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五十年目の手紙

 午後三時、冥書庫。

 王宮の地下深部、東棟の最奥。──稜とクロヴィスは長い石の階段を降りていった。三ヶ月前の春芽月の朝、クロヴィスが祖父ルクレティウスの手稿を初めて見つけた、その同じ階段。

 しかし今日の冥書庫の空気は、春の朝とは違っていた。──緑陰月の昼の光は地上にあり、地下まで届かない。──しかし数多くの蝋燭が、いつもより多く灯されていた。──そしてマテウス院長が、最も奥の長机の前に、座って待っていた。

 七十代。深い青い目。──普段の修道服ではなく、王宮の正式な紫の礼服を着ていた。──朝の議会の場で、特別な議員席に列席していた服装のまま。

 マテウスの机の上に古い羊皮紙の手紙が一通、置かれていた。──しかし以前クロヴィスが見つけた手稿のような分厚いものではない。一枚の、四つに折られた手紙。──封蝋の痕跡が残っていたが、既に何度も開かれた跡。

 稜とクロヴィスは、机の前に立った。

 「マテウス殿」

 稜が静かに告げた。

 「お呼びいただき、ありがとうございます」

 マテウスはゆっくりと立ち上がった。──そして稜とクロヴィスに、小さく頷いた。

 「稜殿、クロヴィス殿。──お忙しい中、ありがとうございます」

 マテウスは、机の脇の二脚の椅子を手で示した。──稜とクロヴィスは、それぞれの椅子に座った。

 そしてマテウスも、机の向かいの椅子に、再び座った。

            ─── ─── ───

 マテウスは、机の上の手紙に、長く目を伏せた。

 「稜殿、クロヴィス殿」

 マテウスの声は、低かった。──しかし奥に、五十年の重みが宿っていた。

 「──今朝レオン陛下が議会の場で、母上エリナ前王妃のお死を千年の歪みの『終わりの始まり』として受容なさる、と宣言なさいました」

 「──私は、議員席で、その瞬間を見届けておりました」

 マテウスの目にわずかに涙が滲んだ。──しかし五十年の冥書庫を守ってきた老人は、それを拭わなかった。

 「五十年、冥書庫を守って参りました。──多くの秘密を一人で抱えて参りました。──そして五十年の中で、最後まで開けずに守り続けてきた、一つの手紙が、ございます」

 マテウスは、机の上の手紙に、指を添えた。

 「──エリナ前王妃がご逝去の三日前、私にお預けになった、最後の手紙でございます」

 稜の息が、わずかに止まった。

 (──エリナ前王妃の、最後の手紙)

 クロヴィスも、横で目を見開いた。

 マテウスは続けた。

 「五年前、緑陰月の半ばのある夕刻。──エリナ前王妃が、お一人で冥書庫にお見えになりました。──普段、王妃が冥書庫を訪れることは、ございません。──しかしその夕刻、エリナ様は、私だけにお会いするために、訪れてくださいました」

 「エリナ様は、机の上に、この手紙を置かれました。──そして私にこう告げられました。『マテウス院長。──私の身に何かあった時、この手紙をしかるべき方々にお届けください』」

 「私は、エリナ様にお尋ねしました。『エリナ様、しかるべき方々とは、どなたでしょうか』。エリナ様は、お笑いになりました。そしてこうお答えになりました。『その時が来た時、マテウス院長が、ご自分の判断で、お選びください』」

 「──エリナ様は、ご自分が毒殺されることを予感されていました」

 稜は深く息を細く吐いた。

 (──エリナ前王妃。──ご自身のお死を三日前から予感されていた)

            ─── ─── ───

 マテウスは、続けた。

 「五年、私は、この手紙を保管して参りました。──しかし手紙の宛先を私はまだ判断できていなかった。──エリナ様が亡くなられた直後は、政治的な混乱が大きくレオン陛下は王太子として即位の準備の最中でいらっしゃいました。──手紙を開く時期を私は待ち続けて参りました」

 「そして今朝、議会の場で、レオン陛下が母上のお死を『受容』として公的に宣言なさいました。──レオン王が、セレネ王女が、二人で、母上のご遺志を継ぐ覚悟を整えられた」

 「──今ようやくこの手紙を開く時が、参りました」

 マテウスは、机の上の手紙をゆっくりと広げた。──四つに折られていた紙を一つずつ開いていった。

 古い、しかし丁寧な字。──エリナ前王妃の手書き。──四十八歳の最期の年、命の最後の三日前に書かれた一通の手紙。

 マテウスは、紙を広げ終えた。

 そして稜とクロヴィスを長く見た。

 「稜殿。──この手紙の宛先を私は今朝、初めて判断いたしました。──手紙を稜殿、そしてクロヴィス殿にお見せします」

 クロヴィスの目が、一瞬大きくなった。

 「──院長、私にも」

 マテウスは静かに頷いた。

 「クロヴィス殿。──手紙の中に、ある重要な人物の名前が、出てまいります。──その人物は、クロヴィス殿のお祖父様、ルクレティウス・モク殿と深い繋がりをお持ちの方でいらっしゃいました」

 クロヴィスの息が、止まった。

 (──祖父ルクレティウスと、繋がりのある人物)

 マテウスは、手紙を稜とクロヴィスの方向に、ゆっくりと向けた。

 「──ご一緒に、お読みください」

            ─── ─── ───

 稜とクロヴィスは、机の上の手紙を読み始めた。

 ──「マテウス院長へ。

 ──私は今この手紙を書いている。私の身に、何かが起きる予感がある。──三日前、ハーゲン帝国の使節団との晩餐会の後、いくつかの兆候を私は感じた」

 「──私は、過去五年、千年の歪みを止めるための準備を一人で進めてきた。アドラム王、私の義父が三十六年前に始められた調査の続きを私は密かに引き継いだ。──しかし私はまだその全貌をお伝えする相手を持たない」

 「──私の二人の子、レオンとセレネ。──レオンは王太子として既に二十八歳、セレネは十一歳。──私の死後、二人がそれぞれの覚悟を持って王国を共に率いる時代まで、まだ準備の年月が必要となる」

 「マテウス院長。──私の死後、二人の子の覚悟が整う日まで、この手紙を保管していてください。──そしてその日が来た時、しかるべき方々にお届けください」

 エリナ前王妃の字は、丁寧だった。──しかし手紙の中盤で、字が少しだけ乱れた箇所があった。──四十八歳の母が、自分の若き子供たちの未来を考えた瞬間の、感情の揺らぎ。

 稜は、続きを読んだ。

 「──しかるべき方々を私は予感している。一人は、東洋から来る、ある参謀の方。──私は、その方のお名前をまだ存じ上げない。しかしアドラム王の三十六年前の夢の中で、その方の姿が示されていた、と義父はマテウス院長にお伝えになっていたはずです」

 稜の手が、わずかに震えた。

 (──エリナ前王妃。──三十六年前のアドラム王の夢をご存知だった)

 「──もう一人は、私の若き友人、ルクレティウス・モク殿のお孫、クロヴィス殿。──ルクレティウス殿は、十年前、私が二十六歳の時、王宮で何度か対話を交わした方でございました。彼が亡くなる二年前のこと。──彼は、クロヴィス殿の存在を私に教えてくださいました。『私の孫は、いずれ若き書記官として、王宮で活躍する。彼の代で、私の手稿の最後の層が、明らかになるだろう』」

 クロヴィスの目に深い光が宿った。

 (──祖父様。──エリナ前王妃と、対話されていた)

            ─── ─── ───

 稜は、手紙を続けて読んだ。

 「──マテウス院長。私の死後、二人の方々──東洋からの参謀殿と、クロヴィス殿──の前で、この手紙をお開きください。──そして三つの事項を私からお伝えください」

 「一つ目。私は、千年の歪みの構造の最も古い層を義父アドラム王の調査記録から学びました。──千年前のアドレアンとザラフ。──そして六百五十年前のトルメアスの三人の弟子。──第二の弟子セレウス・ヴァランディン。第三の弟子の系譜から、エルフラム・ヴァランディン(セレウスの双子の弟)。──ヴァランディン家の千年の口伝が、最も深い層を保存している可能性があります」

 「二つ目。──ヴァランディン家は、千年の中で徐々に没落しました。──しかし家の最後の継承者として、エミーリオ・ヴァランディンというお方が、現在も生きておられます。エミーリオ殿は、私の死後、おそらく八十歳前後の御年でいらっしゃるはず。──ハーゲン帝国南部、ロンディオの町に、お住まいになっているはずです」

 稜の息が、止まった。

 (──エリナ前王妃が、エミーリオ・ヴァランディン八十歳の名前を五年前に既に書き残しておられた)

 ──神崎が今朝の密書で送ってきたエミーリオの名前と、エリナ前王妃が五年前に手紙に書いた名前が、完全に一致していた。──両国の二人の女性──ハーゲン帝国の前皇妃シモーネと、アウレリア王国の前王妃エリナ──が、それぞれの調査の中で、同じ最後の継承者の存在に辿り着いていた。

 稜は、続きを読んだ。

 「三つ目。──私から、最後にお願いがあります。──私の二人の子、レオンとセレネに、私の死を『憎しみ』ではなく『受容』として伝えてほしい。──千年の歪みの枠組みの中で、私の死は、終わりではなく、終わりの始まりの一つの形となります。──二人の子に、その精神性を継いでいただきたい」

 「マテウス院長。──五十年の冥書庫の重みをお一人で支えてくださっている院長に、私の最期のご依頼を加えること、心からお詫びいたします。──しかし院長以外に、私はこの手紙を託す相手を持ちません」

 「──エリナ・アウレリア。緑陰月の十二日目の夕刻」

 稜は、最後の一行を読み終えた。

            ─── ─── ───

 書庫の中で長い沈黙が流れた。

 マテウスの目に、五年抱え続けた重みが、ようやく解放される瞬間の光が宿っていた。

 クロヴィスの目には、祖父ルクレティウスとエリナ前王妃の十年前の対話を知った驚きと、自分が書記官としてその系譜を継いでいることへの深い自覚が、混ざっていた。

 そして稜は、革の手帳を懐から取り出した。──そして最初の頁の裏に、八枚目の紙を加えるべく、エリナ前王妃の手紙の写しを丁寧に取った。

 (──エリナ前王妃。──五年前ご自身のお死を予感されながら、千年の歪みを止める道筋の最後の繋がりをこの手紙の中に残しておられた)

 稜は深く頷いた。

 「マテウス殿。──五年の沈黙を解いてくださり、ありがとうございます」

 マテウスは静かに首を横に振った。

 「稜殿。──私の役目は、保管者でございました。──しかし、保管の終わりを自分の手で決める覚悟を私は朝の議会で得ました。──陛下のお言葉が、私の五年の重みを優しく解いてくださいました」

 クロヴィスは、机に手をついた。──そしてマテウスに深く頭を下げた。

 「マテウス院長。──祖父と、エリナ前王妃が、十年前に対話を交わされていたことを私は今初めて知りました。──祖父の手稿、そしてこの手紙。──二つの古い書面が、私の中で今繋がりつつあります」

 マテウスはわずかに微笑んだ。

 「クロヴィス殿。──ルクレティウス殿は、四十年前、若い書記官として王宮に入られた頃から、エリナ前王妃の母君であるマリーア前々王妃の書類整理を担当されておりました。──エリナ前王妃が王妃にお就きになる前から、ルクレティウス殿はエリナ様のことを若い王女としてご存知でした」

 「──ルクレティウス殿が、ご自分のお死の二年前、エリナ前王妃に『私の孫の存在』をお伝えになった時、エリナ前王妃はクロヴィス殿のお名前を心に留められました。そして、五年前のこの手紙の中に、改めてクロヴィス殿のお名前を書き残された」

 クロヴィスの目にわずかに涙が滲んだ。

 (──祖父様。──エリナ前王妃の心の中で私の名前を残してくださった)

            ─── ─── ───

 稜は、机の上のエリナ前王妃の手紙を長く見つめた。

 ──三十六年前のアドラム王の夢、三十年前の神崎の夢、五年前のエリナ前王妃の手紙。──三人の人物が、それぞれの時代に、千年の歪みの構造の一部を予感し、未来の二人の異邦人とその同志に、独自の形で繋ぎ続けた。

 そして今稜とクロヴィスの前で、その三つの繋がりが、一つの場所に集まった。

 稜は深く頭を下げた。

 「マテウス殿。──エリナ前王妃のご遺志を私は、必ずお守りいたします」

 マテウスは静かに頷いた。

 「稜殿。──そして、エミーリオ・ヴァランディン殿との対面を近くお考えでございましょうか」

 稜は頷きを返した。

 「──七日後、レオン陛下の議会の続きの諸対応が一段落いたしました後、神崎宰相と二人で、ヴェルデンの南方ロンディオの町を訪ねる予定です。──エミーリオ殿、八十歳のお年で、お会いできる時間がどれほど残されているか、急ぐ必要があります」

 マテウスは深く頷いた。

 「稜殿。──道中の無事をお祈りいたします」

            ─── ─── ───

 冥書庫を辞して、稜とクロヴィスは長い石の階段を上がっていった。

 地上に出た時、緑陰月の午後の光が、王宮の中庭の石畳を金色に染めつつあった。──地下の青白い蝋燭の光から、地上の暖かい日差しへの移行。

 稜は革の手帳を懐の中で軽く押さえた。──最初の頁の裏に、八枚の紙が今揃っていた。

 セレネの覚悟、クロヴィスの判断、フィオナの最期の言葉、フリードリヒ二世皇帝の三十五年前の書簡の写し、アドラム王の三十六年前の書簡、玄一郎先生の紋章のスケッチ、神崎の三十年前の夢の証言、そして今──エリナ前王妃の五年前の手紙の写し。

 八枚の符合。

 八つの異なる時代と場所からの繋がり。──しかし全てが、千年前のトルメアスの予言と、二人の異邦人の到来の構造に、辿り着いていた。

 クロヴィスが、横で静かに口を開いた。

 「師匠」

 「ああ」

 「祖父様が、エリナ前王妃と対話されていたこと。──私はこれから家に戻り、祖父様の手稿の中で、エリナ前王妃のお名前が出てくる箇所をもう一度精査いたします」

 稜は深く頷いた。

 「ご苦労、クロヴィス。──祖父殿が四十年前に若い書記官だった頃から、千年の歪みを止める道筋の準備が、既に始まっておられた。──その準備の最後の世代が今私たちだ」

 クロヴィスは深く頷きを返した。

 王宮の中庭の白い忘れな草が、夏の風に揺れていた。

 稜は、革の手帳を閉じた。──そして冥書庫の階段を、ゆっくりと上がっていった。──マテウス院長が五十年抱え続けた手紙が、ようやく次の世代の手の中で、新しい意味を持ち始めていた。

エリナ前王妃の最後の手紙、五十年目の開示。

死の三日前に、ご自身の毒殺を予感しながら書かれた手紙。

千年前のヴァラン家の予言、千年の歪みを止める道筋。

書きながら、エリナ様の声がずっと聞こえていました。

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