第8話 火傷と包帯
茶室の朝の支度を、わたくしは自分の手で整えた。
夜のあいだ沸かし続けた釜の湯を、すべて庭に流し、新しい水を汲み直した。畳に置いていた紙は、ひとまず袖に納めた。炭を熾し直し、灰を均した。茶杯を改めて拭いた。
紙には、結局、返書は書かなかった。
代わりに、父に、短い伝を託した。
「茶室にて、ひと夜のお運びを頂戴したく」
父は、少し目を伏せて、それから「わかった」と言った。書式のことは、父が朝廷の窓口に対して整えた。わたくしの言葉は、紅家から内廷への、私的な茶席への招きの形で、都へ送られた。
「——公の席では、ないのだな」
「公には、いたしません」
「向こうも、そう受け取るだろうな」
「はい」
父は、それ以上は問わなかった。
* * *
昼過ぎ、庭のほうから、馬の気配がした。
従者の数は、わたくしが想像したより、ずっと少なかった。裏の門から通されたのだと、後になって知った。
茶室の障子を、今朝は開けておいた。縁側に、履き物が置かれた。
——ずいぶん、控えめな履き物だった。
十年、廊で見ていた履き物とは、違った。お忍びの装束の足元だった。
わたくしは、茶室の入口で、膝を折った。
「——よくぞ、お越しくださいました」
顔を、上げた。
雨夜の障子を隔てて聞いた声の人が、そこに、いた。
十年見ていた顔だった。同じ顔だった。
ただ、眉のあいだが、十年のどの朝よりも、深く刻まれていた。
「……来たよ」
その人は、茶室の畳に、靴を置いた足で入ることを躊躇した。侍従が履き替えの足袋を捧げた。履き替えて、入ってこられた。わたくしは、膝を折ったまま、先に入るよう促した。
畳の上で、向かい合った。
十年、距離があったぶん、近かった。
* * *
「——十年」
わたくしは、膝の上で、両手を揃えた。
「お仕え申し上げました」
「うむ」
「申し上げるのが、遅うございますが、——」
声が、思ったよりも、掠れていた。
「陛下のことを、お慕い申し上げておりました」
言い切った。
言い切ったあとで、耳が、熱くなった。
茶室の畳の目が、妙に、くっきりと見えた。
その人は、黙って、わたくしを見ていた。目を、逸らさなかった。
「……私も」
低い声だった。
「自分で気づいたのは、——お前が、いなくなってからだ」
沈黙があった。
「倒れたそうですね」
「倒れた」
「原因は、——」
「皇后の茶だ」
短く、言われた。
わたくしは、そのひと言を、胸の奥のほうで、ゆっくりと下ろしていった。予感はあった。けれど、耳で直にそう言い渡されて、ようやく、事実の重さの全部を、受け取った気がした。
「——私は、十年、お前の茶を、習慣だと思っていた」
「はい」
「途中から、習慣ではない、と、気づきかけていた時期があった」
「……」
「気づかぬ顔をしていたのは、——気づいてしまえば、朕の、皇帝としての矜持が、保てなくなる気がしたからだ」
畳の目が、もう一度、くっきり見えた。
「お前の茶を、朝の務めにしていたのは、私のほうだった」
「陛下」
「——景琰、と、呼んでくれぬか」
わたくしは、しばらく、目を伏せた。
諱を、呼ばれることと、呼ぶことは、同じではなかった。雨夜の障子越しに、そのお名を耳で聞いたときの震えを、わたくしは、まだ覚えていた。
目を上げた。
「景琰さま」
呼べた。
言葉が、咽喉のどこかに、小さく引っかかって、それから、畳の上へ、落ちた。
「……ありがとう」
景琰さまは、そう短く、言われた。
* * *
「今度は、私が淹れる」
そう仰せになって、景琰さまは、釜のほうへ、膝で進まれた。
わたくしは止めかけて、止めなかった。止めてはならぬ、と、体のほうが、先に判じていた。
景琰さまが、柄杓を手にされた。
持ち方が、ぎこちなかった。あの、政務の決裁の筆を持つ手と、同じ手とは思えなかった。
湯を、茶杯の縁から、直に注ごうとされた。
「——あ」
声を、出したのは、わたくしのほうだった。
熱湯が、柄杓の端から、少しだけ、景琰さまの指の腹に、落ちた。
景琰さまは、柄杓を置かれた。置き方は、存外、静かだった。自分の指を、ご自身で、見下ろしておられた。
指の腹が、うっすらと、赤くなっていた。
わたくしは、畳を膝で滑り、景琰さまの手を、両の手で取った。
「——失礼、申し上げます」
懐から、薄い白い布を出した。冷たい水を、釜の端の水指から、そっと含ませた。
赤くなった指の腹に、布を当てた。
景琰さまは、黙っていらした。
布が、熱を吸った。吸って、少し湿った。
もう一枚、取り出した。今度は、乾いたまま、指に巻いた。巻きながら、わたくしの指が、何度か、震えた。
布の端を、結び目にする段で、指が、うまく動かなかった。ひと結び、やり直した。
「……不器用だな」
景琰さまが、ぽつりと、仰せになった。
「どちらが、でございます」
「お前も、——私も」
ふ、と、どこかで息が短く抜けた。わたくしの喉からだったか、景琰さまの胸元からだったか、わからなかった。
* * *
茶室の外で、低い咳払いが、ひとつ、した。
侍従だった。縁側に、控えておられたらしい。
「——お嬢さま」
「はい」
「ご無礼を、承知の上で、ひと言、申し上げて、よろしうございますか」
「どうぞ」
侍従は、障子越しに、声を落とされた。
「陛下は、お嬢さまがお発ちになって以来、朝の執務室で、お茶を召し上がらぬ折に、ひと声、『蘭』、と、——お呟きになる日が、ございました」
「……」
「朝議の日は、窓の前に、長く、お立ちでございました。どの日も、お昼を、お召し上がりになりませんでした」
「……」
「ご無礼、申し上げました。——以降、控えまする」
侍従の気配が、縁側の先へ下がった。
茶室には、また、わたくしと景琰さまの、ふたりだけが、残った。
景琰さまは、包帯を巻かれた指を、膝のうえで、そっと、逆の手で包んでおられた。視線を、落としておられた。
わたくしは、両の手を、膝のうえに戻した。
——一粒。
ひとつ、だけ、頬を、冷たいものが、伝った。
拭わなかった。
拭えば、認めることになる気がした。認めてしまえば、ここから先、わたくしは、逆に、取り乱してしまうと、わかっていた。
* * *
「お淹れ直しを、いたします」
声が、少し、落ち着きを取り戻していた。
雨夜の配合では、なかった。雨の夜の冷えに合わせる茶は、もう、ここにはいらない。
春の、昼下がりの、朝から夜へ渡っていく途中の、その一刻に合う配合。葉を軽く、湯をぬるく。景琰さまの指の熱を、奪わぬように。
茶杯に、静かに落とした。
差し出した。
景琰さまは、包帯を巻いた手ではないほうで、杯を取られた。
ひと息、啜られた。
目を、閉じられた。
「——この味だ」
低く、仰せになった。
「覚えている」
「はい」
「雨夜の、茶ではないな」
「はい」
「……朝の、茶でもない」
「いまの、茶でございます」
「そうか」
景琰さまは、もうひと息、啜られた。
そのあいだ、茶室の中で、春の午後の光が、畳の縁を、ゆっくりと、移っていった。
* * *
日が、西の山に、傾き始めた頃、景琰さまは、お立ちになった。
「——蘭」
「はい」
「返事は、——急がぬ」
「お気遣い、いただきまして」
「急がぬ代わりに、——待つ」
「……はい」
景琰さまは、懐から、小さな紫紺の絹の包みを、取り出された。
——見覚えが、あった。
離れた朝、執務机の上に、置いてきた、紅家の絹だった。
「これを、返すものではない」
景琰さまは、絹を、もう一度、懐に、戻された。
「……預かっている、とだけ、言っておく」
それだけ仰せになって、景琰さまは、茶室を退かれた。
侍従の気配と、馬の気配とが、裏門のほうへ、遠ざかっていった。
茶室には、淹れた茶杯と、空の茶杯と、——わたくしの手の中の、白い布の、結び目のあまりだけが、残った。
* * *
障子を、閉めた。
畳の前に、座り直した。
——明日の朝の、お茶の、配合を。
指先が、自然と、動いていた。雲南の春茶を、軽く。棗は、今朝は、外す。ぬるい湯を、細く、ひと筋ずつ——
止めなかった。
止める理由が、今朝ほどには、見つからなかった。
茶室の外で、春の夕の鳥が、ひと声、鳴いた。
声に、張りが、戻り始めていた。




