡せるのは、おそらく明日か明後日になるだろう」
稜は、神崎の声を聞きながら、机の上の手紙の文字を追った。──二人で、同時に読んでいた。
「──玲。お前は、若くして、参謀の道を歩み始めた。お前の才能を私は若き日から見守ってきた。──しかし、お前の参謀の道の最も深い場所には、私からの遺言が必要となる時が、いつか来るだろう」
「──その時のために、私は、この手紙を書いている」
神崎の目にわずかに涙が滲んだ。──しかし神崎は、それを拭わなかった。──十年前まだ若い宰相だった頃に渡された手紙を四十一歳の今稜と二人で開いている。──祖父の最期の声を今初めて聴く瞬間。
神崎は、続きを読んだ。
「──玲。私には、若き日からの戦友が、一人いた。彼の名は、村瀬玄一郎。──お前は、彼のお名前を聞いたことがないかもしれない。私は、お前にも、家族にも、彼のことをほとんど話さなかった」
稜の息が、止まった。
「──玄一郎殿」
稜は低く呟いた。
──玄一郎先生。──稜の前世の祖父。──稜が前世で、十二歳から二十二歳まで、毎週末に訪問していた、研究者だった祖父。──稜の参謀としての道の、最も深い影響を与えた人物。
(──玲の祖父結城晋三郎と、俺の祖父玄一郎先生が、若き日の戦友だった)
─── ─── ───
神崎は、続きを読んだ。
「──玄一郎殿と私は、若き日、同じ研究会で出会った。──東洋の若き思想家たちが、月に一度集まる私的な研究会。──私は、当時まだ三十代の若い男。玄一郎殿は、私より十歳ほど年上だった」
「──私たちは、千年前の予言の構造に関する、ある古文書の研究を共に進めていた。──六百五十年前のトルメアスの時代の文字。──そして千年前のアドレアン・ザラフの時代の文字の最も古い系統」
「──玄一郎殿は、その研究の中である重要な発見をされた。──『二人の異邦人の到来』の予言の最終層。──しかし、彼はその発見を当時の研究会の他の人々には共有しなかった。──彼は、私だけに、その発見を内緒で告げた」
稜は、机の上の手紙を深く見つめた。
(──玄一郎先生。──俺は、あなたを十二歳から二十二歳まで知っていた。──しかしあなたが、若き日の研究会で、千年の予言の最終層を発見されていた、ということは、知らなかった)
神崎は、続きを読んだ。
「──玄一郎殿の発見の内容を私は今玲に告げる」
「──『二人の異邦人は、それぞれの前世の祖父を通して、千年の予言の組み立てに既に繋がっている。──祖父の代の準備が、孫の代の参謀の道を支える』」
「──玄一郎殿は、こう仰った。『私の孫は、いずれ、参謀の道を歩むだろう。彼が、あなたの孫と、いつか出会う日が来る。──その日のために、私たちは、若き日の研究会の友情を孫の代に繋ぐ』」
「──玲。私は、その日のために、お前を見守ってきた。──そしてお前が参謀の道の最も深い場所に到達した時、玄一郎殿のお孫様と、必ず出会うと、私は信じていた」
稜は深く息を細く吐いた。
(──玲。──俺たちの参謀の道は、若き日の二人の祖父の友情によって、既に繋がれていた)
─── ─── ───
神崎は、二枚目の羊皮紙を読み始めた。
「──玲。最後に、私からお前に、一つだけ告げたいことがある」
「──玄一郎殿は、研究会の最後の年、ある夢を見たと、私に告げられた」
「──夢の中、玄一郎殿は古い建物の中にいた。白い大理石の柱、青い天井、奇妙な文字の刻まれた壁。──その奥に、二人の男がいた。一人は、四十代の男。革の手帳を持っていた。もう一人は、四十代の別の男。青い宰相の礼服を着ていた」
「──二人とも、東洋の顔立ちの男だった」
稜と神崎の息が、同時に止まった。
──玄一郎先生もまた、同じ夢を見ていた。──三十六年前のアドラム王、三十年前の若き神崎、そしてさらに玄一郎先生。──三人の人物が、同じ夢を共有していた。
神崎は、続きを読んだ。
「──玄一郎殿は、その夢を見た夜、私にこう告げられた。『晋三郎殿。──私の夢の中の四十代の二人の男は、私たちの孫と、あなたの孫の、未来の姿だ。──そして二人は、千年の歪みを書き直すために、ある時代に集う』」
「──玲。お前は、その『四十代の二人の男』の、一人だ。──そして玄一郎殿のお孫様がもう一人の男だ」
「──私の最後の遺言として、お前に告げる。──玄一郎殿のお孫様と、お前は、必ず出会う。──そして二人で、千年の歪みを書き直す道を歩む」
「──私は、あの世で、玄一郎殿と再会する時、二人で若き日の研究会の続きを話す。お前たちが、孫の代で何を成し遂げたかを二人で語り合う」
「──十年前のある夏の夜。晋三郎より」
神崎は、最後の一行を読み終えた。
そして、長く沈黙した。
─── ─── ───
しばらく、応接間の中で、二人だけの沈黙が流れた。
秋初月の終わりの朝の光が、机の上の手紙を変わらず金色に照らしていた。──遠く、公邸の中庭で、夏の鳥が一度だけ鳴いた。──しかし応接間の中は深い静寂に包まれていた。
稜は深く目を閉じた。
──前世の十二歳から二十二歳まで、毎週末に訪問していた玄一郎先生。──白い髪深い茶色の目、書斎の机の上の古い書物。──毎週末、稜は玄一郎先生の書斎で、何時間も対話を交わしていた。──歴史、哲学、組織論、参謀の道。──稜の参謀としての基礎は、玄一郎先生の書斎で、十年かけて築かれた。
しかし玄一郎先生は、稜に「千年の予言の構造」を一度も直接は告げなかった。──稜が異世界に転生する直前、写真立ての裏の紋章に気付いたのが、最初で最後の符合のヒント。
──玄一郎先生は、稜が前世の若い研究者だった頃から、稜の未来の姿を夢の中で見ていた。──そして結城晋三郎と、若き日の研究会で出会った友情を通して、二人の祖父の準備の仕組みの中に、稜と神崎を静かに位置付けていた。
稜は、目を開いた。
そして机の上の手紙を長く見つめた。
「玲」
稜は、低く口を開いた。
「──俺たちの再会は、二年前のあの最後の夜の偶然ではなかった。──若き日の二人の祖父の、若き日の研究会から、既に組まれていた」
神崎は静かに頷いた。
「稜。──そしてその二人の祖父も、千年前のトルメアスの予言の構造の中である役を演じておられた」
稜は深く頷きを返した。
─── ─── ───
神崎は、二枚の手紙をゆっくりと折り直した。
そして稜の方に、静かに差し出した。
「稜。──お前にも、写しを取って、革の手帳に加えてほしい。──九枚目の紙として」
稜は深く頷いた。──そして机の上の自分のインクと羊皮紙を取り出して、神崎の手紙の写しを丁寧に書き始めた。──朝の早い時間。──しかし稜の手は、震えなかった。──十年抱え続けた手紙の重みを神崎と二人で受け止めた後の静かな手の動き。
写しを書き終えた稜は、革の手帳の最初の頁の裏に、九枚目の紙として、丁寧に挟んだ。
──セレネの覚悟、クロヴィスの判断、フィオナの最期の言葉、フリードリヒ二世皇帝の三十五年前の書簡の写し、アドラム王の三十六年前の書簡、玄一郎先生の紋章のスケッチ、神崎の三十年前の夢の証言、エリナ前王妃の五年前の手紙の写し、そして九枚目──結城晋三郎の十年前の最後の手紙の写し。
九つの符合が、稜の革の手帳の中で、揃った。
─── ─── ───
午前八時。
クロヴィスが、応接間に現れた。──朝の準備が整い、ロンディオへの馬車の支度が、外で進んでいた。
「師匠、神崎宰相。──馬車の準備、整いました」
稜と神崎は、立ち上がった。
──応接間を出る前、稜はもう一度机の上を振り返った。──朝の光の中で、机の上には、何も残っていなかった。──十年前の赤い封蝋の痕跡だけが、わずかに机の上に、影のように残っていた。
神崎は、稜の隣で、静かに口を開いた。
「稜。──馬車の中でもう一度ゆっくりと話そう。──二人の祖父のことを若き日の研究会のことを玄一郎殿のお人柄のことを」
稜は深く頷いた。
「玲。──三日の旅の中で、お前と二人で、過去の繋がりを整理する」
─── ─── ───
馬車の前で、稜・神崎・クロヴィスの三人が揃った。
秋初月の朝の光が、ヴェルデンの公邸の中庭を金色に染めていた。──馬車の御者が、馬の手綱を握っていた。──ロンディオまで、馬車で三日。
馬車に乗り込む前、稜は神崎の方を向いた。
「玲。──行こう」
神崎はわずかに微笑んだ。
「稜。──俺たちの二人の祖父が、八十歳の若き日に始めた道の、最も深い続きが、ロンディオで開かれる」
稜は静かに頷いた。
──三人は、馬車に乗り込んだ。──そして公邸の正門を抜けて、南方ロンディオへの街道に出た。
ヴェルデンの夏の朝の風が、馬車の窓辺に流れ込んだ。──そして遠く、皇宮の塔の二つの旗が、朝の光の中で、変わらず揺れていた。
稜の前世の祖父・玄一郎先生と、神崎の祖父・結城晋三郎が、若き日の研究会の戦友だった事実。
最大の伏線回収の一つです。
「祖父の代の準備が、孫の代で実を結ぶ」——
玄一郎先生の手紙の一文、書きながら胸が熱くなりました。




