証を刻む
本篇は虚構にて、登場する人物・地名・事件は、いずれも物語のために織りなしたものでございます。
昼を過ぎても、窓の外は朝とほとんど明るさを変えなかった。
帝都の上へ低く垂れ込めた雲が街全体を煤けた灰色の底へ沈め、ときおり雨とも霙ともつかない粒が硝子を細く叩いている。そのたびに水筋が増え、向かいの煉瓦屋根や煙突の輪郭を縦へ歪ませた。
借りている部屋には朝から石炭を焚いているものの、火鉢から離れれば床板の冷えの方が勝つ。椅子へ座り続けているうちに腰から下がじわじわ冷え、紙をめくるため腕を伸ばすたび、袖口へ入り込んだ空気が手首を撫でていった。
おまけに、机が狭い。
花火師から借りた書簡、昨日使った地図と古写真の写し、朝方届いた医師の封書。重ねれば場所は空くが、それをすると必要なものほど下へ潜るので、結局は紙の端を少しずつずらしながら置くことになった。
医師から届いた一枚を開く。
夏のあいだ、花房清継が外出できる状態ではなかったこと。それだけが数行で簡潔に記され、末尾には署名があった。
余白の方が多いくらいだが、このくらいでいい。
余計なことを書けば、余計なところから話が増える。医者も軍人も、書面くらい無愛想な方がありがたい。
折り目を戻して封書の上へ置くと、乾いた紙の端が指先を擦った。朝から何度も資料を触っているせいで、中指の腹は少し乾き、爪の脇には鉛筆の黒が残っている。
煙草を一本抜いて火をつけ、最初の煙を吐きながら、机の奥に開いたままの法令集へ目を戻した。
明治十七年太政官布告第三十二号――爆発物取締罰則。
一度読んだからといって、法文がこちらへ歩み寄ってくれるわけではない。
仕方なく一頁戻り、煙草を指へ挟んだまま、もう一度同じところまで読み下す。途中で灰を落とし、条文の脇へ置いた紙片に二、三文字を書き足したところで、鉛筆が止まった。
「……なるほど」
法令集を閉じると、紫煙が黒い表紙を薄く撫で、そのまま天井へ昇っていった。上の方へ溜まった冷気に触れると形を崩し、白い漆喰の手前で見えなくなる。
背もたれへ身体を預け、凝り始めた首を軽く傾けた。
これ以上何か増えるなら、資料より先に大きな机が欲しい。
今のところ、それが一番切実だった。
静馬が来たのは、午後になってからだった。
階段を上がる足音より先に、玄関が開いたときの冷気が廊下を伝ってくる。戸を開けると、黒い外套の肩には細かな水滴が散り、髪にも融け残った霙がいくつか白く付いていた。
「遅くなりました」
「そうですね。私は朝から紙とばかり話しています」
静馬がわずかに目を瞬いた。
冗談として処理すべきか迷ったらしいが、少し間を置いてから口を開く。
「清継様が、なかなかお休みにならなくて」
「あなたを待っていた?」
今度は答えが遅れた。
静馬はほんの僅かに視線を外し、手にしていた風呂敷包みへ落とす。
「……そういうところがありますので」
「へえ」
それ以上は聞かなかった。
差し出された包みを受け取ると、布は冷えきっており、結び目へ触れただけで湿気が指へ移った。
中から現れたのは古い帳面だった。花房家の出納を記したものらしく、布張りの表紙は長く手に取られて角が丸くなり、綴じ紐も元の色が分からないほど褪せている。
頁を開くと、乾いた墨と古い糊、それに長く家の中へ置かれていた紙の匂いが、暖められた室内へゆっくり混じった。
静馬の字は、書簡より少し小さい。
日付と金額、その横へ添えられた短い記載を上から追い、途中で机の書簡を一通引き寄せる。日付を見比べてから帳面を二頁進み、指先で一か所を押さえた。
「ここは?」
「運搬を頼んだ分です」
次の頁へ移り、もう一つ数字を拾う。
「こちらは」
「材料代を含んでいます」
薄い紙片を挟み、書簡の日付と合わせてから、帳面を静馬の方へ少し回した。
「ずいぶん細かく残すんですね」
「帳面ですから」
「主人に隠している花火まで?」
静馬の視線が、一瞬だけ数字から外れた。
「金を扱うこととは別ですので」
「そこは分けるんだ」
「分けます」
妙に返事が早い。
それ以上は追わず、帳面を手元へ戻した。
静馬は外套を脱いで長椅子へ掛けると、濡れた袖口を一度だけ指で払った。毛織物に染み込んでいた冷気が室温で緩み、雪と煤、それに濡れた石を思わせる匂いが、石炭と煙草の臭いへ混じっていく。
こちらは頁を繰り、必要なところへ紙片を挟んでいった。静馬も何も言わず、しばらく部屋には紙をめくる音だけが続いた。
帳面の確認を終える頃には、霙が少しずつ雪へ変わり始めていた。
書簡と帳面を並べ、必要な頁だけを開いて重しを置く。医師の書付を横へ寄せ、地図は折り目が戻らないよう端を押さえた。
古写真の写しは、机の端へ残してある。
静馬は窓際へ移り、外を眺めていた。濃い着物に黒い髪という色合いは灰色の窓辺へ妙によく馴染み、室内へ向いた頬と喉元だけが薄く光を拾っている。
屋根へ触れた白い粒はまだすぐ水になるものの、瓦の窪みや窓枠には、融けるまでの短いあいだ形を残すようになっていた。
書簡を一通、帳面の脇へ移す。
その気配に静馬が振り返り、机の端で視線を止めた。
古写真の写しだった。
昨日見たものと同じ、花火を見上げる清継と、その横顔を見ている少年の静馬。
「何か?」
「いえ」
静馬は少しだけ長く写真を見てから、再び窓へ顔を向けた。
こちらも何も言わず、次の紙片を帳面へ挟んだ。
◇
午後も深くなる頃には、雪がようやく雪らしくなった。
窓の外を白い粒が斜めに流れ、向かいの屋根には薄い膜ができ始めている。それでも帝都の雪は、絵葉書のように何もかもを綺麗にはしてくれない。煙突から降る煤を吸い込み、通りへ落ちれば車輪の跳ねる泥へ混じって、すぐ灰色に汚れた。
早めに灯りを入れると、黄味を帯びた光が机へ落ち、外の雪より手元の紙の方が白く浮かび上がった。
書簡と帳面の日付を合わせ、医師の書付を横へ置く。地図に引いた線の先には、花房邸の二階がある。
最後の紙片を挟んだところで、静馬が窓辺を離れた。
机の向こうへ立ち、並んだ紙を見下ろす。前へ傾いた身体の影が、書簡と帳面へ細長く落ちた。
「随分、大事に見えますね」
顔を上げる。
「見えるんじゃなくて、大事なんですよ。残念ながら」
静馬の口元が、ごく僅かに動いた。
鉛筆を机へ置く。
「これでいい」
静馬の息が、わずかに長く抜けた。
そのまま机の端にある写真へ目をやり、それから窓の外へ視線を移す。
「間に合いますか」
「何に?」
聞き返すと、静馬は少しだけ困ったような顔をした。
「……いえ」
「花火なら、私ではなく花火師へ聞いてください」
静馬は黙ったあと、小さく頭を下げた。
「そうします」
煙草を咥え、燐寸を擦る。
余計なことまで聞くつもりはなかった。
◇
夕方には、窓の向こうからほとんど色が消えていた。
降り続く雪は白いはずなのに街そのものは暗く沈み、軒下の灯りだけが濡れた石畳へぼんやり滲んでいる。少し離れた人影は煤絵のように薄れ、車輪や蹄の音も、湿った空気と雪に角を削られたように遠く聞こえた。
静馬はまだ帰らず、火鉢のそばで両手を炭火へ向けていた。
「清継様には?」
「遅くなるとだけ伝えてあります」
「待つでしょうね」
静馬の手が止まった。
「……待たせたくはないのですが」
それでも立ち上がろうとはせず、机の上へ一度視線を向ける。
「もう少しですよ」
「はい」
短く答えると、静馬は再び炭火へ手を向けた。
灰皿へ煙草の灰を落とす。
机の上には出納帳を中心に、必要な資料をすぐ手へ取れる順で寄せてあった。閉じた法令集だけは少し離し、黒い表紙の端に灯りを細く受けている。
もう触る必要はない。
そう思ったところで、屋根に溜まっていた水雪が滑り落ちた。
重いものを濡れた布へ落としたような鈍い響きがして、窓硝子がかすかに震える。その振動が消えるより先に、階下で戸の開く音が重なった。
続いて聞こえてきたのは、一人分ではない革靴の音だった。
低い男たちの声が廊下へ流れ、濡れた靴底が板敷きを踏むたび、古い建物が小さく軋む。
静馬の手が、火鉢の上で止まった。
こちらは煙草を指へ挟んだまま、階段を上がってくる足音へ耳を向ける。
走ってはいないが、遅くもない。間隔を崩さず一段ずつ近づいてきた足音は、やがて壁越しでも重さが分かるほどになり、そのまま戸の前で止まった。
「早いな」
働き者なのは結構だが、こちらの都合まで考えてくれれば、なおありがたい。
戸が強い音で叩かれ、返事をするより先に開いた。
暖められていた室内へ冷気が一気に入り込み、足首から脛へ這い上がる。先頭の男の外套には融けかけた雪が張りつき、帽子の鍔から落ちた雫が床板へ小さな黒い染みを作った。
その後ろにも数人いる。
濡れた毛織物と革、雪に混じった街路の煤まで一緒に持ち込まれ、石炭と煙草に馴染んでいた部屋の空気が急に張った。
「帝都警察だ」
先頭にいたのは、海辺で見た男だった。
静馬が火鉢のそばから立ち上がると、椅子へ掛けていた外套がずれ、肘掛けから半分ほど滑った。男はその動きを一度だけ追い、すぐにこちらへ目を移す。
「やあやあ、帝都警察の皆様」
吸いかけの煙草を灰皿へ押しつけると、赤い火種が灰の中へ沈み、細い煙だけが残った。
「佐々木警部殿までご一緒でしたか。思ったより早かった。流石、優秀だ」
佐々木警部の眉がわずかに動く。
「……やはり、か」
「おや」
「ここ数日、深見の周囲を嗅ぎ回っている女がいるとは聞いていた」
「人聞きが悪いですね。せめて仕事熱心と言っていただきたい」
「こちらの尾行には早い段階で気づいていた。それでいて撒こうとも、邪魔をしようともしない。身元を洗っても、どうにも輪郭が薄い」
佐々木警部は言葉を切り、帽子の下からこちらを眺めた。視線が外套の襟から両手へ落ち、それから顔へ戻ってくる。
「軍が、何の用だ」
まーーーじかーーー。
そこまで拾ったか。
なかなか優秀だが、こちらとしては少しもありがたくない。
「お察しのとおりです。詳しい所属については、ご容赦を。軍機に触れますので」
外套の内側へ手を入れると、静馬の身体がわずかに前へ動いた。
そちらへ顔は向けず、空いた手だけを軽く上げる。
静馬の足が止まった。
そのまま所属票を取り出し、佐々木警部へ開いて見せる。
警部は一歩近づき、そこへ目を落とした。濡れた外套から雫が一つ、床へ落ちる。
「やはりな」
「これは困った。一本取られたわけだ。我々も、防諜を少し見直さないといけませんね」
「それで?」
所属票を閉じる。
「そこは少々、事情がありまして」
「軍の事情か」
「そこまで申し上げると、今度はこちらが怒られます」
佐々木警部の眉間へ薄く皺が寄った。
「軍だろうが関係ない。こちらはこちらの仕事をする」
「結構です。そうでなくては困る」
所属票を外套へ戻し、椅子から立ち上がった。
机の横へ回る間に、佐々木警部の視線が静馬へ移る。
「深見静馬」
「はい」
「爆発物について聞きたいことがある」
静馬は一拍だけ黙った。
「その前に、一つだけ」
佐々木警部の眉が動く。
「何だ」
「清継様のところへは?」
「まだ行っていない」
静馬の肩から、ほんの僅かに力が抜けた。
「そうですか」
それだけ確かめると、彼らの方へ身体を向ける。
表情はほとんど変わらない。それでも顎の下から喉へ僅かに力が入り、右手の指が一度だけ握られた。
そのまま前へ出ようとする。
「私から――」
「彼ではなく、私が」
静馬の言葉へ重ねると、その足が止まった。
振り返った目に僅かな戸惑いが浮かび、佐々木警部もこちらへ顔を戻す。
「何?」
「その件でしたら、先に見ていただきたいものがあります」
机へ手を伸ばした。
出納帳を引き寄せ、その上へ花火師から借りた書簡を重ねる。医師の書付を折らないよう間へ挟み、地図と古写真の写しを最後へ回した。
並べた順番を崩す気はない。
湿気を含んだ紙は指へわずかに吸いつき、端を揃えると角が掌へ食い込んだ。帳面までまとめれば片手で雑に扱える重さではなく、両手で持ち直す。
誰も口を挟まなかった。
開いた戸から冷気が流れ続け、警察官の外套から落ちた雫が床板へ染みを増やしている。火鉢の奥で炭が小さく爆ぜ、灰皿に残っていた煙は風に押され、机の上を低く横切って消えた。
資料を抱え、佐々木警部の前へ立つ。
「今から、私が説明します」




