第9話 二人で解く問題
朝の公示は、紙の縁が、まだ乾ききっていなかった。
都の印房から、夜のうちに刷られたばかりのものが、紅家の門に届いたのだった。墨の香が、薄紙越しにも立つほど、新しかった。
父が、玄関の上がり口で、束を広げた。わたくしは、父の斜め後ろから、覗いた。
『白 麗華前皇后、失徳により廃位。北の離宮へ遷御を命じ賜う。
白 巌前宰相、公金取り扱いの不法により爵位剥奪。辺境謫居を命じ賜う』
父は、紙束を畳んだ。畳んで、上がり口の框の上に、きちんと揃えて置いた。
「——白家は、これで」
父の声が、落ち着いていた。
「終わった」
わたくしは、床の式台の木目を、見ていた。
怒りも、安堵も、勝鬨も、——どれも、すぐには湧いてこなかった。
ただ、——離宮の冬は、寒かろうな、と、思った。
北の離宮の冬の寒さを、わたくしは知らない。ただ、側妃の頃、火鉢の炭を増やす折に、女官たちが「北の離宮に回す備えも、ここでまとめて」と話していた言葉を、覚えていた。あの人たちが北へ送る炭が、今年は、麗華様の手元にゆくのだ。
こういうものだという感慨と、こういうものではないという感慨とが、わたくしのなかでしばらく混ざり合った。
* * *
その同じ朝に、もう一通、文が届いた。
朝廷の正式の布でくるまれた、公式の請招だった。
父の手のなかで、開かれた文には、思いがけないことが、書かれていた。
「——陪席、と」
父が、二度、目を走らせた。
「桂国との、最終協議の、最終の席。陪席を、紅家茶師として、と」
わたくしは、膝を、折りなおした。
陪席。——協議の場に、茶師として、公式に、居並ぶ。
前例のない扱いだった。茶事院の者が、儀礼の茶を供することは、当然、ある。ただ、それは「供する」であって、「陪席する」では、ない。陪席には、議の末席に、その者の存在を認めるという含みが、ある。
父は、文を畳み、わたくしの膝の前に置いた。
「——お前の、好きに決めよ」
「お父様」
「紅家としては、受ける」
父は、それだけ言うと、書斎のほうへ、立ち上がった。廊下の途中で、ふと足を止めて、振り返らずに、言い足した。
「——装束は、紅家の紋の入ったもので、参れ」
* * *
昼、宮廷の門を、わたくしは紅家の装束でくぐった。
紅の家紋を、袖口と肩に、薄く入れた。側妃の頃の正装とは、布の質も、紋の位置も、違った。出てゆくときと、戻ってきたときで、同じ門が、違う門に見えた。
協議の間に通された。
上座に、景琰さまが、お立ちになっていた。
眉のあいだの刻みが、昨日より、少しだけ浅かった。
桂国の使節団が、向かいに着座した。中ほどに、李澪殿がいらした。黒い冠の下の、落ち着いた眼差しで、こちらを、ひと目、見られた。わたくしと李澪殿の目が、ひと瞬きだけ、合った。
——覚えていらっしゃる。
十二年前の、春の茶会の目と、同じ目だった。
儀礼のやり取りが、型どおりに進んだ。両国の官吏が、条項を読み上げ、確認を重ねた。わたくしは、末席の、陛下の右手斜め後ろに、膝を折って、茶器の支度を整えていた。
協議が、関税の端数の扱いに入ったあたりで、李澪殿の姿勢が、わずかに、変わった。
椅子の背に、肩が寄り始めていた。卓の上で、筆を持たぬほうの手の指先が、ひと息に二度、軽く震えた。
昼餉の後だった。宿舎からの道のりも、ある。——お疲れだ。
お疲れを、悟られたくないときに、人は、肩を背に預ける。声の張りを、先に整える。先に整えたぶん、細部の判じに、ひと手間が、余計にかかる。
わたくしは、支度していた春の茶の盆を、静かに、李澪殿の卓の端に、置いた。ぬるめの湯で、香りの立つ配合。棗は、入れなかった。重くせぬように。
置いて、下がりながら、——景琰さまのほうへ、目を、上げた。
景琰さまは、わたくしを、見ておられた。
わたくしは、軽く、李澪殿のほうへ、視線を向け直した。それから、景琰さまの、その視線に、ひとつだけ、頷くように、瞬きを返した。
景琰さまの眉のあいだが、ほんの少し、ゆるんだ。
「——端数の扱いにつきましては」
景琰さまの声が、そこから、変わった。
押し切る声では、なかった。折り目を、ひとつ深くして、相手の息の長さに合わせるような、間の取り方だった。
「本朝は、本年の収穫量の揺れを鑑み、閾の幅を、広く設ける用意がございます」
李澪殿の指が、卓の上で、一度、止まった。
桂国の官吏が、小さく目を見合わせた。
「……その閾幅を、書面に、頂戴できましょうか」
「用意してございます」
景琰さまは、脇の者に、すでに控えていた紙束を回させた。李澪殿は紙束を手に取り、ひと目走らせた。それから卓のうえで、両手をもう一度、静かに組み直された。
組み直される所作が、先ほどまでより、わずかに、安らかだった。
——安心を、差し上げれば、譲歩は、引き出せる。
焦らせて、押し切るのではなく、ゆっくりと、相手の息が整うのを、待つ。景琰さまはもう、わたくしの茶を飲まずとも、その手順をご自身の筆で書いてゆかれた。
協議は、日の傾く前に、骨子がまとまった。血は、一滴も、流れなかった。
* * *
退出の折、李澪殿が、廊下で、わたくしに、ひと言、声をかけられた。
「——よい、茶でございました」
「お粗末、さまでございました」
「十二年前の席で、頂戴した味と、同じでした」
わたくしは、深く、頭を下げた。頭を下げる背中に、李澪殿の気配が、静かに、遠ざかっていった。
* * *
内廷の、奥の一室に、景琰さまと、ふたりだけになった。
侍従が、障子の外で、控えていた。
景琰さまは、椅子に腰を下ろされるより先に、こちらを、見ておられた。
「——蘭」
「はい」
「廃位のことは、——聞いたな」
「はい」
「今朝、北の離宮の冬の炭の割当を、私は、ひとつ増やさせた」
「……」
景琰さまは、一度、目を伏せられた。
「麗華の、父の謫居のほうは、——私には、どうにもしてやれぬ。法は、法だ」
「はい」
「——そのうえで」
景琰さまの目が、わたくしを、まっすぐ、見た。
「お前に、願いがある」
「……はい」
「正妃の位では、ない。紅家の娘でも、ない。——紅家 蘭蘭として、私の隣に、立ってほしい」
わたくしは、しばらく、答えなかった。
庭のどこかで、夕の鳥が、ひと声、鳴いていた。
「——ひと夜」
「うむ」
「考えさせて、くださいませ」
「うむ」
景琰さまは、それ以上は、仰せにならなかった。
夕の光が、内廷の障子を、黄色く染め始めていた。
* * *
紅家の茶室に、戻ったのは、夜だった。
父が、縁側に、灯りだけを点して、戻ってきていた。わたくしの顔を見て、何も訊かず、「夕餉は、あとに」とだけ言って、下がっていった。
茶室の畳に、座り直した。
——隣、と、景琰さまは、仰せになった。
第二の手紙のときと、同じ言葉だった。ただ、今日の「隣」は、場所の話では、なくなっていた。
妃の房でも、執務室でも、ない。協議の間で、目配せだけで、意が通う場所のことだった。
釜に、水を張った。
ひと杯分だけ。
「自分のために、お茶を」——離れた日の夕、父に言ったあの言葉を、わたくしは今また、自分のために繰り返した。
火を、ゆっくり、起こした。
答えは、まだ、出ていなかった。出ていないということの重さを、今夜のわたくしは、ちゃんと自分で抱えていられた。
沸きはじめる音を、待ちながら、障子のほうへ、目をやった。
東の空が、ほんの少し、白み始めるまでには、まだ、時が、あった。




