第10話 もう一度、夫婦になるなら
王女殿下が泣いたあと、私は三時間ほど眠った。
正確には、処置室の隣にある休憩室の椅子で気を失った。
目を覚ますと、肩に毛布がかかっていた。
隣の椅子ではアルノーも同じ格好で眠っている。たぶんミレーナがかけてくれたのだろう。
私は自分の左手首を見た。
何もない。
婚姻紋は消えたままだった。
でも不思議と、前ほど寂しくない。
昨夜、私は必要な時にアルノーへ頼んだ。彼も私に頼んだ。
魔法の紋がなくても、相手が何を考えているか勝手に決めなくても、私たちはちゃんと一緒に戦えた。
それで十分だった。
◇
旧い母子祝福網のうち、人や施設へ無断で負荷を流す経路は、その日のうちに停止された。
祝福そのものまで一度に捨てれば、今度は必要な母子が危険になる。そこで当面は魔力槽を増設し、足りない時だけ、前夜と同じ同意式の共有治癒を使うことになった。
王女殿下の容体は安定し、各地の母子にも大きな後遺症は出なかった。
地下資料庫の記録は公表された。
王太子殿下は産院まで来て、被害者と治癒師たちの前で頭を下げた。王家は調査と補償を受け入れ、包括同意の規定も凍結された。
もちろん、それで過去が消えるわけではない。
マルガレータ先生は院長を退き、審問を受けることになった。
最後に会った日、先生は私に言った。
「夫が自分で選んだことを、私はいつの間にか、他の人にも選ばせていい理由にしていたのね」
すぐには返事ができなかった。
「先生のご主人の選択が愛だったことと、先生がしたことは別です」
「ええ。あなたに言われた通りだったわ」
先生は目を伏せた。
許したわけではない。
でも、間違いを認めるところからしか、やり直せないのだと思う。
それは私も同じだった。
◇
半年後。
私は王立産院の裏手にできた新しい建物の前に立っていた。
看板には、『共有治癒研究室』とある。
室長は私。
研究員は七人。そのうち一人は軍治癒院から週三日だけ来る。
「室長」
後ろから声がした。
アルノーだった。
「遅いです」
「五分前だ」
「私は十分前に来ています」
「それを遅刻とは言わない」
「気持ちの問題です」
「理不尽だな」
笑いながら、彼が紙袋を差し出した。
朝食だ。
前なら、私が忙しい日は勝手に机へ置いていただろう。
今は、「食べる?」と聞く。
「食べます」
受け取る。
こういうことが増えた。
彼が聞く。私が答える。
私も聞く。彼が答える。
とても面倒だ。
でも、前よりずっと楽だった。
研究室の壁には規則が貼ってある。
『共有治癒は、血縁、婚姻、身分によって自動的に許可されるものではない』
『負荷量は、参加者本人が決定する』
『同意はいつでも撤回できる』
そして第四規則。
『「大丈夫」と言われても、必要ならもう一度確認する』
これはミレーナが勝手に足した。
私も反対しなかった。
「今日、仕事のあと時間ある?」
アルノーが聞く。
「あります」
「夕食に行かないか。その前に、少し寄りたいところがある」
「どこです?」
彼は答えなかった。
離婚後、何度も食事をして、休日に出かけて、半年かけて付き合い直して分かった。
アルノーが黙る時は、大抵何か考えている。
昔なら聞かなかった。
今は聞く。
「何を企んでるんです?」
「企んではいない」
「では何を」
「それは、その時に言いたい」
「私が嫌だと言ったら?」
「帰る」
即答だった。
それならいい。
「分かりました」
◇
連れて行かれたのは、七年前に結婚式を挙げた小さな神殿だった。
夕方で、人はいない。
祭壇の前でアルノーが止まる。
私はそこで、だいたい察した。
「エリサ」
「はい」
「もう一度、俺と結婚してほしい」
心臓が跳ねた。
予想していたのに、この人はこういう時だけ妙にまっすぐだ。
「理由を聞いても?」
「君が好きだから。一緒にいたい」
胸の奥が熱くなる。
アルノーは少し照れたように視線を外し、それでも続けた。
「前から好きだった。でも前の俺は、好きならそれで大切にできていると思ってた。違った」
私は黙って聞いた。
「今度は、好きだからこそ聞きたい。君がどうしたいのか」
昔なら、家を守ってほしい、支えてほしい、夫婦なら助け合おう。そんな言葉が続いたかもしれない。
今は違う。
「前と同じ結婚はしたくない」
「私もです」
「分けたいものは分けよう。一人で持ちたいものは、無理に奪わない。分からなければ聞く。答えを急がせない」
私は笑った。
「ずいぶん規則が多い結婚ですね」
「君が作った研究室よりは少ない」
「確かに」
アルノーが私を見る。
「どうする?」
昔の婚姻紋があった場所が、少しだけ熱くなった気がした。
急ぐ必要はない。
患者も待っていない。
誰も命令しない。
誰かを救うためでもない。
ただ、私がこの人ともう一度一緒にいたいか。
答えはもう分かっていた。
「私も、もう一度あなたを好きになりました。だから」
私は手を差し出す。
「もう一度、夫婦になりたいです」
アルノーが笑った。
七年前の結婚式では見たことがないくらい、嬉しそうに。
「返事、今でよかったのか?」
「私が今答えたかったんです」
「そうか」
「それから」
「まだある?」
「あります」
私は少しだけ背伸びをした。
「キスしていいかは、聞かないんですか」
アルノーが固まったあと、笑った。
「聞いていい?」
「はい」
今度のキスは、七年前の誓いよりずっと短くて、ずっと私のものだった。
◇
さらに二か月後。
同じ神殿で、小さな再婚式を挙げた。
新しい婚姻紋は、昔のものと少し違う。
常に繋がる術式は使わない。どちらかが接続を求め、もう一方が受け入れた時だけ、二つの紋が光る。
神官が言った。
「試してみますか?」
アルノーが私を見る。
「開いていい?」
「ええ」
左手首に淡い銀の光が灯り、少し遅れて彼の手首にも光が走った。
痛くない。重くない。ただ、温かい。
参列していた王太子妃の腕の中で、王女殿下がきゃっと笑った。
あの日、声も出せなかった赤子が、今は元気に私たちを見ている。
式のあと、アルノーが手を差し出した。
私はその手を見てから、彼を見る。
「これは聞かないんですか」
「手をつなぐのも?」
「冗談です」
私から握った。
七年前、私は夫婦になれば何でも分かり合えると思っていた。
違った。
分からなければ聞けばいい。
頼みたい時は頼めばいい。
嫌なら断っていい。
そして、好きなら、何度だって選び直していい。
私の手の中で、アルノーの指がそっと握り返す。
婚姻紋が光るより先に、私はその温かさを知っていた。
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