落花流水
本篇は虚構にて、登場する人物・地名・事件は、いずれも物語のために織りなしたものでございます。
「静馬は、私の恋人です」
向かいの青年は、何でもないことを告げた顔で湯呑みに両手を添えている。
天井を仰いだ。
吐き出した紫煙は、白い漆喰へ触れる前に輪郭を崩し、薄曇りの冬空みたいな色になって、ゆっくりと部屋の上へ溜まっていった。
まーーーじかーーー。
――――これは高くつきますよ。中将殿。
そもそも、私がこんな話を聞く羽目になったのは、ほんの少し前のことだった。
「上海での貸しを返してもらおうと思って、な」
窓の外には前夜の雪が残っていた。
積もったというほどではない。庇の端や植え込みの陰に、灰色がかった白が薄く貼りついているだけで、陽が高くなれば泥へ混じって消えるだろう。それでも朝の空気はひどく湿っていて、煉瓦造りの建物そのものが冷えきっているようだった。
その中で部屋だけが不自然に暖かい。
石炭ストーブの熱で硝子は白く曇り、乾いた煤の匂いと煮詰まった茶の香りが混じっている。外套の肩についた雪が融け、布地の奥へ冷たい湿り気を残していた。
こんな日に中将殿が呼びつけるのだから、少なくとも急ぎの軍務ではあると思っていた。
差し出された紙を見るまでは。
花房清継。
名前の下には麻布の住所しかない。
「ずいぶん簡素な命令書でありますね」
「命令ではない」
紙を裏返してみた。
当然、何も書いていない。
「古い友人の息子だ。少し困っているらしい」
「何に」
「本人に聞け」
人ひとりの事情をこちらへ押しつけたとは思えないほど、その口調は軽かった。近所へ使いに出すのと大差ない顔で言われると、こちらだけが事の重さを量っているのが馬鹿らしくなってくる。
上海で何を貸したのか、この老人とはいつか帳簿を突き合わせる必要がある。少なくとも、住所を一枚渡されて真冬の帝都を歩かされるほど安い貸しではなかったはずだ。
椅子から腰を上げる。
そのとき、中将殿が書類から目を離さないまま言った。
「親父殿とは、昔の約束があってな」
声には、先ほどまでと変わらない乾いた調子があった。
それでも、その一言だけは余計だった。
余計なことを言わない人間が、わざわざ口へ出したという意味で。
私は帽子を取った。
廊下へ出ると、暖められすぎていた頬へ冷気がまとわりついた。高窓の向こうには鉛色の空が低く垂れ、庭の裸木から融けた雪が水滴になって落ちている。
軍務でもなければ、警察沙汰でもない。
そういうものほど面倒になる。
◇
花房邸は、坂の上にひっそりと建っていた。
門は大きいが、威圧的ではない。
黒塗りの柱は雨雪に晒された跡を残しながらも磨かれており、庭の松には昨夜の雪がところどころ白く残っている。踏み石の窪みには薄い水が溜まり、冬の日差しを鈍く返していた。
玄関で外套を脱ぐと、冷えた布地が肩から離れた途端、室内の温かさが遅れて身体へ染みてきた。
濡れた革靴の匂い。
炭火。
古い木と畳。
人の暮らしている家の匂いがする。
廊下はよく磨かれていて、障子越しの白い光が床板へ長く伸びていた。家人とは何人かすれ違ったが、足音も話し声も不思議なほど抑えられている。
誰かが眠っている家のようだった。
案内された南向きの座敷で、花房清継は窓際に座っていた。
最初に目へ入ったのは、湯呑みを包む指だった。
白い。
湯気の立つ器へ触れているのに、関節のあたりまで血の色が薄い。
白に近い灰色の着物へ濃色の羽織を重ね、膝には毛織物が掛けられている。顔立ちは整っていたが、病人特有の頼りなさより、光の薄い冬の日に似た静けさの方が先に立った。
「紅椿さんですね」
「そう呼ばれています」
煙草を取り出すと、清継は何も言わず灰皿をこちらへ寄せた。
動きが自然だった。
遠慮せず火をつける。
紙巻きの先に小さな赤が灯り、冷えていた指先へ熱が戻ってくる。最初の煙には、外から持ち込んだ湿った空気の匂いがまだ混じっていた。
調べてほしい男の名は、深見静馬といった。
幼い頃から花房家に仕えている使用人で、しばらく前から、夜になると屋敷を離れることが増えたという。まとまった金も動いているらしい。家の者が知らない男と会い、何度か海の方へ向かっている姿も見られていた。
それだけ聞けば、主人が人を使って調べさせる理由としては十分だった。
ただ、清継の声には妙なほど棘がない。
湯呑みを持つ指が、時折その縁をゆっくり撫でるくらいで、怒っている様子も、不安を隠そうとしている様子も見えなかった。
「本人には、もう聞いたんですね」
「ええ」
清継は少しだけ口元を緩めた。
「何も教えてくれませんでした」
庭で、竹の葉から水滴が落ちた。
雪解けの雫が石へ当たり、障子越しでも分かるほど澄んだ音を立てる。
「それでも信用している?」
「しています」
間がない。
清継は湯呑みを持ち直した。
「静馬は隠し事が上手ではありません。夜に出た日は、帰ってくると手がひどく冷えているんです」
そのまま、視線だけが襖の向こうへ動いた。
「なのに、私の顔を見ると安心したようにする」
そこまで言って、清継は自分でも少し妙なことを言ったと思ったのか、薄く笑った。
何が気になっているのか、それ以上は聞かなかった。
灰皿へ落ちた煙草の灰が、端から細く崩れている。
私はもう一本取り出しかけ、やめた。
そして、静馬について必要なことをいくつか確かめた、その途中だった。
「静馬は、私の恋人です」
清継は、明日の空模様でも告げるように、声の調子ひとつ変えずに言った。
それから私の顔を見て、悪戯がうまくいった子供のように、ほんの少しだけ笑った。
翌日は、軍服をやめた。
上海から持ち帰った洋装を引っ張り出し、髪を耳へ沿わせるように整えた。暗い色のワンピースに長めの外套を合わせ、小さな帽子を少し斜めに被る。
帝都ではまだ珍しい格好だった。
硝子戸へ映る自分の姿を見ながら口紅を引くと、赤だけがやけに鮮やかに浮いた。
鏡の中には、昨日までとは別の女がいる。
外套の内側だけは変わらない。
小型南部の重みを確かめる。
冷えた金属は、革越しでもはっきり分かった。
深見静馬が花房邸を出たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
濃紺の着物へ黒い外套を重ね、背筋を崩さず坂を下っていく。
写真で見た顔より、実物の方が印象に残った。整った顔立ちのせいではない。人混みの中でも歩幅が乱れず、急いでも肩が揺れない。周囲を見るときだけ、目が先に動く。
雪はほとんど融けていた。
日陰や軒下には白い塊が残っているが、通りの石畳には薄い水が張り、人力車が通るたび泥の混じった飛沫が細かく跳ねる。
風には湿り気があった。
冷たいというより、衣服の隙間からじわじわ体温を奪っていく寒さだった。手袋の内側まで指先が冷え、呼吸をするたび鼻の奥へ湿った空気が残る。
静馬は街中の小さな店へ入り、出てきたときには紙包みを一つ抱えていた。
それから人通りの少ない方へ向かい、倉庫の裏手で一人の男と会った。
四十ほどで、往来ですれ違えば顔を忘れてしまいそうな男だ。
静馬が封筒を渡すと、男は中身を確かめず懐へしまった。
袖口から見えた指は黒く汚れていた。
煤なのか、炭なのか。
爪の際まで染み込んだ黒は、洗った程度では落ちそうにない。
二人が別れたあと、男の近くを通った。
潮の気配とは違う、乾いた焦げ臭さが一瞬だけ鼻へ残った。
静馬はそのまま海へ向かう。
家並みが疎らになるにつれ、帝都の音が少しずつ剥がれていった。
商店の呼び声が遠くなり、代わりに荷車の軋みや、倉庫で木箱を下ろす鈍い音が増えていく。曇天の下では海と空の境目まで灰色で、遠くに停泊した船の輪郭だけが墨を滲ませたように浮かんでいた。
潮を含んだ風が頬へ触れる。
湿った冷気が襟元から滑り込み、首筋を伝って背中へ落ちていった。
静馬が一度、振り返った。
私は歩道脇の店へ視線を向ける。
硝子の向こうに簪が並んでいた。
梅、鶴、菊。その端に、銀細工の椿が一本だけ置かれている。
花弁の縁に差した赤が、冬の鈍い光の中で濡れているように見えた。
二度目に静馬が振り返ったとき、その簪を手に取った。
冷たい硝子越しでも、銀の質感だけは硬く光っている。
――――面倒くさい男だ。
店主へ値を聞き、戻した。
少し離れた向かい側に、同じ帽子が二つ見えた。
先ほどの交差点にもいた。
こちらとは、距離の取り方が違う。
視線は向けず、そのまま静馬の背中を追った。
角を曲がると黒い外套が消えた。
路地は狭く、両側の屋根から落ちた雪解け水が石畳の継ぎ目へ集まり、細い流れになっていた。壁には湿気が染み込み、古い煉瓦の色が濃く沈んでいる。
海風が通るたび、外套の裾が脚へまとわりついた。
背後で衣擦れがした。
振り返るより先に右手首を取られ、そのまま壁際へ寄せられる。
肩甲骨へ煉瓦の硬さが当たった。
外套越しにも、壁の湿った冷たさがじわりと背中へ移ってくる。
「先ほどから、何の御用でしょう」
間近で見る静馬の目は、写真よりずっと鋭かった。
私の手首を取る指にも迷いがない。
「女性を捕まえるにしては、少し乱暴ではありません?」
笑って、半歩近づいた。
静馬の呼吸が一瞬止まる。
空いている左手を黒い外套の襟元へ添えると、彼の身体が目に見えてこちらから離れた。
「私には無意味です」
「へえ」
手首を掴む力が、ごく僅かに緩む。
それで十分だった。
親指側へ手を抜き、肩を沈めて身体を入れ替える。外套の内側へ手を差し込むと、冷えた金属が掌へ馴染んだ。
小型南部を抜き、静馬のこめかみへ押し当てる。
「引っかかったな、馬鹿め」
潮風だけが路地を抜けた。
静馬は騒がなかった。
驚いた気配はある。だが、それを顔へ出すほど素直ではないらしい。
「……貴女は?」
「言うと思うか」
帽子の脇から外れた髪が頬へ貼りついていた。
冷えた毛先が肌へ触れるたび、細い水滴が伝う。
私は路地の入口へ一度だけ目をやった。
「随分と人気者らしいな」
そこで初めて、静馬の顔が僅かに変わった。
海から強い風が吹き込み、黒い外套の裾が翻る。
布地に付いていた細かな黒い粉が何粒か落ちた。
「誰のためだ」
静馬は答えなかった。
遠くで汽笛が鳴る。
低い音が倉庫の壁へ当たり、濡れた空気の中で長く尾を引いた。
「自分で使うつもりだった、とは言わないんだな」
「……」
「金も、手配も、ここまで危ない橋を渡った理由も。お前一人の道楽にしちゃ、少し出来すぎている」
静馬の指先が、ほんの僅かに動いた。
「もう一度聞く」
銃口を向けたまま、私は言った。
「誰のためだ」
しばらくして、静馬が目を伏せた。
「……清継様です」
「最悪だな」
銃口は下ろさず、そのまま待った。
静馬の視線が一度だけ海の方へ向く。
「今年の夏、清継様は花火をご覧になれませんでした」
声は低かった。
「床を離れられなかったので」
昨日、湯呑みを包んでいた白い指が浮かぶ。
「来年は」
口に出しかけて、止めた。
静馬もすぐには何も言わなかった。
路地の屋根から水滴が落ち、石畳へ弾ける。
冷たい音だった。
「医師は、来年の夏について何も仰いません」
それ以上は続かなかった。
こちらも促さない。
しばらくして、静馬が息を吐いた。
白くなったそれが風へ消える。
「ですから、冬に上げます」
「何を」
「花火を」
風が一瞬だけ弱くなった。
さっきまで脚へまとわりついていた外套の裾が静まり、路地の向こうから海の匂いだけが残った。
静馬は冗談を言っている顔ではなかった。
「海からなら、清継様のお部屋から見えます」
言葉のあとに、小さな間が落ちた。
「驚いていただこうかと」
小型南部を下ろした。
静馬は動かなかった。
銃を外套へ戻し、煙草を一本取り出す。
指先が冷えすぎて、火が一度消えた。
二度目でようやく紙巻きの先が赤く灯る。
煙を吸い込むと、舌の上へ苦味と熱が戻ってきた。
「許可は」
「まだ取っておりません」
「お前、馬鹿だろ」
「そうかもしれません」
紫煙は、湿った風にすぐ崩された。
「その話を、私が信じる理由は?」
静馬はわずかに目を伏せた。
だが、言葉を探す様子はなかった。
「ありません。お調べください」
それきりだった。
灰が落ち、濡れた石畳へ触れた途端、黒く滲んだ。
路地の先には冬の海があった。
鉛色の空と溶け合い、遠くの船も、波も、何もかも薄い墨で描いたように沈んでいる。
もう一度、汽笛が鳴った。
長い音が消えるまで煙草を吸いながら、私はその海を眺めていた。
上海への借りは返した。ここから先は、私の貸しだ。




