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母の食堂

 夕刻、午後六時。

 グスタフ執事が、稜を王宮の北棟へ案内した。

 北棟は、王と王妃の私的な居所。──謁見の間や議会の南棟、執務室の東棟とは違い、王の家族の生活の場。──廊下は石の床ではなく、温かみのある木の床。──壁には、家族の小さな肖像画。──緑陰月の夕方の光が、木の床に金色の縞を作っていた。

 グスタフは、廊下の一つの扉の前で立ち止まった。

 「稜殿。──こちらでございます」

 扉は、白い樫の木。──表面に、小さな繊細な彫刻。──蔓と葉の模様。──エリナ前王妃が、自ら選んで彫らせたデザイン。

 グスタフが扉を開けた。

 稜は、その部屋に入った。

 ──その瞬間、稜は息を細く吸った。

            ─── ─── ───

 部屋。

 エリナ前王妃の食堂。──五年前、エリナが毒殺された後、閉ざされていた部屋。──しかし今夜、レオン王がここで稜を迎えるために、グスタフ執事が一日かけて整えた。

 部屋は、思ったより広くはなかった。──家族が日常的に食事をするための、温かな食堂。──中央に楕円形の楢の机。──六人掛け。──しかし今夜は、二つの椅子しか置かれていない。──向かい合わせに、一つずつ。

 机の上に、白い絹のテーブルクロス。──二つの白い陶器の皿。──二つのワイングラス。──そして中央に、小さな花瓶。──緑陰月の白い忘れな草が、五輪、活けられていた。

 ──忘れな草。

 アウレリア王家の象徴の花。──そしてエリナ前王妃が生前、最も愛した花。──稜は、その忘れな草を見つめた。

 部屋の壁の一面に、大きな窓。──西側の窓。──夕日が、地平線に沈もうとしていた。──金色の光が、食堂の中に長い影を作っていた。

 そして窓辺に、レオン王が立っていた。

 三十三歳。──しかし朝の謁見の間で見た王ではなく、簡素な装いに着替えていた。──白いシャツ、藍色の上衣、茶色のズボン。──王の礼装ではなく、母の食堂に立つ一人の息子として。

 レオン王が、稜の方を振り返った。

 「稜」

 王の声は、朝より柔らかかった。

 「──来てくれて、ありがとう」

 稜は深く頭を下げた。

 「陛下。──お招きいただき、光栄でございます」

 レオン王は、わずかに微笑んだ。

 「ここでは、陛下と呼ぶのはやめてくれないか。──ここは、母上の食堂だ。母上は、ここで私を『レオン』と呼んでいた。──だから、稜にも、私を『レオン』と呼んでほしい」

 稜は静かにレオン王を見つめた。

 三十三歳の王。──朝の謁見の間で「私は、もう待たない」と覚悟を述べた王。──しかし夕方の母の食堂で、母に呼ばれた名で呼ばれることを稜に頼んでいる。──五年間、誰の前でも王として立ち続けてきた男が、今夜だけ、信頼する参謀の前で素顔を見せる瞬間。

 (──陛下。──いや、レオン)

 稜は静かに頷いた。

 「レオン様。──分かりました」

 レオン王は、わずかに微笑んだ。──朝の謁見の間では見られなかった、五年ぶりに母の食堂で見せる王の素顔。

            ─── ─── ───

 二人は机に向かい合って座った。

 グスタフ執事と一人の若い給仕が、料理を運んできた。──簡素な食事。──スープ、白い魚の焼き物、夏野菜のサラダ、そして黒いライ麦パン。──しかし全ての料理が、丁寧に用意されていた。

 「稜。──母上は、こういう簡素な食事を好まれた。──王宮の正式な晩餐ではなく、家族だけの夕食。──質素だが温かい料理」

 レオン王は、スプーンでスープを一口飲んだ。

 稜も、スープを飲んだ。──白いきのこのスープ。──塩は控えめ、ハーブの香りが優しい。──エリナ前王妃の好みが、五年経っても王宮の料理人の手に残っていた。

 「美味しゅうございます」

 稜は静かに告げた。

 レオン王はわずかに笑った。

 「料理人のミレナ。──母上の代から仕えてくれている。──母上が亡くなった後も、母上の好みの料理を私のために作り続けてくれている」

 稜はわずかに頭を下げた。

 「ミレナ殿の、誠実なお心を感じます」

 レオン王は静かに頷いた。

 しばらく、二人は無言で食事を続けた。──夕日が、徐々に窓の外で沈みつつあった。──食堂の中の光が、金色から橙色に変わっていった。──グスタフが、机の上の二本の蝋燭に火を入れた。

            ─── ─── ───

 料理が、最後の一皿になった頃。

 レオン王がふと低い声で口を開いた。

 「稜」

 稜はスプーンを置いた。

 「はい、レオン様」

 「──母上は、毒を盛られて亡くなった」

 稜は静かに王を見つめた。

 ──部屋の空気が、わずかに変わった。──しかし稜は、驚かなかった。──過去の調査で、エリナ前王妃の死の事の核心は、既に九人の同志の間で確認されていた。──ハーゲン帝国のトレスト家、マルガレーテ・トレストが、五年前に毒を調合し、サルマティア経由でアウリオンに送った。──そしてトレスト家とハーゲン皇室の千年の繋がりの中で、エリナ前王妃は王家の改革派の女性として、毒殺の対象になった。

 しかしレオン王が、母の死の事の核心を知ったのは、いつだったのか。──稜は、それを知らなかった。

 レオン王は続けた。

 「セレネが、二週間前にヴェルデンから戻ってきた時、私に教えてくれた。──母上の死の真相、毒を調合した人物、毒を送った経路。──全てを妹は私に告げた」

 稜は静かに頷いた。

 (──セレネ殿下が。──ヴィスカルト殿下と共に、十六歳の自分の覚悟を整えた後、弟王に真相を共有された)

 「私は、最初は、激しい怒りを感じた」

 レオン王の声は、震えていた。──しかし涙は、流していなかった。──三十三歳の王が、五年間養ってきた感情の制御を、ここでも保っていた。

 「母上を殺した者を私は許せない、と思った。──マルガレーテという女を処刑にすべきだ、と思った。──妹も、最初は同じように怒りを感じたと、私に告げた。しかし妹は、ヴィスカルト殿下と語る中で、別の感情に至ったと、私に共有してくれた」

 「──怒りではなく、千年の歪みの構造への、悲しみ」

 稜は深く頷いた。

 (──セレネ殿下の覚悟。──十六歳の妹が、兄王に、深いものを伝えてくださった)

            ─── ─── ───

 レオン王は、ワイングラスに少し手を伸ばした。──しかし飲まなかった。──王の手が、グラスの縁に触れただけで戻った。──考え事の途中の動作。

 「稜」

 「はい、レオン様」

 「──私は、二週間、考えた」

 レオン王の声は、低かった。

 「母上を殺した者を許すべきか。──許さなくてもよいのか。──しかし、許すか許さないかの問い自体が、千年の歪みの中の問いではないか、と私は気付いた」

 稜の目が、わずかに動いた。

 「レオン様。──許すか許さないかの問い自体が」

 レオン王は静かに頷いた。

 「マルガレーテという女が、母上を殺した。──しかしマルガレーテは、千年の歪みの構造の中で、毒を調合する家に生まれた女だった。──母上もまた、千年の歪みを止めようとしたために、対象になった。──二人の女は、千年の歪みの中で、それぞれの役を演じさせられた」

 「私が、マルガレーテを処刑することは、千年の歪みの中の『仕返し』でしかない。──しかし、母上を殺した者を許すことは、母上への裏切りになる気がする」

 レオン王は続けた。

 「──だから、私は、許すか許さないかの問いを降ろした。──私は、母上の死を千年の歪みの構造の終わりの始まりとして、受容する」

 「マルガレーテは、ハーゲン帝国の法廷で、別の罪で裁かれることになっている。私は、そこに自分の意志を加えない。──私の意志は、千年の歪みを終わらせることに、向ける」

 稜は長くレオン王を見つめた。

 (──陛下が、二週間で、ここまで深いところに到達された。──セレネ殿下の伝え方が、見事だった。──そしてレオン様ご自身が、これだけの深さを宿しておられる)

 稜は深く頭を下げた。

 「レオン様。──ご決意の深さに、私は敬意を覚えます」

 レオン王はわずかに微笑んだ。

 「稜。──妹も、同じことを私に告げてくれた」

            ─── ─── ───

 夕日が、完全に窓の外で沈んだ。

 食堂の中の光は、二本の蝋燭の橙色だけになった。──炎が、机の上のテーブルクロスに、淡い光の波を作っていた。

 グスタフ執事が、デザートを運んできた。──緑陰月の白い苺。──小さな白い陶器の皿に、五粒ずつ。──そして黒い蜂蜜が、皿の脇に小さな容器で添えられていた。

 「母上が好まれた、夏の終わりのデザート」

 レオン王が静かに告げた。

 稜は、白い苺を一粒、口に運んだ。──酸味と甘さが、舌の上で柔らかく溶けた。

 「──美味しゅうございます」

 レオン王は、頷いた。

 そしてふと稜を見た。

 「稜。──七日後の議会の前にもう一つ、私から相談したいことがある」

 稜は静かに王を見つめた。

 「私は、議会で千年の事の核心を議員五十名の前で開示する。──しかし、私の演説の中に、母上の死をどう位置づけるべきかまだ判断がついていない」

 「母上の死を議会の場で公に語ることは、議員たちにとって衝撃が大きい。──しかし母上の死を語らなければ、千年の歪みの具体的な姿が、議員たちに伝わらない可能性がある」

 レオン王は続けた。

 「稜。──私は、参謀のあなたの意見を聞きたい。──母上の死を議会で語るべきか、否か」

 稜は長く考えた。

 ──父を殺された娘エリカ・ライヘンバッハが、二十年の調査の末に、母の死をハーゲン帝国の元老院で初めて公に語った場面。──娘がノートに記録した二十年の証拠を五十名の議員の前で読み上げた瞬間。──議員たちは、衝撃を受けながらも、千年の歪みの具体的な姿を初めて理解した。

 そしてフィオナ。──三ヶ月前に父の死を霧峰の古戦場で公に受容した姿。──「私、怒らない。許さない、けど、怒らない」。──公的な場での、被害者の家族の覚悟の表明。

 「レオン様」

 稜は静かに口を開いた。

 「──陛下が母上のお死を議会で語られる、それは陛下の議会での演説の最も深い場面になります」

 レオン王は、稜を見つめた。

 「ただし、語り方には、ご注意が必要です。──母上を殺した者への怒りや復讐ではなく、陛下が二週間でたどり着かれた『受容』の姿勢を議員の前で表明する。──そうすれば母上のお死は、千年の歪みの具体的な証拠として、しかし新しい時代の精神性の象徴として、議員五十名の心に届きます」

 レオン王は長く稜を見つめた。

 そして静かに頷いた。

 「稜。──分かった。──私は、母上の死を議会で語る。──しかし、怒りではなく、受容として」

 稜は深く頭を下げた。

            ─── ─── ───

 夕食が終わった頃。

 グスタフ執事が、稜を見送りに北棟の廊下まで案内した。──しかしレオン王は、食堂の入り口で稜を送った。

 「稜。──今夜は、ありがとう」

 レオン王は静かに告げた。

 「──また、議会の前にもう一度こうして食事ができればと思う」

 稜は深く頭を下げた。

 「レオン様。──こちらこそ、貴重な夜をありがとうございました」

 グスタフ執事が、稜を北棟の出口まで案内した。

 王宮の長い廊下を歩きながら、稜は革の手帳をまだ懐から取り出していなかった。──食堂の中で、アドラム王の三十六年前の書簡を王の前で開封しなかった。──王は、母の死をどう議会で語るかという、最も重い問いに集中していた。──そこに、三十六年前のお祖父様の書簡を加えるのは今夜は早すぎた。

 (──書簡は、私が一人で先に開封する。──そして内容を確認した上で、ふさわしい場面でレオン様にお渡しする)

 稜は、王宮の北棟を出た。

 緑陰月の夜空が、王宮の中庭の上に広がっていた。──月はわずかに欠け始めていた。──しかし星は、無数に輝いていた。

 稜は、自分の書斎へと向かった。──書斎の机の上で、アドラム王の三十六年前の書簡の封を今夜、一人で解く。

 ──廊下の窓の外で、夏の夜の最初の風が、王宮の塔の旗を一度静かに揺らした。

 稜は、革の手帳を懐に戻した。──そして窓辺に立ち、夜の中庭を長く見つめた。──エリナ前王妃の食堂で交わされた言葉が、稜の中で新しい段階の始まりを告げていた。

五年間閉ざされていた母の食堂が、一日かけて整えられる場面。

グスタフ執事の白い忘れな草、二つのキャンドル。

そして「ここでは、レオンと呼んでくれ」のレオン王の言葉。

十一歳の少年と、四十二歳の参謀の、人間としての夕食。

書きながら何度も読み返しました。

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