南方ロンディオへの道
緑陰月、二十五日目。
アウリオン議会の閉会から、八日が経っていた。──稜は、議会の決議の事後対応、ヘルマン副宰相との詳細な引き継ぎ、そしてレオン王との数回の対話を経て今朝ヴェルデンに向けて旅立つ。
夜明け前、午前四時。
王宮の南門の前に、馬車が用意されていた。──稜とクロヴィスの二人旅。──そしてヴェルデンで神崎と合流し、三人でハーゲン帝国南部のロンディオへ向かう。
南門の前に、レオン王が立っていた。
三十三歳。──朝の正装ではなく、簡素な深紺の上着を羽織っただけの、私的な装い。──夜明け前の冷たい空気の中で、王の白い吐息が、薄く凍っていた。
そしてレオン王の隣に、グスタフ執事と、カスパル宰相、マテウス院長。──朝の早い時間、稜の出発を見送るために、それぞれの場所から南門に集まっていた。
稜とクロヴィスは深く頭を下げた。
「レオン陛下。──ご見送り、痛み入ります」
レオン王はわずかに頷いた。
「稜。──短い旅か」
「──ヴェルデンまで十日、ロンディオまで三日。エミーリオ殿との対面に二日から三日。そして帰路に十三日。約一ヶ月の旅となります」
レオン王は静かに頷いた。
「分かった、稜」
─── ─── ───
グスタフ執事と、若い御者が、馬車の最後の準備を進めていた。──緑陰月の夜明け前の空気はわずかに肌寒かった。──しかし東の地平線が、徐々に紫から金色に変わり始めていた。
レオン王が、稜の前に立った。──そして稜の右手を、両手でしっかりと握った。──武芸を学んだ手の力。──しかし握りには、王としての覚悟と、参謀への深い信頼が、両方宿っていた。
「稜」
「はい、陛下」
「──私のために、必ず帰ってきてくれ」
稜の息が、わずかに止まった。
即位五年の王が、四十二歳の参謀に、最も素直な言葉で告げた。──公的な「無事のご帰還を待つ」ではなく私的な「私のために、帰ってきてくれ」。──陛下と稜の二人だけに通じる、母エリナの食堂での「レオンと呼んでくれ」と同じ、人間としての言葉。
稜は深く頭を下げた。
「──陛下。必ず、お戻りいたします」
レオン王はわずかに微笑んだ。──そして稜の手を、もう少し強く握った。──武芸を学んだ手の握力が、稜の右手に深く伝わった。──そして稜には、その手の温度の意味が、深く伝わった。
(──陛下。──ご一緒の食堂の夜の続きを私は必ず作ります)
レオン王は手を離した。
そして次に、クロヴィスの前に立った。──十六歳のクロヴィスは深く頭を下げた。
「クロヴィス書記官」
「はい、陛下」
「──若き書記官の最初の公的遠征だ。──祖父様、ルクレティウス殿の手稿の最後の層をエミーリオ殿との対話の中で、しっかりと確認してきてほしい」
クロヴィスは深く頭を下げた。
「陛下。──祖父の名にかけて」
─── ─── ───
カスパル宰相が静かに前に進んだ。
七十二歳。──朝の早い時間に、王宮の南門まで歩いてきた。──過去八日間、議会の事後対応で、稜とカスパルは何度も対話を重ねた。──カスパルの体調は、議会の日に比べて、わずかに安定していた。──最後の公的な大舞台を全うした安堵が、四十年の老体にある種の落ち着きを与えていた。
「稜殿」
カスパルの声は、低かった。
「──ご旅程、ご無事を祈ります」
稜は深く頭を下げた。
「カスパル殿。──ありがとうございます。──私の不在中、ヴァルド書記官長との宰相業務の引き継ぎが、徐々に進むはずです。──カスパル殿のご体調、どうぞ大切になさってください」
カスパルはわずかに微笑んだ。
「稜殿。──ご心配、痛み入ります。──ヴァルドは、よく仕事を継いでくれています。──私は、執務の量を徐々に減らしながら、最後の数ヶ月を丁寧に過ごします」
稜は静かに頷いた。
そしてマテウス院長の前に立った。
マテウス。──冥書庫でエリナ前王妃の最後の手紙を開示してから、八日。──七十代の老院長はある種の解放感を目の奥に宿していた。──五年抱え続けた重みをついに次の世代に渡したことの、軽さ。
「マテウス殿」
「稜殿」
「──エミーリオ殿に、エリナ前王妃のお手紙のご遺志をお伝えしてまいります」
マテウスは深く頭を下げた。
「稜殿。──エミーリオ殿は、エリナ前王妃のお名前をお聞きになって、おそらくお驚きになられるでしょう。──しかしエリナ前王妃のご遺志は、エミーリオ殿が八十年抱えてきた口伝の重みを優しく受け止める形で、エミーリオ殿のお心に届くはずです」
稜は深く頭を下げた。
─── ─── ───
馬車の準備が、整った。
若い御者が、馬の手綱を握った。──稜とクロヴィスは、馬車に乗り込んだ。──馬車の中には、十日分の旅の装備、革の手帳、そしてエリナ前王妃の手紙の写しと、神崎からの密書のリスト。──全てが、慎重に整理されていた。
馬車の窓から、稜はもう一度レオン王を見た。
レオン王は、南門の前でまだ立っていた。──朝の冷たい空気の中で、簡素な深紺の上着の王。──稜の旅の最初の一歩を、王として見届けようとしていた。
馬車が、ゆっくりと動き始めた。
──南門を抜け、王宮の外の広い道に出た。──夜明け前の空気が、馬車の窓から流れ込んだ。
稜は窓から、振り返った。
王宮の南門の前で、レオン王、カスパル、マテウス、グスタフの四人がまだ立っていた。──夜明けの最初の光が、彼らの後ろの王宮の塔の頂きを徐々に金色に染めつつあった。──塔の頂きで、二つの旗が、夏の夜明けの風に揺れていた。
レオン王が、稜に向かって、わずかに手を上げた。──幼い、しかし王としての挨拶。
稜は、馬車の中で深く頭を下げた。
馬車は徐々にアウリオンの城壁の方角に進んだ。──そして城壁を抜けて、北街道に出た。
─── ─── ───
北街道。
アウリオンからヴェルデンまで、十日。──稜とクロヴィスは、馬車の中で長い旅の最初の朝を過ごした。──朝日が、徐々に東の地平線から昇りつつあった。──サルマティアの草原に向かう街道の両脇に、緑陰月の終わりの草花が、淡い色で咲いていた。
クロヴィスが、馬車の中で静かに口を開いた。
「師匠」
「ああ」
「陛下のお顔、最後までよくご覧になっておられました」
稜はわずかに微笑んだ。
「ああ。──陛下が、初めて単独で稜を南方への遠征に送り出された。──陛下にとっても新しい意味の経験だったはずだ」
クロヴィスは深く頷いた。
「師匠。──私もまた、初めての公的な遠征。──祖父様の名前を背負って、ロンディオへ向かいます」
稜は静かにクロヴィスを見た。
「クロヴィス。──祖父殿の若き日の四十年前から、現在の十六歳のお前まで、書記官の系譜が続いている。──エミーリオ殿との対面で、その系譜の最も古い層とお前自身の代の最も若い層が、初めて重なる」
クロヴィスは深く頭を下げた。
「師匠。──ありがとうございます」
─── ─── ───
十日の旅の後。
秋初月の五日目の夕刻。
稜とクロヴィスの馬車が、ヴェルデンの北の城門を通過した。──春芽月の末に初めて稜がヴェルデンに到着した時から、約三ヶ月。──しかし今回の到着は、新しい段階の中での、二度目の訪問。
城門を通過した後、馬車は皇宮ではなく、神崎の宰相公邸に直接向かった。──過去三ヶ月、神崎は宰相退任の儀の準備を進めていた。──しかし正式な退任まではまだ数ヶ月の年月が必要だった。──現在も、神崎は公邸を執務の中心として使っていた。
夕陽が、ヴェルデンの空を金色に染めていた。──皇宮の塔と、神崎の公邸の塔。──両方の塔が、秋初月の終わりの夕方の光を受けて、淡く輝いていた。
馬車が、神崎の公邸の正門の前で止まった。
門の前に、神崎が立っていた。
四十一歳。──宰相の青い礼服。──しかし過去三ヶ月の準備で、表情に新しい余裕が宿っていた。──二十年の宰相の重みから、徐々に解放されつつある男の顔。
稜は馬車を降りた。
「玲」
稜は、低く呼びかけた。
神崎はわずかに笑った。
「稜。──十日の旅、ご苦労」
二人は長く目を合わせた。
──過去三ヶ月、密書のやり取りは何度も交わしてきた。──しかし直接の対面は、結婚の儀の前のヴェルデンの日々以来。──そして今エミーリオ・ヴァランディン80歳との対面という新しい大きな旅の前に、二人は再び合流した。
クロヴィスも馬車を降りて、神崎に深く頭を下げた。
「神崎宰相。──お久しぶりでございます」
神崎は静かに頷いた。
「クロヴィス。──書記官としての初めての遠征、ご苦労」
─── ─── ───
神崎は、稜とクロヴィスを公邸の中に案内した。──午後の早い時間に着いた予定だったが、街道の途中で小さな雨に降られたため、到着が夕刻にずれた。
公邸の応接間で、三人は夜の食事を共にした。──簡素な食事。──秋初月の終わりの夏野菜、白いパン、少し強い茶。──そして神崎が、自ら淹れた茶を稜の前に置いた。
稜は、その茶を一口飲んだ。──少し強い茶。──カスパルの茶と似ていたが、神崎の淹れ方はもう少し香りが深かった。
「玲。──美味しい」
神崎はわずかに笑った。
「稜。──二十年、宰相としてこの公邸で茶を淹れてきた。──若い日に、カスパル殿から淹れ方の助言をもらったことがある。──しかし俺は、香りを少し強めにする工夫をしていた」
稜は静かに頷いた。
(──玲。──二十年の中で、お前の手も、四十年のカスパル殿の手と似た、独自の道を歩んできた)
─── ─── ───
食事の後、稜と神崎は応接間で二人だけになった。──クロヴィスは、隣の客室で長い旅の疲れを静かに休めていた。
夜、十時。
応接間の窓辺で、稜と神崎は二脚の椅子に向かい合って座った。──公邸の中庭で、秋初月の終わりの月が、わずかに欠けながら昇っていた。──月光が、窓辺から応接間の中に流れ込んでいた。
「稜」
神崎は、低く口を開いた。
「──実はお前に告げなければならないことがもう一つある」
稜は静かに神崎を見た。
(──玲)
「──祖父結城晋三郎が、亡くなる三日前、俺に最後の手紙を残していた」
稜の目が、わずかに動いた。
「──玲。──十年前」
神崎は静かに頷いた。
「俺が三十一歳の時。──まだ宰相の任期の中盤。──祖父結城晋三郎は、俺に最後の手紙を渡された。──しかし俺は、その手紙を十年間封を解かずに保管してきた」
「祖父は、こう告げられていた。『玲。──この手紙は、いつかお前が、お前の参謀の道の最も深い場所に到達した時お前自身の判断で開けてほしい。早すぎる開封は、お前を迷わせるだろう』」
「──十年、俺は、開ける時を待ち続けた」
神崎は深く息を吐いた。
「──そして三日前、お前の昨夜の密書の内容──三十六年前のアドラム王の書簡、玄一郎先生の紋章、エリナ前王妃の手紙の写し──を読んで、俺は気付いた。──祖父の手紙を開ける時が、ようやく来た、と」
稜は深く息を細く吐いた。
(──玲。──お前もまた、十年抱え続けた一通の手紙)
神崎は、懐から古い茶色の革の封筒を取り出した。──封蝋は、十年前のままの古い赤い色。──しかしまだ封は解かれていなかった。
「稜。──明日の朝、ロンディオへの旅の前に、この手紙をお前と一緒に開ける」
「──祖父結城晋三郎の最後の手紙の中に、おそらく玄一郎先生の存在に関わる何かが、書かれている」
稜の息が、止まった。
(──玄一郎先生と、結城晋三郎。──二人の祖父)
神崎は、革の封筒を机の上に置いた。──応接間の月光が、その封筒を淡く照らしていた。
「明日の朝、稜。──二人で開ける」
稜は深く頷いた。
─── ─── ───
夜、十一時。
稜は、客室に戻った。──しかしすぐには、眠れなかった。
革の手帳を机の上に置いた。──最初の頁の裏に、八枚の紙。──そして明日の朝、神崎の祖父結城晋三郎の最後の手紙が、九枚目の紙として加わる。
(──玲。──俺たちの二人の祖父が、千年の予言の構造の中で、何かの役を演じておられた)
稜は、客室の窓辺に立った。──ヴェルデンの夜空に、秋初月の終わりの月が、わずかに欠けながら昇っていた。
──月光の中で、稜は深く目を閉じた。
遠く、ロンディオの方角に、夏の夜の風が吹いていた。──三日後、エミーリオ・ヴァランディン80歳との対面。──そしてその前に、明日の朝、神崎の祖父の最後の手紙が、稜の前で開かれる。
稜は深く息を吐いた。
──そして寝台に向かった。──長い旅はまだ始まったばかりだった。
稜は、寝台の上で目を閉じた。──しかし眠りはすぐには来なかった。──十日後のロンディオで、八十年の老人と対面する。──その老人が、稜と神崎の運命の最後の鍵を握っていた。
十一歳のレオン王が、稜の手を両手で軽く掴む場面。
「私のために、必ず帰ってきてくれ」——
この一言が書きたくて、ここまで来た気がします。
そして三ヶ月ぶりの神崎との再会。第二章の本格的な開始です。




