三十六年前の予言
夜、十時。
稜は王宮の北棟の自分の書斎に戻った。──エリナ前王妃の食堂を辞してから、二時間が経っていた。──食堂を出た後、王宮の中庭でしばらく一人で歩いた。──月を見上げ、夏の夜の風を肌で感じ、レオン王の言葉を胸の中で何度か反芻した。
そして書斎に戻った今机の前に座った。
机の上に、革の手帳。──手帳の最初の頁の裏に、五枚の紙。──セレネの覚悟、クロヴィスの判断、フィオナの最期の言葉、フリードリヒ二世皇帝の三十五年前の書簡の写し。──そして五枚目、アドラム王の三十六年前の書簡。
稜は革の手帳から、五枚目の紙を慎重に取り出した。
古い羊皮紙。──折り目が一つ、中央に。──上部に、王家の赤い封蝋の痕跡。──封蝋は、三十六年の月日の中で、わずかに脆くなっていた。
稜は机の上のランプに、火を入れた。
橙色の炎が、書斎の壁に静かに揺れた。──夜の十時、王宮の北棟は静かだった。──廊下で、夜警の足音が遠く聞こえた。
稜は深く息を吸った。
──そして、封を解いた。
─── ─── ───
羊皮紙が、ゆっくりと開いた。
古い字。──しかし丁寧な、誠実な字。──三十六年前、四十代のアドラム王が、自ら書いた手紙。──稜は、机の上のランプの光を羊皮紙の文字に当てた。
そして読み始めた。
──「我が宰相カスパルへ。
──我が孫、レオンが王位に就く頃、この書を稜殿という参謀に渡してほしい」
冒頭の一行。──朝、カスパルが封を解かずに保管していると言っていた、その一行。
稜は次の行を読んだ。
──「稜殿。──私はあなたを知らない。あなたが私の言葉を読まれる時、私はおそらくこの世にはいない。──しかし私は、あなたという男が、必ずアウリオンの王宮にお戻りになることをある夜の夢の中で示された」
稜の息が、止まった。
(──夢の中で示された)
稜は、続きを読んだ。
──「夢の中、私は古い建物の中にいた。──白い大理石の柱、青い天井、奇妙な文字の刻まれた壁。──私はその場所を知らない。──しかしその場所の最も奥に、二人の男がいた。──二人とも、東洋の顔立ちの男だった」
「──一人は、四十代の男。革の手帳を持っていた。──もう一人は、四十代の別の男。青い宰相の礼服のような服を着ていた」
「──二人は、何かについて深く話していた。──私はその会話の内容を夢の中で聞き取れなかった。──しかし二人の目から深い信頼と深い罪悪感の両方が見て取れた」
「──夢の終わりに、その奥の壁から、声が私に届いた。──『この二人の男が、千年の歪みを書き直すために、あなたの孫の代に到着する』」
稜の手が、わずかに震えた。
(──三十六年前のアドラム王が、私と神崎の姿を夢の中で見ておられた)
──四十代の革の手帳を持つ男。──稜。
──四十代の青い宰相の礼服を着る男。──神崎玲。
アドラム王の夢が描いた二人の男は、明らかに稜と神崎だった。──そして稜の革の手帳は、前世から異世界に持ち込まれたものだった。──三十六年前のアドラム王はまだ稜が前世で存在していた時代の前から、未来の二人の異邦人の姿を夢で見ていた。
─── ─── ───
稜は、続きを読んだ。
──「稜殿。──私はその夢を宰相カスパルにだけ告げました。──宰相は、私の言葉を信じました。そしていつか孫レオンの代でこの書を稜殿のお手元に届けると、約束してくださった」
「──その夢の後、私はいくつかの調査を始めました。──千年の予言の存在。──六百五十年前のトルメアスの時代の伝承。──そしてヴァランディン家、ライヘンバッハ家、トレスト家の三つの家系の意味」
「──しかし私の人生では、その全貌は明らかになりませんでした。私は四十六歳で、原因不明の病で亡くなる予定です。──医者は、私の心臓の異常に最近気付き始めています」
稜の目が、文字の上で止まった。
(──アドラム王。──ご自身のお死を予感されていた)
「──私の死後、息子ヴィルフレッドが王位を継ぎます。──ヴィルフレッドは、独立戦争を成し遂げる強い王になるでしょう。──しかしヴィルフレッドの代ではまだ千年の歪みの本当の姿は、明らかにならないでしょう」
「──孫レオンの代。──ヴィルフレッドの息子の代で、二人の異邦人がアウリオンの王宮に到着し、千年の歪みを書き直す」
「──稜殿。──あなたが、その『一人』であります」
稜の手が、ランプの光の下でまだ震えていた。
─── ─── ───
書簡は、続いていた。
──「稜殿。──私からあなたへ、一つだけ、お伝えしたいことがあります」
「──それは、夢の中でもう一つ受け取ったメッセージです」
「──二人の男は、互いに嵌めあい、嵌められ、最後に再会する」
稜の目が、その一行で止まった。
「──互いに嵌めあい、嵌められ、最後に再会する」
(──玲。──お前との二年前のあの最後の夜。──そして二年半前の月の庭の再会)
アドラム王の夢の中の予言は、稜と神崎の前世の最後の三週間と、異世界での再会の構造を正確に予感していた。──三十六年前の前々王が。──稜と神崎がまだ前世の若者だった頃から。
稜は、書簡の最後の数行を読んだ。
──「稜殿。──二人の男の出会いは、偶然ではありません。──千年前のトルメアスの時代の最も深い場所である二人の魂が、千年後の二人の男に転生する設計が組まれていました」
「──その設計の最も深い層は、私の知るところではありません。──しかしあなたが、孫レオンの代で、神崎宰相と再会する時、その層はあなた自身の手で、徐々に明らかになるでしょう」
「──私は、その日まで生きることはできません。──しかしあなたが私の言葉を読まれる時、私はあなたを夢の中の二人の男の一人として、見つめ続けています」
「──三十六年前のアウレリアの春。アドラム王より」
稜は、最後の一行を読み終えた。──そして書簡をゆっくりと机の上に置いた。
書斎の中で、ランプの炎が静かに揺れていた。
─── ─── ───
稜は長く沈黙した。
──三十六年前、アドラム王が夢の中で、未来の二人の異邦人の姿を見た。
──三十五年前、フリードリヒ二世皇帝が、アドラム王毒殺の指示書をハインツ・トレストに送った。
──二年前、神崎が稜を嵌めた。
──二年半前、稜と神崎が異世界に転生した。
──二ヶ月半前、稜と神崎が月の庭で再会した。
全ての出来事が、千年前のトルメアスの時代の予言の中で、既に組まれていた。──そして三十六年前、アドラム王はその予言の一部を夢の中で受け取り、宰相カスパルに託した。──カスパルは四十年、その書簡を守り続けた。──そして今夜、稜の手元に届いた。
稜は、机の上の書簡をもう一度見た。
──「二人の男は、互いに嵌めあい、嵌められ、最後に再会する」
(──玲。──二年前のあの夜、お前が俺を嵌めた。──しかしお前自身も、千年前の予言の中で、そう動かされていた)
稜は、ランプの炎の下で、長く目を閉じた。
─── ─── ───
そして稜はふと、机の引き出しからもう一枚の古い紙を取り出した。
──玄一郎先生の写真立ての裏の紋章のスケッチ。
玄一郎先生。──稜の前世の祖父。──もう三十年前に亡くなった。──しかし玄一郎先生の写真立てを稜は前世の自分の書斎に飾っていた。──そして異世界に転生する前夜、稜は写真立ての裏に、奇妙な紋章があるのに、初めて気付いた。
紋章は、千年前のアウレリアの古い文字に似ていた。──しかし稜は、当時その意味を知らなかった。
そして異世界に来てから、稜は何度かこの紋章を自分の革の手帳の中にスケッチして残していた。──いずれ、千年の歪みを書き直す時にこの紋章の意味が明らかになるはずだ、と予感していた。
稜は、紋章のスケッチを机の上に置いた。──そしてアドラム王の書簡の隣に並べた。
そして気付いた。
──書簡の上部の赤い封蝋の図柄と、玄一郎先生の写真立ての裏の紋章が、似ていた。
完全に同じではない。──しかし基本的な構造は、同じ古い文字の系統。──六百五十年前のトルメアスの時代の文字。──そして千年前のアドレアン・ザラフの時代の文字。
稜の息が、止まった。
(──玄一郎先生。──あなたは、千年前のトルメアスの時代に繋がる何かをお持ちだった)
──玄一郎先生。──稜の前世の祖父。──もしかすると、玄一郎先生もまた、千年前の予言の構造の中である役を演じていたのか。──稜と神崎を異世界に送る役を。
稜は深く息を細く吐いた。
(──まだ分からない。──しかし、玄一郎先生についてもう一度調べる必要がある)
─── ─── ───
夜、十一時。
稜は、アドラム王の書簡を慎重に折り直した。──そして革の手帳の最初の頁の裏に、再び挟んだ。──玄一郎先生の紋章のスケッチも、その隣に並べた。
六枚の紙。──セレネの覚悟、クロヴィスの判断、フィオナの最期の言葉、フリードリヒ二世皇帝の三十五年前の書簡の写し、アドラム王の三十六年前の書簡、そして玄一郎先生の紋章のスケッチ。
六つの符合が、稜の革の手帳の中で並んでいた。
稜は、ランプの炎を吹き消した。
──しかし窓の外から、緑陰月の月の青白い光が、書斎の中に静かに流れ込んでいた。──月光が、机の上の革の手帳を淡く照らしていた。
稜は窓辺に立った。
──遠くで、王宮の塔の旗が、夜の風に静かに揺れていた。──二つの旗。──ハーゲン帝国の双頭の鷲と、アウレリア王国の金の鷲と銀の剣。
(──玲。──三十六年前の前々王が、お前と俺の姿を夢の中で見ておられた)
稜は深く目を閉じた。
──そして低く呟いた。
「玲。──俺たちの再会は、偶然ではなかった」
書斎の窓の外で、夏の夜の風が一度静かに塔を渡っていった。──そして月光が、机の上の革の手帳を変わらず淡く照らしていた。
──七日後、レオン王が議会で千年の本当の姿を開示する。──しかしその日までに、稜は神崎に今夜の発見を密書で伝える必要がある。──三十六年前のアドラム王の書簡。──そして玄一郎先生の紋章。
稜は、机に戻った。──そして新しい羊皮紙を取り出した。──神崎玲への、夜の密書をこれから書き始める。
三十六年前のアドラム王の書簡、ついに開封できました。
夢の中で見た「四十代の二人の東洋人の男」——稜と神崎。
ここまでの全ての伏線が、この一通の書簡で繋がります。
書きながら自分でも、長い旅の手応えを感じました。




