【補講】 明治壱拾七年 太政官布告 第参弐號
本編は、すでに完結しています。
ここから先は、ミステリーで言えば少し野暮な「答え合わせ」です。
冬の夜と、二人の花火の余韻をそのまま楽しみたい方は、どうぞここで、そっと画面を閉じてください。
――それでも少しだけ、あの机の上に並んでいた紙の意味を知りたい方へ。
第三話の最後、《紅椿》は帝都警察の前へ出ようとした深見静馬を止め、机の上に散らばっていた資料をまとめました。
花火師から借りた書簡、花房家の出納帳、医師の署名が入った短い書付、古い写真の複写、それから、海岸と花房邸を一本の線で結んだ地図。
「彼ではなく、私が」
そう言って資料を抱え、
「今から、私が説明します」
第三話は、そこで終わっています。
続く第四話では、その説明そのものは書かず、佐々木警部が資料を一つずつ確かめる場面から始めました。
何を、どの順番で説明したのか。
本編ではあえて省いた部分です。
ここからは、あの机の上に並んでいた紙を、もう一度だけ見ていきます。
おそらく、《紅椿》が最初に話したのは、静馬と清継の関係ではありません。
今回の副題にまで引っ張り出してきた、明治十七年太政官布告第三十二号――爆発物取締罰則。まずは、こちらです。
第一条は、治安を妨げ、または人の身体・財産を害する目的で爆発物を使用した者を処罰します。さらに第三条では、その第一条の目的をもって爆発物やその使用器具を製造、輸入、所持し、あるいは注文した者まで処罰の対象にしています。
大正七年の改正後、作中の大正十年には、第三条の法定刑は三年以上十年以下の懲役または禁錮でした。
もっとも、大正十年の冬に、この規模の煙火を扱おうとするなら、爆発物取締罰則だけを見ておけばよいわけではありません。煙火や火薬類の製造、取扱い、運搬、保管、そして実際の打上げには、別の法令や取締規則も関わります。
それらを一つずつ追い始めると、この補講だけで別の話になってしまいますので、今回は帝都警察が静馬を疑い、《紅椿》が資料を集める理由の中心にある爆発物取締罰則へ絞ります。
さて、静馬は花火師へ煙火の製作を依頼し、書簡を送り、実際に金も動かしていました。
警察から見れば、少なくとも外形上は、火薬を用いる物を注文し、その準備を進めている人物がいることになります。
もちろん、それだけで第三条が成立するわけではありません。
第三条には、第一条にある「治安ヲ妨ケ又ハ人ノ身体財産ヲ害セントスルノ目的」が必要だからです。
静馬に、そのような目的はありません。
本人に聞けば、
「清継様に花火をお見せしたかっただけです」
と答えるでしょう。
実際、本編でもほとんどそのとおりのことを話しています。
ところが、この罰則には第六条があります。
大正十年当時の第六条は、爆発物を製造、輸入、所持、または注文した者が、それが第一条の犯罪目的によるものではないことを証明できない場合を処罰する形になっていました。
後年の裁判例も、この規定について、爆発物を所持する者などに第一条の犯罪目的がないことの「挙証責任」を負わせたものだと説明しています。
かなり特徴的な条文です。
そうなると、
「恋人へ花火を見せたかったんです」
という本人の説明だけで終わらせるには、少々心細い。
第三話で《紅椿》の机を紙だらけにした理由は、ここにあります。
◇
ただし、その紙を読む前に、もう一つ確認しておかなければならないことがあります。
そもそも、静馬が注文した煙火が、爆発物取締罰則にいう「爆発物」に当たるのか。
ここを飛ばして目的の話へ進むことはできません。
大正十年当時に適用されていた銃砲火薬類取締法施行規則では、火薬類を火薬・爆薬・火工品に分け、その火工品の一つとして「煙火」が明示されています。玩具用の普通火工品は除かれていましたが、一定の煙火が当時すでに火薬類取締法制の中へ位置づけられていたことは確認できます。
ただし、火薬類であることと、爆発物取締罰則上の「爆発物」であることは同じではありません。
後年の裁判例でも、理化学上爆発する物をすべてこの罰則の対象とする考え方は採られておらず、玩具花火やマッチまで例に挙げたうえで、その爆発作用自体によって公共の安全を乱し、人の身体や財産を害するに足りる破壊力を持つ物であることが必要だとされています。
もちろん、これは静馬たちの時代より後の裁判例です。
大正十年の《紅椿》が未来の判決を知っているわけではありませんし、本作でもそのような扱いはしていません。
ただ、現在から法的な順序を整理するなら、最初に確認するべきなのは「花火を注文したから危険な目的がある」ということではなく、その煙火が具体的にどのような構造、薬量、作用を持つ物なのか、という点になります。
爆発物取締罰則の対象となる物でなければ、この罰則についての検討はそこで終わります。
対象となり得るのであれば、その次に初めて、何のために注文したのかが問題になる。
《紅椿》が佐々木警部へ説明するとすれば、おそらくこの順番だったと思います。
◇
そこで、机の上の資料です。
中心になるのは、花火師の手元に残っていた書簡でしょう。
静馬が警察に疑われたあとになって、
「実は恋人への贈り物でした」
と言い始めたのであれば、それが後から作った説明である可能性は残ります。
しかし、警察が静馬を追い始めるより前の日付で、第三者である花火師の手元に計画が残っている。
書簡には、冬の夜に、海上から花房邸の一室へ見える位置で煙火を上げたいこと、長く窓辺にいられない者へ見せるため短い時間に収めたいこと、窓を開けなくても見える高さにしたいことまで記されていました。
さらに、その時期には出納帳でも準備に対応する金が動いています。
海辺で《紅椿》が地図へ引いた一本の線は、計画された場所と花房邸の窓が実際に結びつくことを確かめたものです。
つまり、静馬が警察へ事情を説明するより前から、別々の場所に残された記録が、同じ計画を指している。
重要なのは、そこです。
本人の言葉を信じたから資料が正しく見えるのではなく、本人の説明に頼らず確認できる記録を先に並べ、その内容と供述が一致しているかを見る。
第三話の最後、《紅椿》が静馬を前へ出さなかったのも、そのためでした。
◇
では、古い写真と医師の書付は何をしているのか。
この二つは、書簡だけでは埋まらない部分を補っています。
写真には、清継が以前から夏の花火を見ていたことが残っていました。そこには少年だった静馬も写っており、花火を見上げる清継の横顔へ視線を向けています。
一方、医師の書付に記されたのは、ごくわずかな事実だけです。その年の夏、清継が外出できる状態ではなかったこと。それ以上の病名も、詳しい経過も書かれていません。
けれど、この二つを先ほどの書簡と合わせれば、「なぜ花火なのか」と「なぜ次の夏を待たず、冬なのか」が繋がります。
ここで必要なのは、清継の病状を詳しく説明することでも、二人がどれほど長く想い合ってきたかを立証することでもありません。
確認したいのは、静馬が冬という異例の時期を選んだ理由が、その時点ですでに現実に存在していたのかどうかです。
だから医師の書付は短くていいし、写真も一枚あれば足ります。
《紅椿》が佐々木警部の前で、
「この二人は昔から深く愛し合っておりまして」
などと始める必要はありません。
法律が確認しようとしているのは、二人が恋人であるかどうかではなく、静馬が何の目的で煙火を注文したのかだからです。
◇
ここまで揃えば、静馬の言葉の位置も変わります。
医師の署名があり、古い写真があり、警察が動くより前の日付を持つ書簡があり、その準備と対応する金の記録が残っている。さらに、計画された海上の位置と、花房邸の一室が実際に一本の線で結ばれる。
そのあとに、
「清継様のためです」
という本人の説明が重なる。
これなら、話の順序が逆になりません。
だから第四話で、佐々木警部は静馬から長い弁明を聞くのではなく、まず机の上にある資料を一つずつ読んでいます。
出納帳の数字と書簡の日付を合わせ、写真を見て、地図の先にある窓を確かめる。
そして最後に、
「……このために、あれだけの火薬を動かした?」
と静馬へ尋ねる。
本編で省いた《紅椿》の説明は、この問いへ辿り着くためのものだった、というのが今回の答え合わせです。
◇
もっとも、爆発物取締罰則について嫌疑が解ければ、それで自由に花火を上げてよい、ということにはなりません。
先ほど触れたとおり、当時の煙火は銃砲火薬類取締法制の中で「火工品」として扱われていました。
一方で、煙火については火薬類一般の規定の一部をそのまま適用するのではなく、必要な取締を庁府県長官の定める規定へ委ねる仕組みも置かれていました。
つまり、爆発物取締罰則上の犯罪目的がないと分かったあとにも、実際に煙火を扱い、打ち上げるための問題は別に残ります。
第四話で静馬自身が火薬を抱えて海へ走っていかなかったのは、そのためでもあります。
現場には花火師がいて、帝都警察の人間も配置され、《紅椿》は準備が整ったことを確認してから静馬を花房邸へ帰しています。
では、中将殿がその裏で何をしたのか。
どこへ話を通し、誰を動かし、どのような手続を踏んだのか。
そこについては、答え合わせをしません。
全部説明してしまうと、最後の、
「……貸しでありますよ。中将殿」
の価値がなくなってしまいますので。
◇
さて。
ここまで法的な順序で紙を並べ直してみると、少し妙なことが起こります。
《紅椿》が集めていたのは、恋愛を証明するための資料ではありません。
静馬が危険な目的で煙火を注文したのではないことを確かめるため、その目的がいつから、どのような形で存在していたのかを、本人の供述とは別の場所から拾っていっただけです。
ところが、その時系列を並べると、別のものまで見えてきます。
夏に花火を見ることのできなかった清継がいて、そのあとから静馬は職人へ手紙を送り、金を払い、冬の海を歩き、一つの窓へ花火を届けるための場所を探していました。
その過程は、誰かがあとから綺麗に語り直した恋物語ではありません。
書簡の日付にも、帳面の数字にも、医師の署名にも、海から窓へ引かれた線にも、それぞれ別の形で残っています。
法律が二人の愛を証明したわけではありませんし、そもそもそんなことを証明する必要はありません。
ただ、静馬が何のために煙火を注文したのかを外側から確かめようとした結果、その目的のために彼が積み重ねてきた時間まで、紙の上へ残っていた。
《紅椿》が説明する必要があったのは、そこまでです。
必要な資料を机へ置き、必要な人間へ説明を終えたなら、あとは静馬を花房邸へ帰せばいい。
清継が待つ部屋で、法律の話をする必要はありません。
冬の夜、同じ窓辺に並んで、二人で花火を見る。
もともと、そのために始まった話なのです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作では、明治十七年太政官布告第三十二号――爆発物取締罰則を物語の背景へ置きながら、法律そのものはできるだけ表へ出さない形を選びました。
夜ごと屋敷を抜け出し、金を動かし、火薬に関わる職人と会っている使用人を外から見れば、当然、怪しく見えます。その疑いを一つずつ確かめていった先にあったのが、次の夏を待てないかもしれない恋人へ、冬の花火を見せたいという計画でした。
法律は、その花火を美しくするためにあるわけではありません。
けれど、登場人物たちが最後の窓辺まで辿り着くためには、疑われたものを確かめ、必要な手続を通り、誰かが責任を持って次へ進めなければならない。
今回は、その部分を物語の「見えない骨組み」として使っています。
ですので、補講もここで終わりです。
最後に残るのは、法律ではなく、冬の帝都の空に上がった花火と、それを同じ窓から見ていた二人であればいいと思っています。
少しでも、その時間を一緒に楽しんでいただけたなら嬉しいです。
改めまして、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




