表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
側妃位を返上した翌日から、陛下が私の茶を探して後宮を彷徨っています   作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/10

第10話 対等の伴侶として

東の障子が、うっすら白み始めていた。


釜のひと杯分の湯が、ようやく、静かに沸いた。


わたくしは、棚から、ひとつだけ、茶杯を出した。側妃の頃に使っていた白磁ではなかった。紅家の、もう少し肌の厚い、古い器だった。わたくしが幼かった頃、客ではなく、家の者同士のために使っていた類の、杯だった。


雲南の春茶を、軽めに、量った。


湯を、細くひと筋で、落とした。


湯気が、朝の障子の光のほうへ、斜めに、上った。


ひと息、置いて、口に運んだ。


——あ、あたたかい。


そう、思った。


この一杯を、わたくしは、朝餉の膳のどの上座にも、運ばなくてよかった。机の右端にも、筆立ての手前にも、どこにも、運ばなくてよかった。


自分の、膝の前で、自分の、速さで、冷めていった。


冷めていくのを、わたくしは、そのまま、見ていた。


——決まった。


答えは、湯が冷めきる前に、体のほうに、収まっていた。


  * * *


朝餉のあと、父と、縁側で向かい合った。


父は、湯呑に両手を添えたまま、わたくしが口を開くのを、待っていた。


「お父様」


「うん」


「宮には、戻ります」


父が、湯呑を、膝の上に下ろした。


「ただし、妃の位には、就きません」


「うむ」


「紅家の、茶師として。——陛下のお側には、私的な顧問として、お仕えいたします。紅家の家の格で、参ります」


父は、しばらく、庭のほうを、見ていた。


庭の梅が、もう、花を散らし始めていた。紅い花びらが、ひとひら、縁側の板の縁に、落ちていた。


「……わかった」


父は短くそう言うと、立ち上がり、奥の蔵のほうへ下がっていった。


しばらくして戻ってきたときには、両手に、黒漆の古い茶箱を抱えていた。


箱の蓋の縁に、紅家の紋が、浅く、彫り沈められていた。漆は、角のところで、わずかに剥げていた。——長く、使われてきた箱だった。


「紅家の当主が、都の、折り目の場に、出るときに、持つ箱だ」


父は、茶箱を、わたくしの前に、置いた。


「お前の代で、これを、使え」


「お父様」


「当主ではない。——お前は、紅家の茶師だ。けれど、これを持って都へ上がる資は、お前にある」


父の手が、箱の蓋に、ひと度だけ、触れた。父の年老いた掌の感触を、箱の漆が、受け止めていた。それを、わたくしに、譲るための、最後の触れ方だった。


「……頂戴、いたします」


両手で、箱を、受け取った。


重さが、思ったよりも、あった。


思ったよりも、ということは、代々の誰かの重さが、もう箱の中に入っていたということなのだろう。


  * * *


都の門を、紅家の茶箱を抱えて、くぐった。


後宮の方角には、行かなかった。


外朝の、いちばん端にある、小さな一室に、通された。日当たりのよい、静かな部屋だった。前は、書庫の予備の間だったと聞いた。書棚は、運び出されていた。新しい畳の匂いがした。


「——紅家茶師、紅 蘭蘭 殿の、執務の間にございます」


侍従が、そう告げた。


わたくしは、黒漆の茶箱を、卓のうえに、下ろした。


ひと呼吸。


ここは、後宮ではない。


ここは、城下でもない。


わたくしが、自分の足で、立ちに来た、場所だった。


  * * *


翌朝、その部屋に、景琰さまが、お見えになった。


昨日のうちに、伝えを頂戴していた。朝議の前、ひと刻だけ、という短い時間だった。


わたくしは、朝の茶の支度を、整えていた。


雲南の春茶。軽めに。湯は、いつもの朝より、ほんの少しだけ、熱く。


昨夜の都の、冷えが、まだ、瓦のうえに、残っていた。


景琰さまは、侍従を外に控えさせて、部屋に入ってこられた。昨日の紅家で拝見した装束とは、違った。政務の装束だった。ただ、袖の折り目のところに、ご自身で一度、軽く触れて整えられた跡があった。


向かい合って、膝を折った。


「——おはようございます」


「……おはよう」


声が、十年のどの朝にもなかった穏やかさを、帯びていた。


茶を、差し上げた。


景琰さまは、茶杯を、両手で、受けられた。


包帯は、もう、取れていた。指の腹の、赤みも、ほとんど、引いていた。


ひと息、啜られた。


「——今朝の、茶だ」


「はい」


「雨夜の、茶ではない」


「はい」


「朝の、お前の、茶だ」


「……はい」


景琰さまは、茶杯を、卓に置かれた。


置き方が、雨夜の夜の、縁側で盆を戻された、あのときの置き方と、似ていた。ただ、あのときよりも、ほんの少し、静かだった。


「蘭」


「はい」


「——愛している」


朝の光が、障子越しに、畳の縁を、静かに、渡っていた。


どこかで、雀が、ひと声、鳴いた。


わたくしは、膝の上の、両の手を、重ねた。


十年の長さを、もう一度、自分の体の、奥のほうで、畳み直した。畳み直して、畳みきって、それから、言葉にした。


「——十年」


「うん」


「気づかせずに、申し訳ありませんでした」


景琰さまの目が、ひと瞬きの、あいだ、止まった。


それから、ゆっくりと、ゆるんだ。


「——私のほうこそ」


「はい」


「気づけずに」


「……」


「今度は、——私が、淹れる番だ」


景琰さまは、そう仰せになって、茶杯を、ふたたび、ご自身の手に、取られた。


釜のほうへ、膝で、進まれた。


柄杓の持ち方が、前回よりも、ほんの少しだけ違っていた。手首の角度が変わっていた。誰かに習われたのか、あるいはご自身で幾度か練習なさったのか、わたくしにはわからなかった。


湯を、ゆっくり、茶杯の縁から、落とされた。


今度は、指には、掛からなかった。


落ちる湯が、茶葉の上を、細くひと筋で渡った。


——お上手になられた。


口には、出さなかった。


口に出せば、景琰さまが、耳を、赤くしてしまわれるような気が、した。


差し出された茶杯を、両手で、受けた。


ひと息、啜った。


——熱が、強かった。湯を、少し、長く落としすぎたのだろう。配合の葉の量が、ほんのわずか、多かった。


渋さが、口の奥で、一瞬だけ、立った。


わたくしは、笑わなかった。


笑わずに、飲み切った。


景琰さまが、わたくしの、顔を、見ておられた。


「……今朝の、景琰さまの、茶でございます」


「うむ」


「いただきます」


「……うん」


景琰さまは、自分の指先を、ご自身で、見つめておられた。湯のかからなかった指を、もう一方の手で、そっと、包んでおられた。


朝の光が、茶杯のあいだのふたつの湯気を、ゆっくりとひとつに合わせていった。


雀が、もう一度、鳴いた。


声に、昨日よりも、張りが、あった。


わたくしは、景琰さまの淹れてくださった、少しだけ渋い茶の最後のひと口を、静かに飲み干した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
元鞘になったが、女々しい男は何の責任も負担も負わない。  モヤるねぇ~。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ