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四十年の机、最後の整理

 午後二時。

 稜は王宮の宰相執務室の扉の前に立った。

 二ヶ月半ぶりの場所。──二ヶ月半前の契約更新日の早朝、ここでカスパルから千年の属国条約の書類を受け取った。──そして今緑陰月の十日目の日の午後、再びこの扉の前に立っている。

 扉は閉じていた。──しかし内側から、わずかな物音が聞こえた。──羊皮紙が触れ合う音。──そして椅子のかすかな軋み。

 稜は静かにノックした。

 「──稜です」

 しばしの間。──そして低い、しかし力のある声が返ってきた。

 「お入りなさい、稜殿」

 稜は扉を開けた。

            ─── ─── ───

 執務室。

 四十年、カスパル・グラドール宰相が座り続けた部屋。──中央に楢の机、四十年で数百の傷が刻まれた机面。──壁の左右に書架、王家の四十年分の主要書類。──窓辺に小さな茶卓と二脚の椅子。──そして机の奥の壁に、先代ミケランジュ王の小さな肖像画。

 そして机の前にカスパルが座っていた。

 七十二歳。──稜が今朝、謁見の間で見た時よりも、わずかに痩せているように見えた。──王の前で見せていた背筋の真っ直ぐさが、自分の机の前ではほどけていた。──しかし目には、四十年の重みを抱える老人の落ち着きがあった。

 そして机の脇に、抽斗が一つ、引き出されていた。

 最も下の抽斗。──以前、カスパルが整理を始めた、四十年分の小さなものたち。──そして抽斗の中身は、稜が見たことのない状態に整理されていた。──四つの小さな箱に分けられて、それぞれに紙片が貼られていた。

 「ミケランジュ王時代」「ヴィルフレッド王時代」「レオン王時代・前半」「個人」

 四十年分が、四つの時代に分類されていた。

 稜の目が、一瞬その抽斗で止まった。

 (──カスパル殿。──四十年の整理を完了されている)

 カスパルは静かに笑った。──稜の視線に気付いたようだった。

 「稜殿。──恥ずかしい光景をお見せしました。──老人の趣味です。最近、執務の合間に整理が進みました」

 稜は静かに首を横に振った。

 「カスパル殿。──恥ずかしくはございません。むしろ敬意を覚えます」

 カスパルは小さく頷いた。

 抽斗の中で、最も奥の「個人」の箱には、四十年の中でカスパルが何度も折り直したような跡のある書類が、丁寧に紐で束ねられていた。──家族からの書簡か、若い日の自分への手紙か、あるいは特別な人物からの私信か。──稜は、その箱の中身を尋ねなかった。──四十年の老人の最も深い場所は、本人の許しがある時まで触れない。

 「お座りください、稜殿」

 稜は窓辺の小さな椅子に座った。──カスパルもその向かいに移った。──机から離れ、二人だけの茶卓の前で。

 茶卓の上に、二つの白い陶器のカップ。──既に湯気が立っていた。──カスパルが、稜を待つ間に淹れていた。

 (──カスパル殿が、ご自分で)

 カスパルは小さく笑った。

 「四十年、この執務室で茶を淹れてきました。──若いヴァルドに頼むこともできるのです。しかし今日は、自分で淹れたかった。長旅の参謀殿の前に、四十年の宰相の手で淹れた茶を出すのは、これが最後かもしれませんから」

 稜はわずかに目を伏せた。

 (──最後かもしれません、と)

 しかし稜は、そのまま顔を上げた。──四十年の宰相に、若い同情は失礼だった。

 「カスパル殿。──ありがとうございます」

 稜は、湯気の立つ茶を一口飲んだ。──少し強い茶。──以前アルデス公が語っていた通り、ミケランジュ王から四十年前に教わった淹れ方。──強い茶が、宰相の四十年を支えてきた味。

 「美味しゅうございます」

 カスパルは静かに頷いた。

            ─── ─── ───

 しばらく、二人は無言で茶を飲んだ。

 緑陰月の午後の光が、窓辺から執務室に流れ込んでいた。──書架の古い羊皮紙の束に、淡い金色の光が当たっていた。──廊下の方で、若い書記官が二人、何かを話しながら通り過ぎる声が遠く聞こえた。──しかし執務室の中の二人は、静寂の中にいた。

 カスパルがカップを置いた。

 「稜殿。──ヴェルデンでの全任務、お疲れ様でございました。──ヘルマン副宰相から、概要の報告は受けております」

 稜は頷いた。

 「カスパル殿。──ありがとうございます」

 「神崎宰相、ヴィスカルト皇太子殿下、セレネ王女殿下と、書き直しの第二段階の本格的な進行の合意。──二百年の対立構造の表面の奥に、兄弟の国の構造を初めて公的に開示。──結婚の儀の二年後の準備。──そして九人の同志の体制」

 カスパルは静かに続けた。

 「──稜殿の、二ヶ月半でなされた仕事の重みを私は理解しております」

 稜は深く一礼した。

 「カスパル殿。──しかしこの二ヶ月半の進行は私一人の仕事ではございません。神崎宰相、ヴィスカルト皇太子殿下、セレネ王女殿下、四人の弟子、そしてカスパル殿、マテウス院長、アルデス公、オルヴァン将軍。──この国の側でカスパル殿たちがしっかりと足を踏みしめてくださっていたから、私は帝都での前進が許されたのです」

 カスパルは小さく頷いた。

 「稜殿。──そう仰っていただけて、光栄です」

 茶卓の上の二つのカップが、淡い湯気をまだ立てていた。

            ─── ─── ───

 カスパルは少し沈黙した。

 そして低く口を開いた。

 「稜殿。──今日は、私から一つ、お伝えしたいことがあります」

 稜は静かにカスパルを見た。

 「──私の体調のことです」

 カスパルの声は、淡々としていた。──しかし奥にある種の覚悟が宿っていた。

 「マテウス院長から、概要をお聞きでしょうか」

 稜は黙って頷いた。

 「──朝、中庭で。マテウス院長が、心臓のわずかな異常の兆候、と」

 カスパルは静かに頷いた。

 「ミラベル医師が、十日前に最初の所見を持たれました。──そして昨日二度目の診察で、所見が確定しました。──過去四十年の執務の重みが、徐々に身体に現れている。急性の症状ではありません。──しかし長時間の立ち仕事、長時間の集中は徐々に難しくなっていく」

 カスパルは続けた。

 「ミラベル医師は、こう仰いました。『カスパル殿。──一ヶ月後、二ヶ月後の急変は考えにくい。しかし一年後、二年後を考えれば、執務の量を徐々に減らしていくのが望ましい』」

 稜は静かにカスパルを見つめた。

 (──一年、二年。──まだ時間はある。──しかし徐々に減らしていくべき)

 カスパルは小さく笑った。

 「稜殿。──私は、悲観しておりません。──七十二歳まで、四十年宰相を務めて、健康で動けています。──これは、十分に幸運な人生でした」

 稜は丁寧に一礼した。

 「カスパル殿。──幸運という表現が、四十年の宰相にお似合いになるかどうか、私には判断しかねます。──しかし、お元気でいらっしゃることに、私も深く感謝いたします」

 カスパルは小さく頷いた。

            ─── ─── ───

 カスパルは茶のカップにもう一度手を伸ばした。

 ──しかしカップを取る手が、ほんのわずかに震えていた。

 稜の目はそれを見た。──しかし指摘しなかった。──四十年の宰相が、自分の身体の限界を最もよく知っている。──それを若い参謀が言葉にすることは、敬意の欠落になる。

 カスパルは静かに茶を一口飲んだ。──そしてカップを置いた。──手は、再び茶卓の上で静止した。

 ──執務室の窓辺で、緑陰月の風が一度カーテンを軽く揺らした。──葉萌月から緑陰月への変わり目の温かい風。──四十年、カスパルがこの執務室で経験した夏の風と、おそらく同じ温度。

 「稜殿。──七日後、レオン陛下が議会で、千年の事の核心を議員五十名の前で開示なさる」

 稜は黙って頷いた。

 「私は、その議会の場に、立ち会います」

 カスパルの声は、しっかりとしていた。

 「四十年の宰相として、レオン陛下の最初の歴史的瞬間に、立ち会う。──私の最後の公的な大きな役目です」

 稜の目が、わずかに動いた。

 「カスパル殿。──最後の、大きな役目」

 カスパルは深く頷いた。

 「稜殿。──七日後の議会の後、私は徐々に執務の量を減らしていきます。──ヴァルド書記官長が、徐々に宰相の業務を引き継いでいく。──そしておそらく半年から一年の中で、私は正式に宰相の職を退くでしょう」

 「ヴァルドが新しい宰相に」

 カスパルは黙って頷いた。

 「しかしまだそれは、半年か一年先の話です。──七日後の議会では、私はまだ宰相として、王の隣に立つ。──それが、四十年の最後の公的な大舞台です」

 稜は深く一礼した。

 「カスパル殿。──陛下の最初の歴史的瞬間に、四十年の宰相が立ち会う。──陛下にとっても、議員たちにとっても、千年の歴史にとっても、最も望ましい姿です」

 カスパルは小さく笑った。

 「稜殿。──そう仰っていただけて、心が軽くなります」

            ─── ─── ───

 しばらく、二人は再び無言で茶を飲んだ。

 緑陰月の午後の光が、徐々に傾き始めていた。──執務室の窓辺の影が、わずかに長くなりつつあった。

 カスパルがふと机の方を見た。

 そして机の脇の、引き出されたままの抽斗を見た。

 「稜殿。──実はもう一つお願いしたいことがあります」

 稜はカスパルを見た。

 「──私の四十年の整理の中で、一つの書類を稜殿に託したいのです」

 カスパルは立ち上がった。──ゆっくりと机に向かって歩いた。──そして抽斗の「個人」と書かれた箱から古い羊皮紙を一枚取り出した。

 茶卓に戻ってきた。

 「こちらです」

 カスパルは羊皮紙を茶卓の上に置いた。

 古い羊皮紙。──しかし保存状態は良かった。──折り目が一つ、中央に。──そして上部に小さな赤い封蝋の痕跡。

 稜はその羊皮紙を静かに広げた。

 そして文字を読んだ。

 最初の数行を読んで、稜の息が止まった。

 「──三十五年前の、王」

 稜は低く呟いた。

 「アドラム王の、ご手書きですか」

 カスパルは静かに頷いた。

 「アドラム王ご即位の翌年、王が私に直接書かれた書簡です。──三十六年前。──私が三十六歳、宰相になって四年目の年」

 稜は羊皮紙の文字をもう一度見た。

 アウレリア王国の前々王、アドラム王の若い字。──そして一行目の文。

 「──我が宰相カスパルへ。我が孫、レオンが王位に就く頃、この書を稜殿という参謀に渡してほしい」

 稜の息がもう一度止まった。

 「──カスパル殿」

 稜は低く尋ねた。

 「この書簡の、続きは」

 カスパルは静かに首を横に振った。

 「稜殿。──それは、私も読んでおりません。──封の下の本文は、稜殿への私信です。──三十六年前の王が、千年の歪みの構造を既に知っておられた可能性があります。──そして二人の異邦人の到来を既に予感されていた可能性があります」

 「──私の役目は、この書簡を四十年の中で守り続け、稜殿のお手元に届けることでした」

 稜は長くカスパルを見つめた。

 (──三十六年前のアドラム王が、私への書簡を残されていた。──そしてカスパル殿は四十年、それを守り続けてくださった)

 稜は深く頭を下げた。

 「カスパル殿。──四十年の重みを今私の手元に渡してくださる。──ありがとうございます」

 カスパルは小さく笑った。

 「稜殿。──私の四十年の重みの、一つの形です。──残りの重みはこれからヴァルドに託していきます」

 稜は、羊皮紙を慎重に折り直した。──そして革の手帳の最初の頁の裏に、他の四枚の紙と並べて挟んだ。

 (──五枚目の紙。──アドラム王の三十六年前の書簡)

            ─── ─── ───

 午後の光が、執務室の窓辺で、より長い影を作り始めていた。

 稜は茶のカップを置いた。

 「カスパル殿。──今日は、ありがとうございました」

 カスパルは静かに頷いた。

 「稜殿。──こちらこそ。──四十年の老体に、こうして同じ茶卓で茶を飲む若い参謀がいてくださること、私は本当に幸運です」

 稜は立ち上がった。

 そしてカスパルの前で、静かに頭を下げた。

 「カスパル殿。──四十年、本当にお疲れ様でした。──しかしまだ七日後の議会という大役が残っております。──その日まで、お体をどうぞ大切になさってください」

 カスパルも立ち上がった。──しかし、立ち上がる動作が、稜より遅かった。──茶卓の縁に手を添えて、ゆっくりと。

 「稜殿。──ご心配、痛み入ります」

 二人は執務室の扉の前で、再び一礼を交わした。

 稜は扉を開けて、廊下に出た。

 扉が静かに閉まった。

            ─── ─── ───

 廊下を歩きながら、稜は革の手帳を懐から取り出した。

 そして最初の頁の裏に挟んだ五枚の紙を廊下の窓辺の光の下で確認した。

 セレネの覚悟。──クロヴィスの判断の草案。──フィオナの最期の言葉。──三十五年前のフリードリヒ二世皇帝の書簡の写し。──そして今五枚目に加わったアドラム王の三十六年前の書簡。

 (──三十五年前と、三十六年前。──二つの書簡が、私の手元に並ぶ)

 アウレリアの前々王と、ハーゲン帝国の前皇帝。──両国の王が、それぞれの時代に、稜という未来の参謀に向けて何かを残していた。──この符合は偶然ではない。──千年の予言の構造の中で、二つの王が同じ時期に、二人の異邦人の到来を予感していた。

 稜は窓の外の中庭を見た。

 緑陰月の午後の光が、噴水の水を金色に照らしていた。

 ──そしてふと、稜の胸の中で、一つの予感が動いた。

 (──アドラム王の書簡。──三十六年前。──まだ封を解いていない。──今夜レオン陛下と母エリナ前王妃の食堂で夕食を共にする。──食堂で、王の前でこの書簡を開封するのが、最も望ましい場面なのかもしれない)

 稜は手帳を閉じた。

 そして廊下を自分の書斎の方角に歩き始めた。──夕食まで、あと三時間。──その間に、アドラム王の書簡を開封するか、王の前で初めて開封するかを判断する必要がある。

 ──廊下の窓の外で、夏の風が一度木の葉を揺らした。

 稜の心の中で、四十年の重みが静かに動いていた。──カスパルの最後の段階を、自分が支えきれるか。──その問いの答えは、まだ稜自身にも見えていなかった。

カスパル宰相の四十年分の抽斗、四つの箱に整理されている光景。

書きながら、自分も執務室にいる気持ちでした。

七十二歳の老宰相が、過去の自分の四十年を四つの時代区分で並べる姿。

カスパルさんの最後の章が、ここから静かに始まります。

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