【本編完結】 冬花火
本篇は虚構にて、登場する人物・地名・事件は、いずれも物語のために織りなしたものでございます。
佐々木警部は、すぐには口を開かなかった。
机の上へ置かれた資料を、上から順に手に取っていく。
頁を繰るたび、湿気を吸った紙が低く擦れ、その音だけが妙に大きく部屋へ残った。警部の外套から落ちた雫は床板へ黒い染みを作り、火鉢の奥では炭がときおり赤く爆ぜて、冷えた空気へ短い音を返している。
私は何も言わなかったし、静馬も黙ったままだった。
佐々木警部は出納帳の数字を追い、途中で書簡へ戻ると、同じ日付を指先で押さえた。濡れた帽子の下に刻まれていた眉間の皺が、そこで深くなる。
誰も急かさない。
資料が一枚ずつ机の上へ戻されるたび、警部の顔から、疑うための余地だけが少しずつ削られていくようだった。
写真の中では、花火を見上げる少年が笑っている。
その隣には、空ではなく少年の横顔を見ている、もう一人の少年がいた。
佐々木警部の視線が、そこで僅かに止まった。
しばらくして最後の一枚が机へ置かれると、室内には火鉢の音だけが残った。
佐々木警部は並んだ資料を眺めたまま、低く息を吐く。
「……このために」
地図の上に置かれた指は、花房邸の窓を押さえていた。
「あれだけの火薬を動かした?」
佐々木警部が静馬を見る。
静馬は何も言わず、その視線を受けた。
警部の口元が一度だけ動いたが、結局、言葉にはならなかった。その代わり、眉間の皺がもう一段深く刻まれる。
私は煙草を一本取り出した。
「どうやら、利口な人間には縁がないようでして」
燐寸を擦ると、小さな火が冬の薄暗い部屋に灯った。
紙巻きの先へ赤が移る。
佐々木警部がこちらを見る。
紫煙を細く吐きながら、私は薄く笑った。
その夜、雪は降らなかった。
昼のあいだ帝都を塞いでいた雲は、夕刻を境に海の方へ流れていった。雪解けの水を残した街の上には深い藍色の空が広がり、瓦を伝っていた雫も、冷え込みとともに少しずつ数を減らしている。
濡れた石畳には街灯の明かりが細長く滲んでいた。歩くたび、靴底の革が湿った路面へ吸いついては離れ、坂を下りきる頃には、潮の匂いがはっきりと鼻の奥へ残るようになった。
海から吹く風は、煉瓦街の冷気より厄介だった。
外套の襟元へ入り込んでは容赦なく熱を奪っていく。その代わり、空はよく澄んでいた。冬の星は小さく、冷えきった闇へ針を刺したような光を宿している。
海際には提灯が並んでいた。
花火師たちは沖と陸を行き来しながら最後の確認を進め、少し離れた場所では、佐々木警部の部下たちが決められた位置についている。
海へ向いて立っていた警部が、一度だけこちらを見た。
私も見返す。
しばらくして向こうが先に海へ顔を戻したので、それで済ませた。まだ軍がお気に召さないらしいが、仲良くなるために仕事をしているわけではない。
「本当に、上がるんですね」
隣から静馬の声がした。
黒い外套の襟を高く立て、革手袋を嵌めた手を身体の前で重ねている。海風に削られ、声は普段より少し低く聞こえた。
「ここまで来て上がらなかったら、私は帰りますよ」
「どちらへですか」
「上海」
静馬の口元が僅かに緩んだが、それ以上は笑わず、すぐ沖へ視線を戻した。
私としても、半分くらいは本気だった。
提灯を持った花火師が、風へ肩を縮めながら近づいてくる。
「そろそろです」
静馬は懐中時計を取り出し、手袋をした親指で蓋を押した。文字盤へ目を落としたまま、秒針を追っている。
私は海へ目を向けた。
提灯の炎は、どれも同じ方角へ傾いている。花火師たちに慌ただしい動きはなく、佐々木警部の部下も持ち場を離れていなかった。
予定どおりである。
「行ってこい」
静馬の顔が上がった。
「ですが――」
「ここにお前がいて、どうする」
言い返しかけた口が閉じる。
静馬はもう一度だけ沖を見てから、懐中時計の蓋を閉じて懐へ戻した。
「……お願いいたします」
静馬が深く頭を下げ、花房邸へ続く坂へ向かっていく。
街灯を一つ越えるたび、黒い外套は夜の色へ溶けていった。最後に海風を受けた裾が大きく翻り、それも家並みの陰へ消える。
花火師へ目を戻すと、先ほどの男がこちらへ頷いた。
沖の準備は済んだらしい。
佐々木警部へ視線を移す。警部も小さく顎を引いた。
それで十分だった。
「では、あとはお願いします」
花火師が頭を下げる。
煙草へ伸ばしかけた手を懐の途中で止め、そのまま外套の前を合わせた。
今くらいは、火薬以外の煙を増やさなくてもいい。
私は海へ背を向け、静馬が先ほど上っていった坂へ足を向けた。
◇ ◇ ◇
花房邸へ戻ると、
炭火に温められた空気が冷えた頬へまとわりついた。
廊下には炭と古い木の匂いが馴染み、その奥から薬湯の甘苦さが僅かに流れてきている。磨かれた床板には行灯の光が細く伸び、障子の外では庭木の枝が冬の闇へ沈んでいた。
足音を抑えて進む。
清継の部屋へ近づくと、襖がわずかに開いていた。
「もう十分だよ、静馬」
「冷えます」
「暑い」
「先ほどまで寒いと仰っていたでしょう」
「お前が掛けすぎるからだ」
足を止めた。
隙間から見える窓辺に、清継が座っている。
白に近い着物へ濃色の羽織を重ね、膝にはすでに毛織物が掛かっていた。それでも静馬は端をさらに引き寄せ、足元へ冷気が入らないよう丁寧に折り込んでいる。
清継が止めても手だけは動き、布の皺を伸ばして端を整えたところで、ようやく離れた。
「静馬」
「はい」
「さっきから時計を何度見た?」
卓上の湯呑みへ伸びていた手が止まる。
「……そのようなことは」
「見ていたよ」
清継は窓へ顔を向けたまま、口元だけを少し緩めている。
静馬は何も返さず、湯呑みを卓へ戻した。
私も懐中時計を取り出して蓋を開く。
予定の刻まで、もうほとんどなかった。
時計を閉じ、襖から少し離れた。
最初に届いたのは、音ではなく光だった。
庭に残っていた水雪が一瞬だけ白く浮かび、障子へ映っていた枝の影が濃くなる。少し遅れて海の方から低い響きが届くと、床板から足裏へ伝わった振動が、さらに遅れて腹の奥へ触れた。
窓の向こうで、白い花が開いている。
夏の夜より空気が澄んでいるせいか、火の筋は一本ずつ輪郭を残していた。黒い空へ大きな円を描き、細かな光へほどけながら海の方へ落ちていく。
その残滓が消える頃には、窓硝子へ室内の灯りが戻っていた。
清継の部屋の前へ戻る。
襖は先ほどより大きく開き、窓辺には二人の姿が並んでいた。
清継は椅子を窓際まで寄せ、静馬はその傍らに立っている。硝子戸は閉じたままだったが、空から落ちる光は、薄く曇った硝子越しでも十分に明るかった。
二発目は赤だった。
硝子いっぱいに広がった光が、清継の頬から羽織の襟を染める。白かった横顔へほんの一瞬だけ血の色が戻り、傍らにいる静馬の目元にも同じ赤が差した。
けれど、静馬が見ていたのは空ではなかった。
光が消えるまで、その視線は清継の横顔に置かれている。
「静馬。これは、お前だね」
呼ばれて、ようやく静馬の目が動いた。
清継と視線が合う。
静馬はすぐには答えず、その顔をしばらく見てから、わずかに頭を下げた。
「今年の夏は、お見せできませんでしたので」
清継が振り返った。
「それで、冬に?」
「はい」
青白い花火が開いた。
冷たい光が窓硝子を越え、二人の上へ落ちる。清継の手は膝の毛織物の上に置かれていたが、青い明かりが薄れていく頃、その指が一度だけゆっくり握られた。
静馬の視線がそこへ落ちる。
何も言わない。
清継も、自分の手を見られたことには触れなかった。
やがて静馬へ目を戻し、呆れたように細める。
「馬鹿だな」
「はい」
そこだけは早かった。
思わず口元が緩みかけ、咳払いで誤魔化した。
人の恋路を見物するために軍籍へ入った覚えはない。
次の花火が上がる。
白い火が何本も夜空へ走り、それぞれ違う高さで開いた。明滅するたび、窓硝子へ映った二人の姿が浮かんでは消える。
清継は花火を見ていた。
静馬は、まだ清継を見ていた。
「静馬。せっかくなんだから花火を見ろ」
「見ております」
「嘘をつけ」
清継が笑った。
大きな声ではない。息を使いすぎないよう、喉の奥だけで笑うような静かな声だった。
静馬は返事をせず、ようやく窓の外へ顔を向ける。
その横顔を見届けてから、清継は膝の上に置いていた手を持ち上げ、静馬の手の甲へ指先を触れさせた。
ほんの僅かな接触だった。
それでも静馬はすぐに気づき、視線だけを落とした。
清継は手を引かない。
静馬も動かなかった。
次の金色の花火が開く。
降り注ぐ光の中で、静馬はゆっくりと掌を返した。
清継の手がそこへ収まる。
それからようやく、静馬の指が閉じた。
強くは握らない。清継の細い指を傷めないように、それでも逃がすつもりはないと分かる程度の力で、掌の中へ包み込む。
金色の火の粉が長い尾を引きながら落ちていった。
窓硝子には、夜空の光と二人の姿が重なっている。
「来年も見たい」
清継が言った。
穏やかな声だった。
空を見たまま、何でもないことのように。
静馬の親指が、清継の手の甲で止まる。
ほんの僅かなことだったが、それまでほとんど崩れなかった男の身体から、動きだけが消えた。
遅れて花火の音が届く。
窓硝子が小さく震え、その振動が消えても、静馬は答えなかった。
「静馬」
「……はい」
「返事」
清継が隣を見る。
静馬も、その目を見る。
窓の向こうには、次の花火を待つ暗い空があった。行灯の灯りだけに戻った部屋で、清継の横顔は先ほどより白く見える。
静馬は繋いだ手を握り直した。
「来年も、お傍におります」
清継の眉が僅かに下がった。
「花火の話をしてるんだけど」
「存じております」
「なら、ちゃんと答えろ」
静馬は目を逸らさなかった。
やがて、その口元にほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
「来年も、ご一緒に」
清継も笑った。
ほんの僅かに。
「うん」
それ以上は何も言わず、再び窓へ顔を向ける。
直後に上がった白い花火が、これまでで一番明るく室内を照らした。
その光の中で、清継の身体が僅かに静馬へ寄る。
静馬は動かなかった。
肩が触れ、清継の頭がそっとそこへ預けられてから、ようやく身体をほんの少し傾けた。
繋いだ手は離れない。
静馬は窓の外を見ながら、清継の手首へ負担が掛からない位置まで、自分の掌をわずかに動かした。清継も抵抗することなく、それに合わせる。
二人のあいだに言葉はなかった。
花火が開くたび、清継の睫毛へ光が差した。そのたび静馬は一度だけ横を見て、清継がまだ空を見ていることを確かめると、自分も同じ方角へ視線を戻した。
私は襖の外に立ったまま、その様子を見ていた。
ここで床板を鳴らすほど無粋ではない。
次の光が二人の輪郭を白く縁取ったところで、一歩退く。
そのまま、音を立てずに襖から離れた。
◇
廊下を戻って庭へ出ると、海からの風が再び外套を揺らした。
吸い込んだ夜気が、喉の奥へ細い痛みを残す。
庭のところどころには昼の雪がまだ残り、表面だけが薄く凍っていた。革靴で踏めば小さく割れ、その下から柔らかな水雪が沈む。
海を見渡せる場所まで歩いた頃、最後の一発が昇った。
暗い水平線の向こうから白い光が伸び、深い藍色の空を真っ直ぐ昇っていく。
頂点へ達したところで、一瞬だけ動きを止めたように見えた。
その直後、大きく開く。
白から金へ変わった火の粉が、細い尾を長く引きながら落ちていった。
祭りではないから、歓声はなかった。
遅れて届いた轟音だけが冷えた家々の屋根を越え、雪解けの湿気を残した夜へゆっくりと広がっていく。
光が消えたあとも、しばらく海を見ていた。
次は上がらない。
海際では提灯の明かりが動き始め、沖に出ていた花火師たちも陸へ戻り始めている。
予定どおり、これで終わりだった。
花房邸の二階へ目を向ける。
一つの窓だけが淡く明るい。
室内との温度差で曇った硝子の向こうには、二つの影が寄り添うように重なっていた。
煙草を一本取り出す。
今度は火をつけた。
指先に灯った赤は、先ほどまで空を埋めていた光に比べれば随分と小さい。煙を一口吸い込み、白い息と一緒に吐き出すと、紫煙は海風に押され、すぐ形を失った。
もう花火は上がらない。
二階の明かりは消えなかった。
煙草を指に挟んだまま、濡れた庭石へ踵を預ける。
「……貸しでありますよ。中将殿」
このあとに補講があります。
ただ、物語の余韻をそのまま楽しみたい方は、ここでお話は終わりです。
冬の夜と、二人の花火を、どうぞそのままお持ち帰りください。




