第10話 対等の伴侶として
東の障子が、うっすら白み始めていた。
釜のひと杯分の湯が、ようやく、静かに沸いた。
わたくしは、棚から、ひとつだけ、茶杯を出した。側妃の頃に使っていた白磁ではなかった。紅家の、もう少し肌の厚い、古い器だった。わたくしが幼かった頃、客ではなく、家の者同士のために使っていた類の、杯だった。
雲南の春茶を、軽めに、量った。
湯を、細くひと筋で、落とした。
湯気が、朝の障子の光のほうへ、斜めに、上った。
ひと息、置いて、口に運んだ。
——あ、あたたかい。
そう、思った。
この一杯を、わたくしは、朝餉の膳のどの上座にも、運ばなくてよかった。机の右端にも、筆立ての手前にも、どこにも、運ばなくてよかった。
自分の、膝の前で、自分の、速さで、冷めていった。
冷めていくのを、わたくしは、そのまま、見ていた。
——決まった。
答えは、湯が冷めきる前に、体のほうに、収まっていた。
* * *
朝餉のあと、父と、縁側で向かい合った。
父は、湯呑に両手を添えたまま、わたくしが口を開くのを、待っていた。
「お父様」
「うん」
「宮には、戻ります」
父が、湯呑を、膝の上に下ろした。
「ただし、妃の位には、就きません」
「うむ」
「紅家の、茶師として。——陛下のお側には、私的な顧問として、お仕えいたします。紅家の家の格で、参ります」
父は、しばらく、庭のほうを、見ていた。
庭の梅が、もう、花を散らし始めていた。紅い花びらが、ひとひら、縁側の板の縁に、落ちていた。
「……わかった」
父は短くそう言うと、立ち上がり、奥の蔵のほうへ下がっていった。
しばらくして戻ってきたときには、両手に、黒漆の古い茶箱を抱えていた。
箱の蓋の縁に、紅家の紋が、浅く、彫り沈められていた。漆は、角のところで、わずかに剥げていた。——長く、使われてきた箱だった。
「紅家の当主が、都の、折り目の場に、出るときに、持つ箱だ」
父は、茶箱を、わたくしの前に、置いた。
「お前の代で、これを、使え」
「お父様」
「当主ではない。——お前は、紅家の茶師だ。けれど、これを持って都へ上がる資は、お前にある」
父の手が、箱の蓋に、ひと度だけ、触れた。父の年老いた掌の感触を、箱の漆が、受け止めていた。それを、わたくしに、譲るための、最後の触れ方だった。
「……頂戴、いたします」
両手で、箱を、受け取った。
重さが、思ったよりも、あった。
思ったよりも、ということは、代々の誰かの重さが、もう箱の中に入っていたということなのだろう。
* * *
都の門を、紅家の茶箱を抱えて、くぐった。
後宮の方角には、行かなかった。
外朝の、いちばん端にある、小さな一室に、通された。日当たりのよい、静かな部屋だった。前は、書庫の予備の間だったと聞いた。書棚は、運び出されていた。新しい畳の匂いがした。
「——紅家茶師、紅 蘭蘭 殿の、執務の間にございます」
侍従が、そう告げた。
わたくしは、黒漆の茶箱を、卓のうえに、下ろした。
ひと呼吸。
ここは、後宮ではない。
ここは、城下でもない。
わたくしが、自分の足で、立ちに来た、場所だった。
* * *
翌朝、その部屋に、景琰さまが、お見えになった。
昨日のうちに、伝えを頂戴していた。朝議の前、ひと刻だけ、という短い時間だった。
わたくしは、朝の茶の支度を、整えていた。
雲南の春茶。軽めに。湯は、いつもの朝より、ほんの少しだけ、熱く。
昨夜の都の、冷えが、まだ、瓦のうえに、残っていた。
景琰さまは、侍従を外に控えさせて、部屋に入ってこられた。昨日の紅家で拝見した装束とは、違った。政務の装束だった。ただ、袖の折り目のところに、ご自身で一度、軽く触れて整えられた跡があった。
向かい合って、膝を折った。
「——おはようございます」
「……おはよう」
声が、十年のどの朝にもなかった穏やかさを、帯びていた。
茶を、差し上げた。
景琰さまは、茶杯を、両手で、受けられた。
包帯は、もう、取れていた。指の腹の、赤みも、ほとんど、引いていた。
ひと息、啜られた。
「——今朝の、茶だ」
「はい」
「雨夜の、茶ではない」
「はい」
「朝の、お前の、茶だ」
「……はい」
景琰さまは、茶杯を、卓に置かれた。
置き方が、雨夜の夜の、縁側で盆を戻された、あのときの置き方と、似ていた。ただ、あのときよりも、ほんの少し、静かだった。
「蘭」
「はい」
「——愛している」
朝の光が、障子越しに、畳の縁を、静かに、渡っていた。
どこかで、雀が、ひと声、鳴いた。
わたくしは、膝の上の、両の手を、重ねた。
十年の長さを、もう一度、自分の体の、奥のほうで、畳み直した。畳み直して、畳みきって、それから、言葉にした。
「——十年」
「うん」
「気づかせずに、申し訳ありませんでした」
景琰さまの目が、ひと瞬きの、あいだ、止まった。
それから、ゆっくりと、ゆるんだ。
「——私のほうこそ」
「はい」
「気づけずに」
「……」
「今度は、——私が、淹れる番だ」
景琰さまは、そう仰せになって、茶杯を、ふたたび、ご自身の手に、取られた。
釜のほうへ、膝で、進まれた。
柄杓の持ち方が、前回よりも、ほんの少しだけ違っていた。手首の角度が変わっていた。誰かに習われたのか、あるいはご自身で幾度か練習なさったのか、わたくしにはわからなかった。
湯を、ゆっくり、茶杯の縁から、落とされた。
今度は、指には、掛からなかった。
落ちる湯が、茶葉の上を、細くひと筋で渡った。
——お上手になられた。
口には、出さなかった。
口に出せば、景琰さまが、耳を、赤くしてしまわれるような気が、した。
差し出された茶杯を、両手で、受けた。
ひと息、啜った。
——熱が、強かった。湯を、少し、長く落としすぎたのだろう。配合の葉の量が、ほんのわずか、多かった。
渋さが、口の奥で、一瞬だけ、立った。
わたくしは、笑わなかった。
笑わずに、飲み切った。
景琰さまが、わたくしの、顔を、見ておられた。
「……今朝の、景琰さまの、茶でございます」
「うむ」
「いただきます」
「……うん」
景琰さまは、自分の指先を、ご自身で、見つめておられた。湯のかからなかった指を、もう一方の手で、そっと、包んでおられた。
朝の光が、茶杯のあいだのふたつの湯気を、ゆっくりとひとつに合わせていった。
雀が、もう一度、鳴いた。
声に、昨日よりも、張りが、あった。
わたくしは、景琰さまの淹れてくださった、少しだけ渋い茶の最後のひと口を、静かに飲み干した。




