冰華天咲
本篇は虚構にて、登場する人物・地名・事件は、いずれも物語のために織りなしたものでございます。
朝から、空の色が悪かった。
夜半まで降っていた雪は、明け方には雨へ崩れたらしい。軒先には水を吸って半透明になった雪がわずかに残り、屋根を伝う雫には煤が混じって、石畳へ落ちるたび薄い灰色の輪を作っていた。
傘を差していても、粒の細かな雨は横から入り込んでくる。外套の肩はいつの間にか重くなり、襟元に入り込んだ湿気が首筋へまとわりついて、歩いているあいだにも少しずつ体温を奪っていった。
深見静馬が口にしたことが事実なら、あの男の言葉とは別の場所にも、何かしら跡が残っている。
最初に訪ねたのは、花房家の主治医だった。
◇
医院は、表通りから一本入った場所にあった。
赤煉瓦の壁は雨を吸って黒ずみ、玄関脇には患者の傘が互いにもたれ合うように並んでいる。扉を開けると石炭ストーブの熱が押し寄せ、濡れた衣服や革靴から立つ湿気と薬品、それに煤の匂いが混じった空気が頬へまとわりついた。
暖かいはずなのに、身体の芯はすぐには緩まない。
待合室の長椅子へ腰を下ろすと、外套に染み込んだ雨が室温でゆっくり温まり、今度は自分の周りだけ湿気が濃くなったように感じられた。
窓硝子には細い水筋が絶えず流れていた。
白くもならず、乾きもしない冬の日だった。街じゅうが薄い灰色の水に浸され、煉瓦も木も人の衣服も、本来の色より一段暗く沈んで見える。
名を呼ばれ、診察室へ入る。
医師は五十を少し越えたくらいで、眼鏡の奥に疲れの残る目をしていた。机の上にはカルテが何冊か重ねられ、その脇には磨かれた聴診器が置かれている。
「今日は、どういったご用件で?」
「花房清継さんについて、お話を伺いたくて」
医師は私を見たが、すぐには答えなかった。
「病状については、ご本人の許可なく申し上げることはできません」
私は内ポケットから封筒を取り出し、机の上を滑らせた。
医師は一度だけ目を落としたが、手を伸ばさなかった。
「病名も経過も聞きません」
窓の外では裸木の枝が雨に濡れ、風が吹くたび、枝先に残った雪が水滴とともに落ちていた。
「あの方に、花火を見せたいという人がいます」
医師の目が私へ戻る。
「先生なら、あの方に夏まで待てと言いますか」
医師の指がカルテの角へ触れた。そのまま何かを揃えるでもなく、ただ紙の端へ置かれている。
壁の時計だけが規則正しく時を刻み、雨粒が窓へ当たる音が、ときおりその間へ入り込んだ。
やがて医師は眼鏡を外し、机へ置いた。
「……見せて差し上げるなら、この冬に」
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
手袋を嵌め直すと、まだ湿り気を残した革が温まりかけた指へぴたりと張りついた。椅子を引いて立ち上がったところで、医師が低い声で尋ねる。
「深見君が、何か?」
先ほどより、わずかに眉間の皺が深くなっていた。
「さあ。私も、それを見ているところです」
帽子を手に扉へ向かうと、背後からもう一度声が掛かった。
「お忘れ物ですよ」
振り返った先で、封筒は私が置いたところにあった。
医師はそれを指し示すこともせず、眼鏡を掛け直している。
私は机へ戻り、封筒を内ポケットへしまうと、今度は頭を下げてから診察室を出た。
◇
花房邸へ着く頃には、雨は雪へ戻りきれないまま細くなっていた。
庭の奥には霧にも似た白さが漂い、濡れた踏み石と松の幹をぼんやり霞ませている。玄関で履物を脱ぐと、ようやく家の中の暖かさが身体へ染みてきた。
今日は清継には会わなかった。
代わりに、昨日見かけた年嵩の女中へ、古い写真を見せてほしいと頼む。理由を尋ねられるかと思ったが、女中は私の顔を一度見ただけで、何も言わず家の奥へ案内した。
通されたのは、陽の入りにくい小部屋だった。
箪笥の上から下ろされた写真帳には濃い布が張られ、四隅だけが長年の手擦れで薄く色を失っている。紐を解くと、古い紙と糊、それに長く閉じられていた布の匂いが、わずかな湿気を含んで立ち上った。
台紙は年月のせいで少し波打ち、指へ取ると、乾いた紙とは違う柔らかな重みがあった。
幼い清継が家族と並んでいる。
袴姿で庭へ立っているものもあれば、桜の下で大人たちに囲まれているものもあった。何枚かめくったところで、一枚だけ夜に撮られた写真が現れた。
提灯が並び、その背後の空だけが露光で白く滲んでいる。
「花火ですか」
「ええ。夏になると毎年、旦那様が皆を連れていかれまして」
女中の声が少しだけ柔らかくなった。
写真の中央で、まだ少年だった清継が笑っている。
昨日見た静かな青年とは別人のようだった。頬には今より肉があり、目元まで崩して、写真機の存在など忘れてしまったように何かを見上げている。
その少し後ろに、黒い着物を着た少年が立っていた。
「静馬ですか」
「そうです」
身体は写真機へ向けられているのに、視線だけが正面から外れている。
花火を見上げて笑う清継を、静馬は見ていた。
台紙をわずかに傾けると、写真の表面を窓から入った白い光が滑り、二人の顔を一度ぼかしてから、また元へ戻した。
「これは何年前です」
答えられた年だけを手帳へ書き留める。
写真帳を閉じると、湿気を吸った台紙が重なり合い、乾いた紙より低い音を立てた。
部屋を出たところで、廊下の奥から薬湯らしい甘苦い香りが流れてきた。襖の向こうには人の気配があったが、足を止めず、そのまま玄関へ向かった。
海側へ出る頃には、空から落ちるものは雨というより霧に近くなっていた。
屋根も倉庫も遠くなるほど輪郭を失い、煤けた帝都の端が、濡れた薄紙の向こうへ沈んでいくように見える。
昨日、静馬が封筒を渡した男の居場所は、思っていたより簡単に見つかった。
倉庫街から一本外れたところに、低い木造の仕事場がある。看板は出ていないが、引き戸へ近づく前から、紙と糊、炭、それに湿気の中でも消えない乾いた火薬の臭いが鼻へ届いた。
中では数人の職人が黙って手を動かしていた。
丸く成形された紙、細い紐、積み上げられた木箱が狭い空間へ並び、冬の薄暗い仕事場の中で、それだけが別の季節を待っているように見えた。窓は少し開けられており、入り込む海風が糊の匂いと火薬の臭いを薄く散らしている。
奥に昨日の男がいた。
「何だ」
「どうも」
昨日と同じ黒い指が、作業台の上で止まった。
深見静馬の名を出すと、男は露骨に口を閉ざした。その代わり、視線が一瞬だけ右へ流れる。
机の脇にある引き出しだった。
「昨日、受け取ったものを見せてください」
「嫌だ」
返事が早かった。
「そうですか」
濡れた帽子の縁を指で払い、外套の前を合わせる。
「では、警察が来たときに直接お見せください」
男の手が止まった。
ほんの一瞬だったが、今度は引き出しではなく、仕事場の奥へ視線が流れる。
紙を折る乾いた音と、屋根から落ちる水滴が桶を叩く音だけが、変わらず続いていた。
「……何の話だ」
「冬の海で、個人の屋敷から見えるように煙火を上げる。まだ話も全部ついていない」
「……あんたに何が分かる」
「警察に来てもらえば、私より詳しく見てくれるでしょう」
ほかの職人たちは手を止めない。
ただ、聞こえていないはずはなかった。
男が低く息を吐いた。
「嫌味か」
「まさか」
引き戸へ向かう。
背後で椅子の脚が床を擦った。
「待て」
◇
奥の小部屋へ通されると、何通かの書簡が卓上へ並べられた。
同じ筆跡で、いずれにも深見静馬の署名がある。
一通目を開く。
冬の夜、海上から花房邸の一室へ見える位置で打ち上げる煙火を製作してほしいこと。
大小合わせて二十発余り。
個人が一人へ見せるものとしては、随分と景気のいい数だった。
長く窓辺にいることのできない者へ見せるため、打ち上げは短い時間に収めたいこと。窓を開けずとも見える高さにしたいこと。規模と時刻についても、細かな希望が並んでいる。
余計な修辞は一つもない。
最後まで読んで、末尾の日付を確かめた。
二通目には、最初の依頼を受けて決まった金額と、その一部を先に支払う旨が記されている。
三通目には、打ち上げる場所と時刻について、さらに細かな調整が加えられていた。
もう一度、一通目の日付を見る。
それから手帳へ書き写した。
男は腕を組み、黙ってこちらを見ている。
「何だ」
「別に」
書簡を封筒へ戻す。
「これを借ります」
「駄目だ」
伸びてきた手を、封筒ごと少し持ち上げて避ける。
「では、警察へ直接渡しますか」
男の手が止まった。
しばらく睨み合ったあと、深い溜息とともに肩が落ちる。
「……何者なんだ、お前」
「よく聞かれます」
答えず、書簡を外套の内側へしまう。
仕事場を出ると、霧のような雨が頬へ触れた。
煙草を咥えて火を寄せたが、湿った紙は思うように燃えず、最初の火はすぐ消えた。外套の襟元へ顔を寄せるようにして風を避け、二度目でようやく先端が赤く灯る。
一口吸うと、煙草の乾いた苦味の向こうに、仕事場で染みついた火薬の臭いが残っていた。
外套の内側では、数通の書簡が歩くたび身体へ触れている。厚くもない紙の角が、湿った布越しに脇腹へ小さく当たり続けた。
日が傾く前に、静馬と海辺で落ち合った。
空と海は、すでに境目を失いかけていた。沖には薄い靄がかかり、遠くの船は黒い染みのように浮かんでいる。波は高くないが、岸壁へ寄せる水音だけが低く続き、濡れた石の表面には鈍い光が細長く残っていた。
静馬は黒い外套の襟を上げていた。
こちらを見ると、ごく浅く頭を下げる。
昨日、路地で銃を突きつけられた男にしては、随分と落ち着いている。こちらもそのことには触れなかった。
「あの辺りです」
静馬が海上を指した。
指の先には、濃い灰色の水が広がっているだけだった。
振り返ると、家並みの向こう、坂の上に花房邸の屋根が見える。冬の霞を通しているせいか、建物の輪郭は薄く、白い壁だけが海辺からわずかに浮いていた。
「窓は」
「右から二つ目です」
返事に迷いがない。
二階へ視線を移すと、こちらは少し探してようやく分かる距離だった。
「よく分かりますね」
「毎日見ていますので」
静馬は、それだけ言った。
私は手帳を取り出した。
紙はすでに雨気を吸って少し柔らかくなっている。鉛筆を走らせると普段より濃く線が残り、海岸と屋敷、その窓を描いてから、海上の一点へ一本の線を伸ばした。
静馬は黙ってその手元を見ていた。
手袋をしていない。
指先は寒さで赤くなり、関節のあたりだけが白く浮いている。
昨夜、清継が言っていた言葉を思い出した。
夜に出た日は、帰ってくると手がひどく冷えている。
なるほど。
手帳を閉じる。
「花火師のところへ行きました」
静馬の目がこちらへ向いた。
「そうですか」
外套の内側から書簡を一通だけ覗かせると、静馬の視線もそこへ落ちたが、手を伸ばしてくることはなかった。
「随分、頼みましたね」
「はい」
「一人に見せるには、多くないですか」
静馬は一度だけ、坂の上の窓を見た。
「足りなかった方が、後悔しますので」
「清継さんが?」
「私が」
何とも言えず、煙草を取り出した。
本当に面倒くさい。
風が強まり、海面へ細かな皺が一斉に走った。潮気を含んだ空気が唇へ触れ、煙草を吸う前から舌の上へ薄い塩気が残る。
「では」
静馬が何かを続けようとしたところで、私は彼の肩越しへ視線を移した。
少し離れた岸壁に、男が二人立っている。
昨日と同じ帽子だった。
互いに話しているように見せながら、位置だけは長いこと変わっていない。
「まだです」
静馬は言葉を止め、私の視線を追った。
二人を見つけたらしい。外套の襟元で、喉がわずかに動く。
煙草を咥え、火をつけた。
海風が強く、最初の火は横へ流され、二度目も先端を赤くしただけで消える。三度目は身体を風上へ向け、手袋をした両手で火を囲うと、ようやく紙巻きが安定して燃え始めた。
「……あの方々は」
「さあ」
紫煙を吐くと、風に押し返されて一度こちらの頬へまとわりつき、そのまま海側へ流れていく。
静馬は二人の男を見たあと、こちらへ顔を戻した。
「私は、どうすればよろしいでしょう」
「今日は帰ってください」
静馬の眉が、ほんの僅かに寄った。
それでも問いを重ねることはなく、しばらくこちらを見たあとで頭を下げる。
黒い外套の裾が濡れた道へ触れそうになりながら、花房邸のある坂の方へ遠ざかっていった。
途中で一度も振り返らなかった。
岸壁の二人は動かない。
私はその場に残り、煙草を吸った。
日が落ちるにつれ、海の色は灰色から青黒い色へ変わり、遠くの船も次第に輪郭を失っていく。
煙草が短くなったところで、濡れた石へ火を押しつけると、赤い火種が水分に触れて一度だけ強く光り、小さな音を立てて消えた。
外套の内側へ手を入れる。
書簡は仕事場で受け取ったときより、わずかに柔らかくなっていた。湿気を吸った封筒の角を手袋越しに確かめながら顔を上げると、少し離れた岸壁には、まだ二つの帽子がある。
その向こうでは、海と空がすっかり同じ暗さへ沈んでいた。
やがて沖で鳴った汽笛が、低い音を湿った風へ溶かしながらこちらまで届いた。
私は音が消えるまでその場に立ち、静馬が帰っていった坂と、動かない二人の男を交互に眺めていた。




