アウリオンの二つの旗
北街道の最後の丘を越えた瞬間、馬車の中で稜は窓の外を見た。
緑陰月の十日目の朝。葉萌月の最終日にヴェルデンを発って、十日。クロヴィスと共に北街道をひたすら進んできた。サルマティアの草原を越え、霧峰の谷間を抜け、アウレリア王国の北の関門を過ぎ、最後の三日でアウリオン近郊の丘陵地帯に入った。
丘の上から、王都が見えた。
城壁の内側に、白い石造りの建物群。中央に王宮の塔。塔は朝日を受けて、淡い金色に光っていた。
稜の目が、塔の頂きで止まった。
二つの旗が、並んで掲げられていた。
左にアウレリア王国の金の鷲と銀の剣。──稜が転生してから二年半、ずっと同じ場所に掲げられてきた旗。──しかし右にもう一つの旗があった。ハーゲン帝国の双頭の鷲。──属国の時代には、決して並んで掲げられなかった旗。
二つの旗が、同等の高さで朝日を受けていた。
(──二つの旗が、ここにも掲げられている)
ヴェルデンの皇宮の塔で約二週間前に並んだ旗の光景が、稜の胸の中で重なった。──二百年の対立の歴史で初めての光景。──そしてアウリオンの塔でも、稜とクロヴィスがヴェルデンに滞在している間に、レオン王が同じ並びを命じていた。
稜は深く息を吐いた。
「クロヴィス」
馬車の向かいの椅子で、クロヴィスが目を上げた。
「──戻ってきたぞ」
クロヴィスは窓の外を見た。──そして、塔の上の二つの旗を見た瞬間、十六歳の若い目に深い光が宿った。
「師匠。──二つの旗です」
「ああ」
稜は塔を見つめ続けた。
(──レオン王。──三十三歳の王が、独自の判断でこれを命じた)
─── ─── ───
馬車は王宮の西門の前で止まった。
衛兵が二人、深く一礼した。──稜とクロヴィスを見ると、彼らの目に安堵の光が宿った。
「稜殿、クロヴィス殿。──ご帰還、お待ちしておりました」
稜は短く頷いた。
「ご苦労」
門が開いた。
馬車を降りて、王宮の大きな中庭に入った。──緑陰月の朝の光が、石畳に長い影を作っていた。中央の噴水の周りに、若葉月から続く忘れな草の青がまだ咲き残っていた。
そして噴水の前に、人影があった。
グスタフ執事、五十二歳。──稜がアウリオンに到着した最初の日から仕える、王宮の家令。──そしてその隣にもう一人の人影。
マテウス院長、七十代。──深い青い目。──冥書庫を五十年守ってきた男。──しかし普段、王宮の中庭で稜を出迎えることはない。
(──マテウス殿が、ここに)
稜はわずかに足を速めた。
グスタフ執事が深く一礼した。
「稜殿、クロヴィス殿。──ご帰還、おめでとうございます。レオン陛下が、王宮の謁見の間で、お待ちでいらっしゃいます」
稜は頷いた。
そしてマテウス院長を見た。
「マテウス殿。──朝、ここでお会いするのは珍しい」
マテウスは静かに頷いた。──しかし目に、何か重いものが宿っていた。
「稜殿。──謁見の前に、一つお伝えしたいことがあります」
稜は静かにマテウスの目を見た。
「──カスパル殿のことです」
─── ─── ───
マテウスは稜とクロヴィスを噴水の隣の小さな東屋に導いた。
白い石の柱、四本。屋根は伝統的なアウレリア式の青い瓦。中央に小さな石の卓。三人で立って話せる程度の広さ。──朝の早い時間、誰も訪れない場所。
マテウスは石の卓に手を添えた。
「稜殿。──カスパル殿の体調が、ここ十日、少し優れません」
稜は息を細く吐いた。
「具体的には」
「──緑陰月の最初の日から、ミラベル医師が三度、王宮の宰相執務室を訪問されています。最初は風邪のような症状。しかし二度目、三度目の診察で、ミラベル医師は別の所見を持たれました」
マテウスは低く続けた。
「心臓に、わずかな異常の兆候。──七十二歳のお年で、過去四十年の宰相としての執務の重みが、徐々に身体に現れているようです」
稜は長くマテウスを見た。
(──カスパル殿。──四十年の執務の重み)
クロヴィスが横で、わずかに目を伏せた。──祖父ルクレティウスを五歳で失った若き書記官。──同じ世代の重みを別の老人の身体に重ねていた。
「マテウス殿。──カスパル殿は、現在は」
「執務室で、座って書類を整理されています。──しかしここ十日、立ち上がる頻度が減っております。書類を取りに自ら書架まで歩く動作を若いヴァルド殿に頼まれることが増えました」
稜は黙って頷いた。
マテウスは続けた。
「カスパル殿は、稜殿のご帰還を心待ちにされています。──しかし御用は急いでいない、と何度もおっしゃいます。『稜殿は長い旅でお疲れだろう。一日ゆっくり休まれてから、私の執務室を訪ねていただきたい』と」
(──カスパル殿らしい)
稜は微かに笑った。──四十年の宰相の、どこまでも他者を優先する性格。──しかしその性格こそが、四十年の重みを背負わせた根源でもある。
「マテウス殿。──ありがとうございます。──謁見の後、まず私はカスパル殿の執務室を訪ねます」
マテウスは静かに頷いた。
「稜殿。──そうしていただけると、カスパル殿も安心されると思います」
稜は腰を折った。
マテウスとグスタフ執事は、稜とクロヴィスを謁見の間に案内するため、東屋を出た。
─── ─── ───
謁見の間。
王宮の南棟、最も広い空間。天井は高く、左右の壁に過去の歴代王の肖像画が二十枚並んでいた。最も奥の壁に、現在の王──レオン・アウレリア──の肖像画。三十三歳の王。即位から五年で描かれたばかりの絵。
そして玉座。
白い大理石。背もたれに、金の鷲と銀の剣の彫刻。──アウレリア王家の象徴。
玉座の前に、レオン王が立っていた。
三十三歳。──武芸を学んだ体つきは、即位五年の重みを宿していた。──稜が二ヶ月半前にアウリオンを離れた時から、その立ち姿に新しい重みが宿っていた。──二ヶ月半の独立直後の王国の最初の運営の経験。
王の隣に、ヘルマン副宰相──いや、現在は宰相代理。──四十五歳。神崎の三人の弟子の一人。三ヶ月前に稜と共に九人の同志となった人物。──稜が帝都に滞在していた間、ヘルマンはアウリオンに戻り、カスパル宰相の補佐をしていた。
そして玉座の反対側に、セレネ王女ではなく──カスパル・グラドール宰相、七十二歳。──執務室で待つと聞いていたが、王の謁見の場には立ち会っていた。
稜の目が、カスパルを見つめた。
(──カスパル殿。──やはり立ち会われた)
カスパルの背筋は、いつもの通り真っ直ぐに伸びていた。──しかし稜の目は気付いた。──カスパルの右手が、玉座の側面の手すりに、わずかに触れていた。──普段は触れない位置。──支えなしでは長く立っているのが辛いのか。
稜は深く頭を下げた。
「レオン陛下。──ハーゲン帝国からの、ご帰還の挨拶を申し上げます」
クロヴィスも、横で頭を下げた。
レオン王の目が、稜を見つめた。──三十三歳の王の目。──しかし二ヶ月半前にアウリオンを発った稜が見た目とは、何か別の光が宿っていた。
「稜」
レオン王の声は、即位五年の落ち着きを宿した低い声だった。──しかし奥に、新しい段階の覚悟が宿っていた。
「──ご帰還、心より歓迎する。長旅のご苦労、痛み入る」
稜はもう一度頭を下げた。
「陛下。──ヴェルデンでの全任務、無事完了いたしました。神崎宰相、ヴィスカルト皇太子殿下、セレネ王女殿下と共に、千年の歪みの書き直しの第二段階を本格的に開始する道筋を整えて参りました」
レオン王はわずかに頷いた。
「稜。──書き直しの全貌を後ほど私に詳細に共有してほしい。──しかしまず私自身の決意をあなたに伝えたい」
稜は黙って王を見つめた。
(──陛下。──ご決意)
─── ─── ───
レオン王は、玉座から一歩離れた。
──そして稜の前まで歩いてきた。王の足音が、謁見の間の石の床に小さく響いた。──ヘルマン副宰相とカスパル宰相がわずかに目を見合わせた。──しかし二人とも王の動きを止めなかった。
レオン王は、稜の前で立ち止まった。
「稜」
王の声はわずかに震えていた。──しかし目は、稜の目をまっすぐ見つめていた。
「──私は、もう待たない」
稜の息が、止まった。
「神崎宰相が、葉萌月十八日目、ハーゲン帝国の元老院で、千年の計画の構造を初めて公的に開示された。──そしてヴィスカルト皇太子殿下と新しい秩序の設計を共に議論する宣言をされた」
レオン王は続けた。
「私もまた、アウレリア王国の議会で、同じ宣言をする」
稜は深く息を吐いた。──三十三歳の王が、自分の言葉で、王としての覚悟を述べていた。
「陛下。──いつ」
「──七日後」
稜の目が、わずかに大きくなった。
「七日、ですか」
「七日だ」
レオン王は、再び低い声で繰り返した。
「カスパル宰相と、ヘルマン副宰相と、相談した。──七日後、議会の年次招集の予定がある。その場で、私が初めて千年の真相を議員五十名の前で開示する。──稜の準備の時間として、七日。十分か」
稜は長くレオン王を見つめた。
(──陛下が、独自に七日後を決めた。──そしてそれは、十分な時間だ)
稜は丁寧に一礼した。
「陛下。──七日、十分でございます」
レオン王はわずかに頷いた。
そして玉座に戻った。──しかし戻る途中、王の歩みが一瞬遅くなった。──稜の目はそれに気付いた。──三十三歳の王が、自分の決意を口にした直後の、わずかな緊張の解放。──王が覚悟を伝え終えた瞬間の、人間としての疲れ。
玉座に座り直したレオン王は一度息を吐いた。
そして再び稜を見た。
「稜」
「はい」
「──七日後の議会の前に、私ともう一度長く話してほしい。今夜の夕食、私と二人で取らないか。──王宮の北棟の、母上の生前の食堂で」
稜の目が、わずかに動いた。
(──陛下のお母様、先王妃の生前の食堂──エリナ前王妃が、五年前に毒殺される前まで使っていた、家族の食堂)
「陛下。──喜んで、伺います」
レオン王はわずかに微笑んだ。──その微笑みには、父王ヴィルフレッドの遺志を継ぐ覚悟と、母エリナの遺志を継ぐ覚悟の、両方が混じっていた。
─── ─── ───
謁見の終わりに、稜はカスパル宰相の前で一礼した。
「カスパル殿。──ご無事のお顔を拝見できて何よりでございます」
カスパルは小さく笑った。──しかし、稜の目は気付いた。──カスパルの笑顔の奥に、過去には見られなかった、わずかな疲労の影。
「稜殿。──長旅、ご苦労でした。──四十年の老体は、最近少し動きが鈍いです。──しかしまだ立ってはおります」
稜は静かに頷いた。
「カスパル殿。──今日、午後にお時間をいただけますか。私は、執務室にお伺いいたします」
カスパルは深く頷いた。
「稜殿。──午後二時、お待ちしております」
稜は深く一礼して、謁見の間を辞した。クロヴィスも続いた。
謁見の間の重い樫の扉が、稜の後ろで閉じられた。
─── ─── ───
王宮の長い廊下を稜は歩いた。
クロヴィスが半歩後ろを歩いていた。
「師匠」
クロヴィスが静かに声をかけた。
「──陛下、変わられましたね」
稜はわずかに頷いた。
「ああ」
「陛下の王としての覚悟が、二ヶ月半前より明確に深くなっておられます」
「カスパル殿とヘルマン殿の補佐、そしてセレネ殿下からの密書のやり取りの結果だろう」
稜は廊下の窓辺で立ち止まった。──中庭の噴水が、朝の光の中で水を上げていた。──忘れな草の青が、噴水の周りで揺れていた。
(──陛下。──独立直後の王国の重みを、よく一人で背負っておられる)
稜は長く息を吐いた。
クロヴィスが、横で静かに尋ねた。
「師匠。──カスパル殿のお体のこと、私たちはどうお支えすればよろしいでしょうか」
稜は窓の外を見つめたまま、答えた。
「クロヴィス。──カスパル殿が望まれることは、おそらく『静かに四十年の役目を次の世代に渡すこと』だろう。──しかし急がせてはいけない。──カスパル殿のお身体の声と、ご本人のお気持ちと、私たちの戦略の進行が、ちょうど良いところで重なる時を待つ」
クロヴィスは深く頷いた。
「師匠。──分かりました」
稜は窓辺を離れた。
王宮の北棟の自分の書斎に向かった。──二ヶ月半ぶりに戻る場所。──机の上には、グスタフ執事が整理した、滞在中に届いていた密書の山が待っているはずだった。
─── ─── ───
書斎に入った。
革張りの椅子、楢の机、壁の書架、窓辺の小さなランプ──全てが、二ヶ月半前と同じ場所にあった。──しかし机の上には、新しく分類された密書の束が、四つに分かれて積まれていた。
グスタフが整理していた。──「アウレリア国内」「ハーゲン帝国」「他国」「個人」の四つの山。
稜は革の手帳を懐から取り出した。──二年半、ずっと持ち歩いてきた手帳。──最初の頁の裏に、二年半で挟んできた数枚の紙が重なっていた。──その中で、特に意味の重い四枚を、稜は順に取り出した。
セレネの覚悟の紙:「私は、道具ではありません。私自身の意志で、立ちます」
クロヴィスの判断の草案の写し:「祖父の沈黙の上に新しい開示を選ぶ」
フィオナの最期の言葉:「アルデス。──千年の五家の次の代を頼みます。カイル殿を、助けてあげて」
そして三十五年前、フリードリヒ二世皇帝の、アドラム王毒殺に関する書簡の写し。
稜はその四枚を机の上に並べた。
──そして革の手帳に新しい一行を書いた。
「緑陰月十日目。アウリオン帰還。レオン王、七日後の議会で千年の事の核心を開示する決意を表明」
稜はインクを乾かしてから、手帳を閉じた。
そして窓辺に立った。
緑陰月の朝の光が、王宮の中庭を照らしていた。──二つの旗が、塔の頂きで朝日を受けていた。──遠くで、夏の鳥の声が一度だけ聞こえた。
──しかし稜の胸の中でもう一つの影が動いていた。
(──カスパル殿。──四十年の宰相のお身体が、限界に近づいておられる。──そしてレオン陛下のお身体に新しい時代の王の重み)
七日後の議会。──レオン王が千年の真相を議員五十名の前で開示する。──その時、カスパル宰相は議場で立ち会えるのか。──四十年の宰相の最後の役目として、王の最初の歴史的瞬間に、カスパルは付き添えるのか。
稜は息を細く吐いた。
そして窓の外の塔を長く見つめた。
──午後二時、カスパル宰相の執務室で、四十年の老人と二年半の参謀の対話が、始まる。
稜は、革の手帳を懐に戻した。──そして窓辺を離れ、廊下に向かった。
(──カスパル殿。──貴方の四十年の中継ぎの最後の段階を、私は決して一人で背負わせない)
廊下の石の床に、稜の足音が静かに響いた。──二ヶ月半前、稜が王宮を発つ朝に響いた足音と同じ場所。──しかし今朝の足音には、二ヶ月半の旅で得た新しい重みが宿っていた。
──新しい時代の最初の一週間が、ここから始まる。
ついに第三部開始です。
王宮の塔の上に、二つの旗が並んで掲げられる場面。書きたかったこの光景を、ようやく描けました。
レオン王が独自に命じた、というのも自分の中で温めていた設定です。
第三部はここから、より深い人間の物語に入っていきます。




