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今夜くらいは、まだ夏で

掲載日:2026/09/14

今回は、法律はありません!

難しいことも、たぶん考えません。


夏の終わりの夜。

幼馴染の二人が、学校の七不思議を探すだけのお話です。


普通に書いてます!!


……本当です。





 真帆の髪が、埃っぽい床に広がっていた。




 結んでいたはずの髪は半分ほどけ、黒い束が古い本のあいだへ流れている。その両肩の横に手をついたまま、俺は身体を起こせずにいた。


 起き上がればいいだけなのに、真帆も俺も、なぜか動かなかった。


 頬にかかった髪が、呼吸のたびにかすかに揺れている。いつもなら面倒そうに耳へ払うはずなのに、今はそれもしないまま、真帆はじっとこちらを見上げていた。


 旧図書室には棚から落ちた本が散らばり、傾いた本棚が隣の棚へ寄りかかっている。古い紙と埃の匂いが残る部屋の向こうでは、閉じた窓越しに虫が鳴いていた。




 ついさっきまで耳についていたはずのその声が、今はやけに遠い。




 こめかみを汗が一筋流れた。


 真帆の目が、それを追った。


 頬のあたりまで下がった視線が、少し遅れてこちらへ戻る。


「……近い」


「分かってる」


「じゃあ、どいて」


「今どこうとしてる」


 そう答えながら、俺はまだ動かなかった。真帆もそれ以上は何も言わず、ただ目を逸らさなかった。





 ほんの数秒だったはずなのに、そのあいだだけ、校舎のどこにも俺たち以外の人間がいなくなったような気がした。



挿絵(By みてみん)

 


 忘れ物に気づいたのは、校門を出てからだった。


 鞄の中を探っても数学のノートがなく、机に突っ込んだままだったことを思い出した。明日の一限で使うものだから、家へ帰ってから気づかなかっただけましだと思い、来た道を引き返した。


 午後六時を少し過ぎた校舎は、まだ完全には夜になりきっていなかった。


 西側の窓には夕日の名残が薄く残り、その色が長い廊下の床へぼんやり伸びている。グラウンドでは野球部が片づけを始めていて、掛け声や金属バットの触れ合う音が、熱を含んだ空気の向こうから途切れ途切れに聞こえてきた。


 九月に入って二週間が過ぎても、暑さはまだ夏を手放すつもりがないらしい。校門脇の桜は濃い緑の葉を茂らせ、駐輪場の向こうでは、季節を間違えたみたいに蝉まで鳴いている。


 教室へ行って、ノートを取って、帰ればいい。


 それだけのはずだった。


 それでも、昼間なら何度も通る昇降口のガラス戸を前にすると、なぜか足が止まった。


 スマホを見ると、十八時二〇分。


 もう少し早ければ何も考えずに入れただろうし、もう少し遅ければ明日の朝でいいと諦められた気がする。そういう、妙に判断を迷わせる時間だった。


 画面を消して校舎を見上げたところで、背後から声がした。




「何してんの?」



挿絵(By みてみん)



 振り返ると、佐伯真帆がいた。


 片手にはコンビニの白い袋を下げ、鞄を肩に引っかけている。少し伸びた髪は首の後ろで雑に束ねられ、額には汗で細い毛が何本か張りついていた。


 幼稚園のころから知っている顔だった。


 家同士は歩いて三分ほどしか離れていない。同じ小学校へ通い、同じ中学校へ進み、高校まで同じになったのだから、腐れ縁と言ってもいい。


 それでも最近は、廊下ですれ違えば軽く手を上げるくらいで、一緒に帰ることもなくなっていた。いつからそうなったのかは、よく覚えていない。


 真帆は俺の隣まで来ると、校舎と俺の顔を順番に見た。


「忘れ物?」


「数学」


 真帆の視線が昇降口へ向かい、こちらへ戻ってきたときには、もう笑いが混じっていた。


「何だよ」


「別に」


 そう言いながら口元の笑いは消えず、真帆は俺より先に校舎へ歩き出した。


 白い袋の中でペットボトルが小さくぶつかる。昼間なら気にも留めないような音が、夕方の校舎の前では妙にはっきり聞こえた。


 ついてくるのかとは聞かなかったし、真帆も、どうして一緒に来るのか説明しなかった。


 二人で昇降口へ入り、上靴に履き替えた。


 校内の照明はまだ点いていたが、昼間と同じ明るさには感じられなかった。冷房の止まった廊下では、壁や床が一日ため込んだ熱をゆっくり吐き出している。


 閉じた窓の向こうで空は少しずつ青みを増し、ガラスには外の景色と俺たちの姿が薄く重なっていた。


 二人分の上靴の音が、長い廊下へ響いていく。建物へ入っただけなのに、さっきまで聞こえていたグラウンドの声は急に遠くなった。


 二階へ上がる階段の前で、半歩ほど先を歩いていた真帆が立ち止まった。





「そういえば、ここの七不思議って知ってる?」




 階段の上を見てから振り返った顔には、ちょうどいい暇つぶしを見つけたような笑みがあった。


 夜の音楽室で勝手に鳴るピアノ、人のいない廊下で誰かが映る三階の鏡、夜になると一段増える階段、理科室を歩く人体模型。


 ほかにも、聞けばどこかで一度くらい耳にしたような話を、真帆は指を折りながら六つまで数えた。


「七つ目は?」


「知らない。見つけた人しか知らないんだって」


「ずいぶん都合のいい七不思議だな」


 真帆は手すりに手を置き、薄暗い階段の上をもう一度見た。それから、ちらりと俺を見る。


「怖いんだ」


「じゃあ探すぞ」


 真帆の目が丸くなった。


 本気でその返事を予想していなかったらしく、しばらく俺の顔を見てから、唇の端をゆっくり上げる。


「全部?」


「全部」


 真帆は何も言わずに階段を上り始めた。肩の近くで結んだ髪が、一段上るたび小さく揺れる。


 後ろからでも、笑っているのは分かった。




 ◇  ◇  ◇




 一つ目は音楽室だった。


 廊下の突き当たりにある扉を開けると、室内にはまだ夕方の名残があった。


 閉じた窓の向こうには群青色の空が広がり、低い位置に浮かぶ雲だけが、消えかけた夕日に縁取られている。


 並んだ譜面台は細長い影を床へ落とし、一番奥に置かれた黒いピアノだけが、周囲から少し切り離されたように暗く沈んでいた。


 真帆が先に入り、俺もその後に続いた。


 楽器と床のワックスが混ざった匂いがした。誰もいないのに、少し前まで誰かが練習していたような気配だけが残っている。


 昼間なら何とも思わない部屋なのに、気づけば二人とも足音を小さくしていた。


 ピアノの蓋は閉じている。


 しばらく待っても何も起こらず、真帆は俺を見て、小さく肩をすくめた。


 そのまま出口へ向き直ったときだった。


 低い鍵盤の音が、一つだけ鳴った。


 真帆の足が止まり、俺もピアノを見る。


 蓋も鍵盤も、何も変わっていない。もう一度鳴ることもなかった。


 音が消えたあとには、それまでより濃い静けさが残った。


 その中で、制服の袖がわずかに引かれた。


 横を見ると、真帆が指先で俺の袖をつまんでいた。


 目が合う。


 離すかと思った指に、逆にほんの少しだけ力が入った。爪の先が、窓辺に残った夕方の光を拾って淡く光っていた。


 何か言えばいいのに、俺は何も言わなかったし、真帆も黙ったままだ。




 二人で音楽室を出て、しばらく廊下を歩いたころには、その指はいつの間にか離れていた。




 ◇  ◇  ◇




 二つ目の階段は、何度数えても十三段だった。


 三つ目の鏡には、並んで立つ俺たちと、その後ろへ長く伸びた廊下が映った。蛍光灯の白い光は途中で途切れ、その先だけが実際よりも深く、暗い場所へ続いているように見える。


 真帆の目が、鏡の中で自分の肩越しへ動いた。


 ほんの一瞬だった。


 けれど次にはもう鏡から離れ、何もなかったように歩き出していた。いつもより少し速い歩調を追いかけ、角を二つ曲がったところで横へ並ぶと、真帆は俺の顔を見た途端、堪えきれなくなったように笑った。


「何か見ただろ」


「知らない」


 それだけ言って、また前を向く。


 笑った名残が、まだ口元に残っていた。


 何が見えたのかは、それ以上聞かなかった。


 四つ目には何も起こらず、五つ目の人体模型は、怪異より先に理科室から姿を消していた。


 照明の下には四角い台だけが残っている。真帆はしばらくそこを眺めたあと、少しだけ首を傾げて扉を閉めた。


 廊下へ戻ると、窓の向こうから夕方の色がほとんど消えていた。


 群青だった空は、いつの間にか濃い藍色へ変わっていた。グラウンドも駐輪場も輪郭だけを残して沈み、遠くの職員室に残る明かりが、暗くなった校舎の向こうに小さく浮かんでいる。


 冷房の止まった廊下には、まだ昼間の熱が残っていた。それでも窓際を通ると、ガラスの向こうから少しだけ冷たい気配がした。


 真帆は半歩ほど先を歩きながら、結んだ髪を持ち上げた。首の後ろへ手を当て、そこに溜まった熱を逃がすように指先を滑らせる。


 その姿が、黒くなった窓にも映っていた。


 外の景色より、今は俺たちの方がよく見える。並んで歩いているようで、ガラスの中では真帆の肩が少しだけ前にあった。


「そういえば」


 真帆が窓を見たまま言った。


「昔、帰りに寄ってた公園あったじゃん」


 どこのことかは、すぐ分かった。


 住宅街の端にあった、小さな公園だった。


「ブランコのとこ?」


 真帆が頷いた。


 それきり、しばらく何も言わなかった。


 名前さえ思い出せない公園なのに、妙なところだけ覚えている。夕方になると砂場の半分が木の影に入り、ブランコの鎖は握ると少し鉄臭かった。勢いよく漕ぐ真帆の背中が夕日に重なり、そろそろ帰ろうと言っても、なかなか降りようとしなかった。


「お前、ずっと乗ってたな」


「そっちが先に降りるからでしょ」


 真帆はそう言って、少しだけ笑った。


 どちらが高くまで漕げるかなんて、今になれば何の意味もない。けれどあのころは、家から呼ぶ声が聞こえるまで、夕暮れの中で何度も同じ勝負をしていた。


 窓の外へ目をやると、暗くなった空の低いところに、星が一つだけ見えた。


「まだあるかな」


 真帆の声がした。


 横を見ると、こちらではなく窓の向こうを見ていた。聞かれているのか、ただ思い出しただけなのか分からないくらいの言い方だった。


 俺も最近は、あの道を通っていない。


 黒いガラスの中で、真帆の肩がまた少しだけ先へ出る。


 その背中を見ながら、口を開いた。


「今度、見に行く?」


 真帆の足が止まった。


 俺も一歩進んでから止まり、振り返った。


 真帆はこちらを見ていた。驚いたというほどではない。ただ、いつもならすぐ返ってくる言葉がなく、目だけがわずかに丸くなっている。


 やがて、その視線が俺から外れた。


 黒い窓へ向いた横顔の口元が、ほんの少しだけ緩む。


「……まだあったらね」


「なくなってたら終わりだな」


 そう返すと、真帆は小さく首を振った。


「そのときは、仕方ないでしょ」


 歩き出した真帆を追った。


 けれど今度は、歩幅を広げる必要がなかった。


 真帆が少し遅くなったのか、俺が少し速くなったのかは分からない。ただ、黒い窓へ映る二人の肩は、いつの間にかほとんど同じ位置にあった。


 廊下の奥では蛍光灯が一本切れていて、次の明かりまでのあいだに薄い闇が溜まっている。


 真帆がそこを見たので、俺も同じ方を見た。


「次、旧図書室だろ」


 そう言って、今度は俺が先に歩き出した。


 すぐ隣で、真帆の上靴が床を鳴らした。




 ◇  ◇  ◇




 六つ目は旧図書室だった。


 夜になると、本棚の奥から誰かが名前を呼ぶらしい。


 校舎の端にあるその部屋は、今では古い資料や使わなくなった本を置く倉庫のようになっていた。


 扉を開けると、紙と埃の匂いが一段濃くなる。


 照明は点いたものの、ところどころ蛍光管が外されていた。棚のあいだには明るい場所と暗い場所が交互に続き、その奥がどこまで伸びているのか、一目では分からない。


 閉じた窓の向こうでは虫が鳴いていた。外にいたときにはあれほど賑やかだったのに、厚いガラスを隔てると、水の底から聞いているように遠い。


 真帆は入り口で一瞬だけ足を止めた。


 俺が何か言うより先に、そのまま中へ入っていく。


 狭い通路の両側には古い百科事典や黄ばんだ文庫本、何年も前の学校誌が並んでいた。真帆は背表紙へ指先を滑らせながら、ゆっくり奥へ進んでいく。


 歩くたび、結んだ髪の先が制服の襟を擦った。


 しばらく歩いても、誰も名前を呼ばない。


 あまりに何も起こらないので、俺は数歩先にいる真帆の名を小さく呼んだ。


「真帆」


 肩が跳ねた。


 振り返った真帆は黙って俺を睨んだが、やがてその口元がゆっくり緩み始めた。


 嫌な予感がした。


 次の瞬間、真帆の笑みが消えた。


 視線だけが、俺の肩の向こうへ向いている。


 分かっていたはずなのに、反射的に振り返った。


 もちろん、誰もいなかった。


 背後で笑い声が漏れる。


「お前な――」


 振り向くと、真帆は口元を押さえながら一歩後ろへ下がった。


 その踵が、床に積まれていた本の束へ触れた。


 重なっていた本が崩れる。


 真帆の身体が傾き、俺は咄嗟に腕をつかんだ。引き戻した勢いで肩が本棚へぶつかり、棚全体が大きく軋む。


 上の方から何冊もの本が滑り落ちてきた。


 避けようとした足がもつれ、真帆の身体が床へ倒れる。その上へ俺も倒れ込み、咄嗟についた両手のすぐ横で本棚が傾いた。


 棚は隣の棚へぶつかって止まり、遅れて何冊かの本が床を叩いた。開いたまま落ちた最後の一冊が、ぱたりと閉じる。


 それきり、部屋は静かになった。


 真帆の髪が、埃っぽい床に広がっていた。


 髪はほとんどほどけ、黒い束が古い本のあいだへ柔らかく流れている。その両肩の横に手をついたまま、俺は身体を支えていた。



「大丈夫か」


 そう聞こうとして、声が出なかった。


 真帆がこちらを見上げていた。




 挿絵(By みてみん)




 幼稚園のころから何度も見てきた顔なのに、こんな距離から見たことはなかった。


 睫毛が思っていたより長いことも、頬に薄く汗が浮いていることも、少し開いた唇が息をするたびわずかに動くことも、今まで気づいたことがなかった。


 頬に落ちた髪が一本、真帆の呼吸に合わせて揺れている。


 いつもなら鬱陶しそうに耳へかけるはずなのに、今はそれもしない。


 真帆も俺を見ていた。


 笑うでもなく、からかうでもなく、ただ真っすぐに。


 目が合ったまま、どちらも逸らさなかった。


 ついさっきまで聞こえていた蛍光灯の低い音も、窓の向こうの虫の声も、急に遠くへ退いていった。


 ここは学校の中のはずだった。


 扉の向こうには廊下があり、少し歩けば職員室もある。窓の外には住宅街が広がり、家へ帰ればいつもの夜が待っている。


 それなのに、そのどれもが今はひどく遠い場所にあるように思えた。


 真帆の髪と、床についた俺の手と、その向こうにある真帆の顔。


 目に入るものは、それだけだった。


 こめかみを汗が一筋流れた。


 真帆の目がその動きを追う。


 視線が頬のあたりまで下がり、ほんのわずか止まってから、また俺の目へ戻る。




 自分の心臓の音が、ひどく近く聞こえた。




「……近い」


 いつもの真帆より、少し小さな声。


「分かってる」


「じゃあ、どいて」


「今どこうとしてる」


 言ってから、自分でも変な答えだと思った。


 どこうとしているなら、とっくにどけばいい。真帆も同じことを思ったはずなのに、何も言わなかった。


 頬にかかった髪だけが、かすかな吐息で揺れる。


 その程度のことで、また身体が動かなくなる。


 俺は真帆のことを昔から知っている。


 転んで泣いた顔も、給食の牛乳を派手にこぼした顔も、小学校の運動会で負けて本気で悔しがっていた顔も知っている。家が近いから、寝癖のついた頭で朝のゴミ出しをしているところだって何度も見た。


 見慣れた相手のはずだった。


 なのに今、目の前にいる真帆だけは、少し知らない人みたいに見えた。


 真帆が唇をわずかに結んだ。


 視線が俺の肩へ逸れ、それから迷うように戻ってくる。


 それを見て、俺もようやく息を吐いた。


 たぶん、ほんの数秒だった。


 身体を起こした瞬間、急に旧図書室へ戻ってきたような気がした。


 閉じた窓の向こうでは虫が鳴き、傾いた本棚は隣の棚へ引っかかったまま、床には本が散らばっている。


 真帆もゆっくり上半身を起こした。


 二人とも何も言わず、本を拾い始めた。


 同じ一冊へ手を伸ばし、指先が触れた。


 さっきまでの距離に比べれば、本当に小さな接触だった。それなのに、二人とも同時に手を止めた。


 真帆が先に離す。


「……どうぞ」


「いや、お前が取れよ」


「いいから」


 妙に丁寧なやり取りがおかしくなって、少し笑った。


 真帆も同じだったらしい。


 顔を上げると、目が合った瞬間に口元が緩んだ。


 今度は、いつもの真帆だった。


 それに少し安心して、それと同じくらい、なぜか惜しいような気もした。


 俺は何も言わず、別の本を拾った。


 床に落ちた学校誌を棚へ戻している横で、真帆が髪を結び直し始めた。


 ゴムを唇にくわえ、両手で髪を持ち上げる。


 さっきまで床に広がっていた髪が一つに集まり、その下から汗のにじんだ白い首筋が一瞬だけのぞいた。


 見ていたことに気づき、俺は少し遅れて手元の本へ視線を落とした。


 六つ目の怪異は、最後まで俺たちの名前を呼ばなかった。



 ◇  ◇  ◇



 七つ目は見つからなかった。


 屋上へ続く階段も、中庭も、人のいなくなった渡り廊下も見て回ったけれど、それらしいものはどこにもなかった。


 昇降口へ戻るころには、外はすっかり夜になっていた。


 靴を履き替えて校舎を出ると、昼間の熱を抱えた地面からまだ温かな空気が上がってくる。それでも、ときどき頬を撫でる風には、ほんの少しだけ秋の気配が混じっていた。


 結び直した真帆の髪が、その風に揺れた。


 校門を出ようとしたところで、真帆が俺の鞄を見て足を止めた。


「ノート」


 俺も止まった。


 数学のノートは、教室の机の中に置いたままだった。


 真帆は唇をきゅっと結んだ。


 しばらく耐えていたが、やがて顔を伏せて肩を震わせ始める。


「明日の朝でいい」


 俺が校舎を振り返りながら言うと、とうとう声を出して笑った。


 目元を指で拭いながら、それでもまだ笑っている。


 その笑いがおさまるまで待ってから、二人で住宅街へ向かった。


 昼間なら車の音が絶えない道も、この時間になると妙に広く見えた。


 家々の開いた窓からテレビの音が漏れ、庭木の影が街灯の下に柔らかく伸びている。どこかの家では風呂を使ったばかりなのか、石鹸のような匂いが夜気に混ざっていた。


 真帆は、また半歩ほど先を歩いていた。


 街灯の下へ入るたび、結び直した髪の輪郭が柔らかく浮かび、そこを抜けると再び夜の中へ溶けていく。


 しばらくその背中を追った。


 旧図書室で見た顔を思い出すと、なぜか首筋まで一緒に浮かんできて、俺は意味もなく道路の白線を見た。


 交差点の少し手前で、真帆が足を止めた。


 振り返ると、何か言おうとしたように口を開き、けれど結局何も言わず、一度だけ視線を落とした。


 それから、何でもないことみたいに右手を差し出す。



「怖かったなら、手つないであげる」



挿絵(By みてみん)



 音楽室で俺の袖をつかんだのは誰だったのか。


 言えば、たぶんまたいつものやり取りに戻れる。


 そう思ったけれど、口には出さなかった。


 代わりに、その手を取った。


 少し汗ばんだ掌が重なった。


 指と指が、うまく収まる場所を探すように一度だけずれ、そのあと、真帆の手が軽く握り返してきた。


 真帆はすぐに前を向いた。


 耳が少し赤くなっていたように見えたけれど、街灯のせいかもしれなかった。


 さっきまで半歩先にあった肩が、今はすぐ隣にある。


 歩幅まで少し揃っていた。


「誰かに見られても知らないからな」


 俺が言うと、つないだ手が小さく揺れた。


「そのときは、七不思議の七番目って言い張るから大丈夫」


「何だよ。それ」


 真帆は答えなかった。


 ただ、つないだ指にもう一度だけ力を込めた。


 交差点の信号が青に変わり、二人で歩き出した。





 遠くの家で、片付け忘れた風鈴が一度だけ鳴った。




 少し遅れて、どこかに残っていた蝉が短く声を返す。




 風には秋が混じり始めていたけれど、夜の底にはまだ昼間の熱が残っていた。





 今夜くらいは、まだ夏でよかったのかもしれない。




ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


実は先日、『Pacta sunt servanda』の推敲について某AIさんと壁打ちをしていたとき、




「あなた、普通に書けないの?」




……みたいなことを言われました。


書けますけど!?


というわけで。


・法律禁止

・考えすぎるの禁止

・めんどくさい話禁止

・一万字以内

・ちょうど今書いているVRも幕末も恋愛寄りなので、比較用にラブコメでやる!


幼馴染の二人が、夏の終わりの夜の学校で、七番目の不思議を探す。


本当に、それだけのお話でした。


世界の命運もかかっていません。

誰かを裁くこともありません。

難しい理屈も、たぶん出てきませんでした。


ちゃんとやりました。


やれました!!


……というわけで。


これで心置きなく、また法律の話ができます。


思う存分やります。


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